扶桑伝説の真相とは

うまくすれば、国レベルの次元上昇が見込まれた。いや、実際に次元上昇を果たして神仙郷の伝説になっていたかも知れないのが扶桑伝説。 それによれば >東海の青い海に浮かぶ扶桑という島に茂る、桑に似た巨大な神木。その幹は、二千人ほどの人びとが手をつないで囲むような太さをもつ。

>樹相がとても変わっていて、根が一つ、幹が二本、この二本の幹はたがいに依存しあい、絡みあって生長する。また、湯の湧く谷の上に扶桑があり、10個の太陽が湯浴みをするところである。水の中に大木があって、9個の太陽は下の枝にあり、上の枝には1個の太陽が今にも姿を現そうとしている。

>また、山の上に扶木がある。高さは300里、その葉は芥菜(からしな)のようである。そこにある谷は湯谷(湯のある谷)といい、上に扶木がある。1個の太陽がやって来ると1個の太陽が出ていく。太陽はみな烏を載せている。 烏が載る太陽神と思われる神々のご朱印。(福永晋三先生のビデオから借用)

扶木には10羽の烏が描かれるが
1羽の烏がひとつの太陽に対応しているわけだ

私は10個の太陽というところに、生命の木の10のセフィラを思ってしまうのです。その祭祀に重要な役割を示したのがニギハヤヒで、十種の神宝をもしかすると各セフィラにあてがい儀式をするのがふるべの神事の原義だったのではないか。 神武天皇への譲位から、三種の神器に置き換わったとみられます。

カバラの生命の木が扶桑樹の元になっているのか?

それは新政権のアイデンティティを表わすものであったと思われますが、どちらも常緑樹思想に基づく祭祀だったのです。 しかし、先の福永説によると、天武天皇の頃までの北九州地域だけで歴代天皇の歴史事実は証明できてしまうとのことで、邪馬台国論争だけでない本物証明がどうやら必要な様子です。

全くの仮説ですが、十種が三種になっている原因は、九州では正確な生命の木の配置ができなかったのかと思われます。まず真南北に構図が取れる場がなかった。そこで榊の枝を上中下にわけて同趣旨を貫いた。北九州で歴帝の歴史は刻まれたが、畿内では本格的なカバラ祭祀が秘密裡に執り行われていた。

つまり、大昔に次元のポータルを開けてしまうようなオカ的科学実験がなされていた可能性があるというわけです。このことは大陸側に知られてはならなかった。ゆえに蛮族の地の印象付けを図った。 『後漢書倭伝』には「会稽の海外に東鯷人あり。分かれて二十余国となる」のくだりあり。鯷=ナマズ。

卑弥呼のときも、未開の地の印象付けに納得して魏史は帰っている。本州のことは言わない。しかし、本州も九州も修験者装束の山人たちが駆け回っていた。彼らは地の利を心得た山のエキスパート。 ユダヤ教徒が来る前も同趣旨の人たちはいて、ほぼ仙人のようになっていたかも。それを引き継いだ。

それが先修験者で熟達者が天狗という存在であり、鷹羽天狗=鷹羽の神となった。英彦山の天狗はそうした人たちであり、審神者(サニハ)を行い、神と人との伝令役としての高木の神となった。いわばハイアーセルフという意味にもなる。高木の神=鷹羽の神でカラスを使う。ヤタガラスもそうではないか。

謎の東鯷国。そこでは銅鐸が作られていた。まるで錬金術師のようです。その一方で、日本(ヒノモト)という国もあったらしい。それは畿内にあったとか。そこにニギハヤヒと物部がやってきて、ナガスネヒコから統治権を奪い、神武東征により彼に譲位する。そこで畿内は当初から天皇のものだったとなるが、
福永説のように、天武までの歴帝の事業がすべて北九州で営まれていたとすればどうなるのか。天武の即位まで北九州で。そのときに畿内遷都のために九州で廃寺があり、畿内にそのときの資材が運ばれて再建に使われたとのこと。 魅力ある説ゆえこの二つの空間で成立したことを合理的にまとめると如何。

観測者によっては量子論的に異なった事実が観測される如しと言ってしまえばそれでお終いですが、北九州は実歴史の展開した場。畿内は仮想空間であり続け、専ら祭祀にのみ使われたのではないか、という具合に見れば統合されてくる気もします。その間を繋ぐ黒子は先修験者だったと。

天武時代に大陸からの要請もあり開国の動きが必要になり、畿内遷都の約百年の間に明日香奈良の地が整備され、難波には外国の使節を招けるまでの体制作りがなされたのかと。そんなに急に。活躍したのは室町時代にいたという岩屋梓梁(岩屋天狗)のようなすごい天狗たちがいて飛鳥時代にも活躍したかと。

こんな異端説にも秘儀あり。岩屋=イシヤつまり古代のDSというわけです。物部は行者服に身を包みまるでユダヤ教徒のようですが、統率者は計画に秀で技術的に卓抜したDSでしょう。DSは今でも陰の歴史演出家です。もしや常緑樹の時代を担った善いDSもいたのではないかとの一席だった次第。

書紀によれば崇神天皇のとき大加羅の王子であるというツヌガアラシトなる人物が海を渡ってきて、およそは北九州に漂着するものを関門海峡を通って長門まで至り、そこではないと知り海岸伝いに出雲から敦賀に至り逗留したとのこと。この人物は角を生やしていたとのことで、名前もそれを物語るかのよう。

今では二本角に描かれる(四天王寺ワッソ)著名な渡来系古代人だが、私は一本角と思っている。つまりユダヤ教徒であり、ヒラクリティが角に見えたこと、および角がある人の意味でつけられた名前であろうと思う。 ではなぜ敦賀でしばし落ち着いたのか。それこそ畿内ですでに展開していたカバラ祭祀の顧問としてだ。

ツヌガは新羅の最高官位の角干の訓読みとの説もある。国の王たらん者は祭祀の最高官であるを以てが当時であったろうから、この技術的な加勢に畿内の物部系技術者集団は喜んだことだろう。崇神天皇はこの祭祀における日本側の最高官だったろう。よって彼が会いたかったというのも分かる気がする。

ただ崇神天皇は北九州にいた。また彼の逗留地は祭祀場ではなく急行できる場としての敦賀であった。 同様にして、後の垂仁天皇のときに新羅の王子という天日矛が渡来して播磨の宍粟に逗留。彼が持ちきたした品が八種の祭器だったので、それなりの人物と知った天皇は彼にさらに淡路に住むことを許した。

すでにニギハヤヒのときに十種の神宝(祭器)が各セフィラを彩るものであったときに、補助か補完かの品を示すということは、祭祀の熟達者を意味しただろう。そして彼は地方巡りを希望し、畿内の祭祀ラインを取り巻くようにして逗留。その経路を示すと図のようになるだろうか。出石と淡路は真南北。

こんなところに生命の木の幾何学構図との関連を垣間見るのである。 この二者は古代祭祀の顧問としてきたわけで、当時の天皇は歓迎したことだろう。 当時の歴帝は北九州に居て為政の実務をしていた。畿内は専門の祭祀官たちが大規模な秘密儀式をやっていて、それが生命の木の祭祀・鬼道(木道)と呼ばれたものだ。木道とは生命の木の小径(こみち)を通す儀式の意味となる。霊的エネルギー回流による生命の木の賦活のことである。

卑弥呼の共立とは、男王が別に居てその留守の間、九州側で女王を立てたということの意味である。男王は畿内の祭政の指揮を執っていたと思われる。その人物は秘密とされているだろう。中国の官吏はまあ未開人のすることと思い、適当に記したのかと思う。 北九州での木の祭祀は三種の神器に拠った。

「ここに女人あり、カムカシヒメといふ。・・天皇の使者至るとききて、即ちシズ山の榊抜じとりて、上枝にヤ ツカノ剣を掛け、中枝にはヤタノ鏡を掛け、下枝にはヤサカニを掛け、またシラハタを船舳とにたて・・」(景行紀十二年) 実歴史を刻んだ九州では、忠誠の証として天皇家と同じ儀式をした。

いっぽう畿内では大規模な生命エネルギー回流の祭祀が執り行われ、次元上昇のポータルが幾度も開いていたかも知れない。それが東海洋上の神仙伝説になったと推理するのである。 これが上昇基調にある時代の輝かしい物語である。 いっぽう下降基調にある時代の終わりには、CERNが天のウズメ現象を呈しながら、何事かを起こそうとしているように見受けられる。DSのやろうとすることは、よう分からんというのが結論のようで。 同様に、角の生えた人たちのすることもよう分からんというのが当時の庶民だったのではないか。祭祀が秘密とされれば、なにやってんだろというのが感想ではあるまいか。

角のある人々はある種、スーパーマンであった可能性がある。個々人がというのではなく、集まれば目覚しいテクノ集団にもなったということだ。ツヌガ氏は祭祀官として単独かもしれないが、出雲国風土記の「国引き」の神である八束水臣津野命は角を持つ集団で、土を八掴みしてくる大土木集団の意味だ。

彼らが動いて畿内に人工的な山々を築いた。たとえば耳成山などの大和三山、また琵琶湖湖内の沖島、竹生島、多景島もそうだろう。大和三山は今でこそ大地の上にあるが、奈良盆地は元は湖だったところで、大和川疎水工事で水抜きが急務だったのは、ここが神人共栄の居住空間として予定されたからだ。

その栄光の地の名は平安の都(エルサレム)。明日香は朝鮮語の安宿(安心して住める場所)の転、奈良、平安京は意味そのままに。古代祭祀を彩った民の姿が偲ばれるはずだ。また前方後円墳はモリヤ山を理想形にしたものか。日本の土質は軟らかく築山には向いている。

またあるいは、アンク十字(エジプト十字)のデザインとも理解できそうな中東風のイメージが伝わってくる。エジプト、カルデア、ヘブライと祭祀が伝わったとすれば、それはカバラである。 W.バトラーによれば、生命の木において最も重要な典礼儀式が中央柱の回流の儀式である。

その前に、儀式の場に結界を設け清浄にするためにする追儺がある。術者は手刀を構え、アテー(ケテル)、マルクト・・と生命の木のセフィラに沿って掲げ清浄域を作る。これをカバラの十字というようだ。また正五芒星を東西南北各面に描き、魔の付け入る手立てをなくす。その両方が満たされた図形。

はっと驚くのは、これは良からぬ企みの逆五芒星ではないか。いや、古代三都を囲む場としては正五芒星が適用されたと思われる。構図が展延されてその星頂に祭祀霊場を置いたことで逆五芒星のほうが顕著になったわけだ。神人共存の聖域は少なくとも清浄だ。カバラの追儺のシンボリズムは満たされている。 続いて中央柱の回流である。ケテルの理念がティファレト、さらにマルクへと下ろされる。

ケテルの位置には若狭、遠敷の地名が。これは新生(おにふ)と回春の霊流を循環させる意図だったことを物語る。それが成功すれば常緑樹の理想も叶うとみられたのではなかったか。生命の木が予めあるなら、木を永遠の若さに保ちたいと思わないはずがない。この木こそが中国の伝説に言う巨木・扶桑である。

その想いがどこまで達成できたかはわからない。古代祭祀を支えたであろう物部氏の滅亡を以て、その祭祀の歴史は幕を下ろす。 古代の中国史書にもよく記載された東海の果てにあるという神仙郷蓬莱島、そこにあるという扶桑樹。何でも不死の良薬がとれるとか。秦の始皇帝はそれを求めて徐福を送った。

未開の蛮族の地であるべきはずの東海の島々が、なぜか謎めいているゆえに魅力ある伝説を生んだのだろうか。おそらく始皇帝が初めて東海の果てに使者を送ろうとしたものだろう。しかし、徐福は帰らなかった。これに怒り心頭となった始皇帝は方士たちに牙を剥いた。いわゆる焚書坑儒である。

方士とは道教のふうがあるが広く学者のことであり、幅広い見識を持ち、皇帝の要求に応えていたものだろう。特に始皇帝は魔術や錬金術に興味した。つまり、カバラが伝わっていた。しかし、焚書坑儒の災難を逃れて朝鮮半島に逃げ延びてきたかなり多人数の集団がいた。当時、半島の西側にあった馬韓はこの異形の集団に更に東の山岳地帯を居住地にするよう薦める。魏書辰韓伝には
>古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。

>互いを徒と呼び
からするなら共通する思想集団で聖徒と互いを位置づけていたヤダヤ教徒と解せる。大国にあっては、対処困難な王の思いつきが災難を呼ぶことを思い、東海の離島への思いを深めただろう。 彼らは暗号で情報を知らせ合う。扶桑樹の生える湯谷とはユダヤのこと。仲間が居ることを知る。

こうして、新羅から南下して大韓から海を渡り、王族の祭祀の高官が生命の木の活性化を助力しようとやってきた。 一世紀の後漢書東夷伝には九州の倭人のこと。さらに東鯷人の国が二十以上に分かれて存在すると書く。その先は謎ではあるが、唐書により七世紀には日本と名乗る国もあったことが知られる。

東海の離島に奇妙な習俗のあることが中国にも知れるようになり、決して蛮族と侮れないと知れば、侵略と支配を考えるだろう。それが物部氏滅亡とその後の大化の改新、律令時代という流れになる。 鎌足の娘が則天武后になり、武后の赤子(宝宝)が日本に送り返され天武天皇になったという説。

そこにもう一枚推理を噛ませてもらうと、赤子がそのままやってきたのではなく、長じて武后から多くの指導を受けてから返されたのではないか。それがサチヤマ(筑紫の君)で、唐に捕まった日本兵と共に返されたと考えるわけだ。武后が15,6歳で生んだ赤子が30歳頃になってからで671年のことである。

その二年後には壬申の乱で天下を取ってしまうことになる。その勢いは大陸仕込みの軍事力に拠ったものだった。いわば精鋭の工作員多数と共に日本の地を踏み、不比等が支援する中、政変を勝ち取ったのだろう。天武天皇の差配は従来の天皇にはない革新的なものばかり。大陸育ちの感を持つのである。

DSの線でいくなら、物部系DSの衰亡に次いで、大陸系DSの進出となり、新たなシナリオが日本の歴史として設定された。それが下降線を目論んだものになっていることは神話を見れば分かる。大陸人のほうが優位でなくてはならない思想があるようだ。武后自身も出る杭を打つ方だったとみられる。

武后の日本における天下布武(武の姓は武后の実家の姓、その隆盛を天武に託した)は日本の史記成立に始まり、彼女の意志が反映したか、武家の政治として存続し、明治以降今に至るまでも、仏教では古代三都の中心にあって、光明遍照の大日如来として輝き、神道では天照大神として伊勢に祀られるというわけである。

それは同時にDSがシナリオとしたうお座の時代精神を顕現するに相応しい神格の起用だったことになるだろう。 古代の神々の幸う時代に戻ることは、今の世相を見ればほぼ不可能のように思える。だが、またも上昇基調に入るみずがめ座の弥勒の時代がやってこようとしているのも事実だ。

弥勒菩薩は手に水瓶を持つ姿で描かれる
みずがめ座の統率神である

岩戸の閂はすでに開かれており、いずれ天照大神、天照皇大神、日の大神が揃ってお出ましになると思うが、まだわからない。 というのは則天武后も自らを弥勒菩薩だと自称しているからである。弥勒の時代の主役は誰になるのか、あまりにも好位置に設定しすぎの感あり。バトルロイヤルでもやりますか。

そう、坂本さんも弥勒菩薩だと仰っていて、その経緯話を昔、書いていた。 https://red-avian.info/sinsen/miroku/miroku.htm…
この世に取り残された縁者1万人を浄土に連れて帰ることを請願にされているという。 また空海和尚からは弥勒下生間近との夢のお告げが第一番目の彼女に託され私が解読した。弥勒の顕れは多いのかも知れない。

どんな弥勒にしたいかは、皆さん次第というか集合意識次第かといったことかと思われる。私が推奨するのは、封印が解かれた天照さんはじめ国祖三神か、もしくは坂本弥勒が善良でいいと思うが、それは集合意識次第になるということかな。だから集合意識にはいいインプットが必要ということだ。

今のところはDS側が戦略的にリードしているように思う。元号の令和の意味からして洗練されていて、弥勒時代を迎えるための装いを整えてしまった感じだ。 令(いいつけ)和す(やわす)は、お上の指示に従うことを以て良い人とする時代のこと。同義の言葉は神話にもあって、言向け和せとして出てくる。

ご存じかも知れないが、天照大神が臣下の神に征服を命じる言葉だ。もし大仏と同じお方なら、逆らってもええことはありまへんで。 垂仁天皇が日本武尊に日本の平定を命じた言葉でもある。一二度ゆうてきかなんだら、たたんじまえという意味だからね。畳まれんようにね。

まあ大丈夫でしょう。日本人は神の民であり、従順で誠実で勤勉と讃えられてきた。神もそのような存在が必要として品種改良された結果の民族なのだろうと思う。宇宙に連れて行っても、Mr.カトーのように着実に任務をこなすような人材。そう、神とは宇宙人だったのだ。どうやらユダヤ人もそうらしいね。

宇野正美氏によれば日本人の40%が謎のYAP遺伝子というのを持っているらしい。それはスファラディユダヤも持っているとか。しかし、日本人にその割合が多いとのことで、古代にはユダヤ人の流入が盛んだったことがわかるというものだ。 ほら。畿内の特殊な祭祀に多くの彼らが関心を寄せてたからだよ。

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