文章を「正しく読ませる」難しさ

文章を書く際には、必ず「目的」が存在する。

SNS上で注目を浴びたいならセンセーショナルで感情的な文章にするべきだし、ビジネス上で誰かと認識共有を行う際は主観的な感情は極力排除したり、文脈的な依存を考慮した上で認識の齟齬が生まれない文章を書くべきだ。

※余談だが、clubhouseで教育関係者から「文脈依存性」という単語から「認知科学」というジャンルまで教えていただき、何かしらの足がかりになりそうな予感はしている。

参考:https://www.nara-edu.ac.jp/CERT/bulletin2015/CERD2015-R35.pdf

たとえば、SNS上で話題をかっさらうような文章であれば(ex.例のワケのわからん拡散をされた記事)、文脈的な依存や認識の齟齬を意図的に活用した方がよい。

「文脈的な依存」という意味では、たとえば、個人VTuberが「キャラクターでありながらも現実に存在する一人間である」という暗黙の了解の中で繰り広げられるコミュニケーション方法なども該当するだろう。

ただ、広義でのVTuberを「ネット上の活動において、VRアバターやキャラクター絵を実名や写真の代わりに据え置いている人」に定義すると、文脈はより広くなる。

しばしば起こる「VTuberとはこうあるべき~」的な齟齬は、ここに原因があると思う。

文脈的な依存や認識の齟齬を意図的に活用する」を端的に言い表すと「クソデカ主語」のことだ。

よく使われる手法としては「〇〇は△△である」と言い切ることである。これが一般的な認識とかけ離れれば離れるほど効果は高いし、感覚値として共感できればできるほど多くの反響を得やすくなる。

これが「逆張り」と呼ばれることがあるが、逆張りでもなんでもなく「個人の感想を全体の感想のかのように語る」とでも表現したほうが適切だろう。

この手のSNS上で反響を呼びやすい文章は、書こうと思えば簡単に書ける類の文章なので、どうしてもバズりたい人はぜひとも研究して実践して欲しい。

(10年以上、24時間PC前に張り付いて様々な文字情報やユーザー反響を読むような生活をしている私だから簡単に感じるのであって「額面通りに簡単」というわけではないので、その辺の認識の齟齬は起こさないで欲しい)

さて、本題に戻るとしよう。

SNS上で話題になる文章を書きたいなら「文脈的な依存性」や、それを踏まえた上での「認識の齟齬」をも活用するべきだが、これは言ってしまえば「正しく読ませる必要のないテキスト」とも言える。

具体的には、本来読むべきでない人が読んでしまうリスク、SNS上の文字数制限による抽象化による誤読のリスクなど、原則的には「正しく読まれることを想定していない」と言ってもいいだろう。

もっとも、発信者当人には「正しく読んでほしい」という願望は必ずあるはずだし、発信者の背景を理解して正しく読もうと努力する者もいる。

だが、往々にしてSNS上の文字情報は「読んだ人間のその時の感情や課題、SNS上の文脈に依存する」と言ってもいい。

少なからず、Twitterでの投げ銭機能に関しても「実名と住所が紐づく」という前提を無視して「こういった悪用をする人間が出てくる」という話題で持ちきりだったし、ここまで来るとTwitterそのものに「悪意的な解釈を増長する隠し機能」が搭載されているとまで思ってしまうレベルだ。

では、文章をなるべく認識の齟齬なく正しく読ませるためにはどうすればいいのだろうか?

これに関しては、一言で説明するのが非常に難しい。

ただ、私個人の経験で言えば「複雑な現象を説明したり、より繊細な感情表現を行うのに、言語情報は不適切である」とは感じている。

「文章は誰でも書ける」とはよく聞くが、むしろ「識字率の高い日本において、日本語の文章は誰でも読める」という前提の方が大事である。

「読める」と「理解できる」は、まったくの別問題である。

また、「理解できる」の裏には必ず「目的」や「意図」が存在する。

どういうことかというと、たとえばSNSで「引っ越しました」という報告を聞いて「対象者が引っ越した」という事実を理解するのは義務教育過程で日本語を学んでおけば誰でも出来ると思うが、そこから「引越し後の疲れや寂しさを埋めるために誰かに構って欲しい」という意図を見抜くのは、読者側の共感力や想像力、あるいは対象と読者の人間関係性に依存する。

また、仕事で付き合いのある人間から「引っ越しました」という報告が来た場合は、「引っ越しに際してプライベートがしばらく落ち着かない可能性があるので察して欲しい」という意図を含む可能性も高いし、これが「会社の近くに引っ越した」という事実であれば「いつでも出社するのでもっと頼って欲しい」というモチベーションアピールとも受け取れ、前者と比べて積極的な意味になる。

ただ、どうにも自他共に、この「文章の裏にある意図や目的を推し量る能力」が欠けていると感じる場面が多い。

そこで、とくに私自身が反省しなければならない点として「一つの目的に絞るべき文章に多数の目的を交えてしまっている」部分がある。

この考えに思い至ったのが、資格取得に際してテキストを読んだ際に「これは資格を取得するために学習する文章であって、実務での利用や応用は一切考慮されていない」という構成で書かれていたことだ。

私は学生時代より勉強が大嫌いでしょうがなかったが、それは前置きも何もなく、目的意識の共有なくワケのわからん処理・暗記ばかりやらされることが苦痛でしょうがなかったからだ。

そもそも、教える教師側も「この授業で得られる知識は社会に出たらこういった場面で役に立つ」と具体的な事例を交えて紹介するのは非常に難しいと思うし、教科書にはそのような主観的な記載は載せるべきでないという判断だろう。

話が脱線してしまっているが、文部科学省が様々な意思決定要因を通して策定している義務教育過程には、様々な意図や目的があるはずだが、それが説明されることはないし、だいたいは「後から気づく」ように出来ている。

こうして考えていくうちに思い当たったのが「大半の人が文章情報から背景の目的や意図を見抜く訓練をしていない。いや、そもそも、そういったものが込められている可能性にすら思い当たらないのでは?」という、気が遠くなる事実である。

この仮説が概ねその通りであるなら「文章を正しく読ませる」という前提が変わってくる。

たとえば、当記事内で端的に「SNS上でバズる記事を書くのは簡単だ」と書いているが、それが「(特定の経験や訓練を経ている)私にとって簡単なことだ」という意図で書いているものを「読んでいる自分にとっても簡単だ」と受け取る人も一定数いる。

「簡単だ」という主観的事実を、なぜか客観的事実だと受け取られてしまうみたいだ。

…となると、認識の齟齬を防ぐための文章には、「主観的事実」は排除して「客観的事実」に落とし込む必要が出てくる。

そもそもが「主観的事実と客観的事実の違いもわからない」というのが、一般的な読者の認識レベルだと捉える必要があるだろう。

主観的事実と客観的事実を切り分けて読めない人間が多いと仮定するとなると、今度は「主観的事実も客観的事実として読まれる」という前提まで考えないといけなくなる。

「私のPC環境ではこうすれば〇〇が出来た」という事実を「使用環境のわからない他人のPCでもこうすれば〇〇出来る!(もしくはPCではなくタブレット端末やスマホかもしれない)」と読み取られるということになる。

もっとも、この「主観的事実と客観的事実の違いもわからず、挙げ句、自分の都合の良いように恣意的に文章を解釈する人」を切り捨てるという判断も大事だと思うが、これが実務だとそうもいかない場面も多い。


どうにも、ちぐはぐな文章になってしまい頭が痛くなってきたので、今回はここまで。

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