見出し画像

人々の静かな暮らし

 ご飯をじょうずに食べる人たち。なるべく音を立てず、急がず品良く、自然な注意を払いながら器用に料理を嗜む人たち。彼らの食卓にはいくつもの静かなルールがあり、また彼らは、それらを如何に履行できるかをお互いに監視している。彼らの食卓における最もシンプルな異変は、そこに化け物がいることだ。白いクロスの円卓をぐるりと囲う大蛇は、カトラリーがかちゃかちゃと音を立てる様を鎌首を擡げて睨みつけ、失態を犯したものを丸呑みにする。彼ら彼女らは、お互いがそうならなければよいのにとも、そうなればいいのにとも思っている。化け物のいる食卓に座る人間は、やはりどこか化物じみていたりするもので、ぼくは時折、彼らは雰囲気を喰らう化け物なのではないかと考えたりする。

 ぼくは生憎そういった上品さを持たぬまま生きてきたので、ナイフとフォークではなく、串と割り箸によって、下世話な話を肴に安酒をあおるのが性に合っていた。実際ぼくは、上流階級特有の気が狂うほど整頓された食卓について、誇張ではなく「肌に合わない」と感じていた。酸っぱい葡萄、というわけではなく、葡萄の甘さは百も承知であるのだが、ただその甘い葡萄を食べるには自分はまだ早すぎる、というギャップの問題で、食卓を用意する金銭も食卓に着くだけの教養も持たないぼくが、卓を挟んで特別な食事をする場所となると、たとえば大衆酒場のような喧噪にまみれた空間に落ち着いてしまうのだった。実際、安酒場には蛇がいないというメリットもあった。料理はせわしなく乱雑に配膳され、間に合わせの食事をせかせかと平らげ、次へ、次へ、次へ。誰に視られているでもない。そこには有象無象の喧騒と、いやに発色の良い巨峰サワーの押しつけがましいデジタルな甘さがあるだけだった。

 ドトールやベローチェなどの、200円でお釣りのくるようなコーヒーチェーンには、どういうわけかやたら老人が多い。老人たちはみな決まって一番小さなコーヒーを頼んで、それを飲むでもなく机の上に放ったらかしで、なんでもない人の流れを一瞥したりして幾時間か過ごしているのだ。ぼくは当初、都心の喫茶店は郊外の診療所の役割を兼ねているのだろうかとも考えたが、喫茶店の老人たちはそれぞれが顔見知りというわけではなく、ただぼんやりと孤独な数時間を過ごしているだけだと理解し、認識を改めた。今、ぼくは老人たちが「近くに人間がある」という雰囲気を喰らっているのだろうと考えている。痩せ細った体躯で、誰彼構わず他人の気配を喰らう様は、餓鬼のそれにも感じられた。

 大衆酒場は、己の大衆性が保証されるのだろうか。否、保証ではない。大衆酒場は隠匿するのだ。でたらめな喧噪のなかで、個として埋もれてしまうことによってしか正気を保てないような、静けさのなかで己を品定めされることに堪えられない人間が、それぞれに群がり、それぞれに騒を発しながら、こそこそと酒に沈んでいく場所なのだ。ひとつの個として満ち足りた人間だけが、勇敢にも蛇と対峙できる。彼らの食卓は狩りでもあり、ゲームでもあるのだろう。彼らは物静かな肉食獣で、ぼくたちは草食獣にちがいなかった。どうしても埋没したいぼくは、円卓におびえながら安酒場を探し当て、喧噪のなかで巻き起こる「その他大勢」の雰囲気をやはり餓鬼のように喰らうのだった。



ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?