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壁、禁句と親しい友人たち

留学時代に体験した事で忘れられない思い出は
沢山ある。カラヤンはギリギリ聴けなかった世代だが、フィッシャー=ディスカウ、チェリビダッケ、リヒテル、ジョルジュ・ドンと20世紀バレエ団、ソコロフ、アバドの就任記念コンサートなどなど、脳裏に焼き付いて離れない名演は枚挙にいとまが無いが、何と言っても一印象的だったのは東西統一ドイツが変わりゆくさまを目の当たりに出来た事だった、と今になって思う。
ベルリン芸大の入試を受験したのは1989年7月。
奇しくも同じ年の11月にベルリンの壁が崩壊し、
東西ドイツが統一した。東ベルリン市民が西にどっと押し寄せ、スーパーや地下鉄がすし詰め状態になったのを覚えている。服装、髪型などから誰が西、東ベルリンに住んでるのか一目で分かったものだが、一年後にはそれが全く感じられなくなり、ブランデンブルク門の周りをランニングウェアを着た男女がジョギングするようになった(かつてはその辺に立っていたら射殺されていたエリアだ)。

入試を受けてから30年後の夏休み、ベルリンに「里帰り」した。かつての教え子やその仲間が留学しており、食事の相手などをしてもらう(迷惑だろうなと思いつつ)。30年前、ベルリンで最初に泊まったペンション(Pension、星が付かないホテル。一泊3,000円くらい)はすでにクローズしていて、そこから程近いホテルを前もってネット予約し、一週間滞在した。

街は統一30周年関連のイベントでさぞ盛り上がっているだろうと思いきや、11月までまだ時間があるせいか、統一 Einheit の単語は新聞などで目にする事は無く、コンサートホールでポーランドとの交流演奏会が盛んに行われていた。
TVのニュースを観ると(ドイツ語放送が未だに理解出来るのも留学の大きな収穫のひとつだ)、ドイツ政府が大戦中、ホロコーストで多くの無実の市民を死に至らしめた事に対し、ポーランドに初めて正式な謝罪をしたと報じられていて、納得した。

学生だった頃にはアウシュヴィッツもエルサレムのホロコースト記念館も見学し、学生同士でも
「その話題、かの人物の名前は口にしてならない」のが常識だった。
それが国を挙げて隣国にかつての過ちを認め、
その事がチャンネルでもニュースで取り上げられている、という空気の変化に驚いた。これは凄い事なのだ。

滞在中、ある方のご好意で弾かせていただいたコンサートのアンコールでたまたまショパンのノクターンを弾いたら、聴いて下さったドイツ人の紳士からポーランドの名曲を選んだ事を真っ先に感謝された。今を生きるドイツ人が長年心を痛めていた事を初めて認め、口にし、これからの歩みを見据える姿勢が伝わって来て、心を動かされた。

悪い事をしたら謝りなさい、と誰もが子供の頃に
教わる。だが大人になればなるほど、そして大人達が集えば集うほど誰もごめんなさいとは言わなくなる。謝罪に付加する責任が増大するからだ。
国同士で謝罪するか否かはもはや善悪の問題では無く、駆け引き、ビジネスだ。

謝るべき者も、謝罪を求める側も一歩引いて
うまく掛け違ったボタンを直せる心のゆとりが持てたらどんなに良いか。パンデミックで国境がより色濃く縁取られた今、強く思う。

「駆け引き」によって一般市民である自分まで
心根を塗り変えられては決してならない。留学中に知り合った色々な国の親しい友人達の顔を想いながら、彼らとの再会を心より楽しみに待っている。

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