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まことの心

 腕に違和感があって目を覚ました。うっすらと開いた目の隙間、ぼんやりと、真黒い蟲のようなものが腕の周りでのたうち回っている、とわかった。意識がそれに叩き起こされるのと、叫び声が上がるのとが、ほとんど同時だった。そうして腕をなんとかしようとばたばたしているうちに、少しずつ、自身の置かれた状況を理解していった。鏡に映る端整な顔立ち。天気もよく、暑すぎもしない、ふつうの日の昼下がりに、俺はアシタカになってしまった。

 アシタカになってしまったからには、アシタカ然とした格好をせねばならない。なぜなら俺は、アシタカだから。それから、家中の服を漁って、どうにかこうにか体裁を整えることができた。冬物を多く使ったせいか、少々暑い。防災ずきんのようなあれはニット帽で代用した。なんとか収まった腕には、バスタオルを幾重にも巻き付けておいた。ともかく、赤いカーディガンと青いシャツを着用している以上、客観的にも、アシタカという自身の存在に揺らぎはないだろう。不意にある衝動に駈られる。
「ヤックル」
声とも音ともつかない何かが、自然に口から放たれた。それから窓の方を見やると、ちょうどヤックルが窓をぶちやぶって部屋に入ってくるところだった。硝子の破片がきらびやかに飛び散る。そうだ、俺には行かねばならないところがあった。

 大学はどよめいていた。どうやら、二限の教室にアシタカがいる、という情報が、ソーシャルメディアを通じて知れわたってしまったようだった。講義が終わると俺を中心にたちまち人だかりができて、動くこともままならなくなった。写真を撮る音が四方から聞こえる。俺は駐輪場に待たせてあるヤックルのことが心配になった。人混みと共に行きながら駐輪場に着くと、大学の用務員とヤックルが揉めていた。大学構内に侵入してきた動物をなんとかどこかへやりたい用務員と、俺の命を忠実に守ろうとするヤックルとが、押し合いという形で争っていた。何とかせねば。使命感が俺を突き動かした。
「ヤックル」
ヤックルはすぐに俺のそばにやって来た。用務員の男と正面の人だかりを、きれいになぎ倒して。

 こんなことが続くもんだから、一週間もする頃には、あの動物は人を殺しかねない、という噂が、まことしやかに囁かれるようになった。いつも俺につきまとう女の子達でさえ、俺がヤックルに跨がっている時と祟り神の呪いが暴れているときは決して近付こうとはしなかった。俺は次第にヤックルと距離をおくようになった。そうすると移動に困るので自転車が欲しくなった。自転車!なんと魅力的なのだろう!細いタイヤと、ゴジラロック!いつしか自転車通学が当たり前となり、ヤックルは部屋のベランダに結びつけておくことが殆どになった。もはや俺に死角はない。俺は遊び歩くようになった。今日はタタラ場には帰らない、を落とし文句に、これと見たら見境なく手を出し始めた。それがまずかった。ある日、数人の男たちに囲まれた。どうやら、手を出すべきではないところにまで踏みいってしまったらしい。立ち向かってはみたが、アシタカといえど多勢に無勢、刀もないのでてんで歯が立たない。そのうち足を滑らせてしまい、地面に手をついてしまうと、その隙をつかれ囲まれ足蹴にされる。立ち上がろうとするもできない。袋叩きは続く。薄れる意識の中で、無意識に口からこぼれる。
「ヤックル」
だが、なにもやって来ない。当然だろう、と思った。アシタカはヤックルを棄てたのだ。これはしかたのないことなのだ。思えば俺がアシタカでなければ、こうはならなかったのだ。そうに違いない。そうしているうちに、体に力が入らなくなっていく。どこからか血が流れている。もうどうしようもない。その時、腕がざわつきはじめた。蟲のようなものがのたうち回っている、あの感覚。視界の端に何かが見えた。黒い塊が、蠢きながらこちらへ走ってくる。




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