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気絶するほど悩ましい

写真は昔の宮崎駿です。こうありたいものですね!

Twitterでも言いましたが修学旅行が無くなりました。
行先は北海道で、行くの面倒くせーと思ってたけど近づくにつれてめちゃくちゃ楽しみになって行ってたのに…
カバンの中にSwitchを忍ばせて、就寝時間が過ぎてから同じ部屋のやつとスマブラするとか、そういう事したいなぁと思ってワクワクしてたのにホンマ最悪や 諏訪人は中3の時不登校だったので中学時代修学旅行に行けていません!それ故に今回の修学旅行はかなり期待してたのに!あとバスで足踏んだのに謝らないやつしねや


諏訪人は歌い手が大嫌い(正確に言うと極度の原曲厨で、それに伴って歌い手も嫌い)だが、なんで嫌いかを今まで明確に言語化した事が無いのでこの機会に言語化します

俺は音にめちゃくちゃ敏感で、常に「自分の想定した音」しか耳に入ってきて欲しくないといつも思っている!そんな中で、音楽と言うのはそのような私の特性に非常にピッタリな芸術で、何より天才がいっぱい生まれる最高のコンテンツ。私は音楽を聴く時、「全部の音が正しい位置に配置されている」と感じながら聴いており、色んな音の組み合わせが樹形図のようにバーっと広がっている中で、一番良い音、一番良い間が選択され、それらの組み合わせが、天才の所業によって作られているなとつくづく実感しながら聞いている

-以下、少し要らない文章-

確かショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』の第2巻だった気がするんですが、「イデアを認識する方法が芸術であり、芸術とは天才の成す業である。天才の持つ才(客体性)によって純粋な観照を致し、備えた想像力によってイデアを認識させる芸術を作る」みたいな事が書かれており、「禿同!」と思いました。私の芸術観はほとんどこれに影響されていると言っても良い。私は音楽を聴いている時、その音楽がとらえたイデアを認識していると感じている。
しかしこの考えを主軸としづらい点は、「改変されたものも芸術で、それに伴ったイデアを認識する事は可能、つまり俺がそのイデアを認識できていないだけ」みたいな反論が来るとぐぬぬとなってしまうから。しかしこの反論は前提として改変する人間も上記の意味に即した天才である必要があり、果たして歌い手はみな必ずそうかと言われるとそうでもないだろう。けど私はボカロPのセルフカバー嫌いだったりするな 一旦この話やめましょう

-要らない文章終わり-

このように、私が音楽に感じる良さは「整っている」かどうか、言い換えるとパズルのピースがぴったり揃っているだとか、大書庫のように本がキッチリ揃っているとか、そう言うものに美しさを感じる。私が良い曲と感じる曲は、曲のリズムやテンポ、ボーカルの声等、全てがパズルのピースのようにピシッとハマって、その曲の美しさを構成している。
この「美しさ」こそが私の言う「想定している音」で、この「美しさ」を孕んだ音だけをずっと聞いていたい!(これは私どうこうよりも前にむしろ私にこう思わせる曲の方がめちゃくちゃ凄い)そう考えてる。しかし、この感性が私を極度の原曲厨たらしめている。

その結果、私は元の曲を美しいと思い過ぎるあまり、元の曲の要素(先ほど挙げた)が1つでも違っていると、私にとってそれはもはや想定していない音であり、美しさは完全に消え去ってしまい、不快になってしまう!

-すいません!また以下あまり必要ない文章です!-

実はこの傾向は昔からあって、私は小学3年生の時初めてiPodを買ってもらったんですが、クラシックしか入っておらず、しかし私は辻井伸行のラフマニノフのピアノ協奏曲第二番 第一楽章が大好きになりずっと聞いていました。
そんである日、何だか有名なオーケストラが同じ曲を弾くらしいとワクワクしながらコンサートに行ったら、何回も聞いていた曲(辻井伸行の方)との細かい違いばかり気になってイライラして全然楽しめなかった事があります。他にもヤバいなと思ったのはCDの曲で同じアーティストのライブバージョンが全然楽しめなかった時。これは正確に言うとちょっと違うなとは思うけど似た症状(もはやこれは「症状」と言ってよろしい)

-要らない文章終わり-

歌い手は先ほど挙げた構成するピースの「ボーカル」の部分を改変して作品としているのですが、私はその時点で気持ち悪くなって聞けないし、他にもYouTubeで間違えて1.5倍速で音楽流しちゃったりしたら「うわっ!」って言いながら急いで速度を戻す。そのくらい、私にとって元の曲の「要素」は重要。
そう言えば上の方で「ボカロPのセルフカバー嫌いだったりする」と言いましたがこれに関して自分の考えを説明すると、芸術と言うのは、その作者のあずかり知らぬところで意味を含み、作品として完全に独立する事も絶対にある。こうなった場合、作者の才能は勿論素晴らしいけど、この独立した芸術は、もはや作者ですら改変を許されない凄みと意味を持ち、我々はただそれを純粋に鑑賞する事しか出来なくなる。私がセルフカバーを嫌うのは、そのような非常に優れた曲だから起こりうる。

だいたい自分が考えてる事全部文章に出来ました。あと、個人的に歌い手を嫌ってる理由はそうやって改変するのに当然のように自分もアーティストの一員みたいな振る舞いをしてるからです。お前は歌ってるだけだしそれは改悪だと言う事を自覚してくれ!おいメガテ〇・ゼロお前に言ってるんだぞ!二度とツミキの曲歌わないでくれ お前の変なアレンジマジで聞いてられないよ!

あとペンギン・ハイウェイの映画見たんですが、声優のオタクの人が良く言う「アニメ映画の声優に俳優を使うな!」って奴、よく分からなかったんですがこれで何となくわかりました。(ペンギン・ハイウェイは面白かったです!先に原作も読んでたから)


追記

この文章2~3日前くらいに書いたんですけど、上に挙げたツミキ氏のニビイロドロウレの歌ってみた動画を、今日3月6日、某超人気歌い手が投稿してトレンド入りしたそうです。勘弁してくれ!

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