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「わかり合えない」ための言葉を失う装置

何か、特定の事象に対し、意味あることを言語化する度に、ワケのわからない受け取り方をされるので、とくに意味のあることは書かないようにと、年々、心境が変化しつつある。

それぐらい、この装置は「わかり合えないため」に存在しているように思える。

そのことを嘆いてもしょうがない。

事実として、我々はこんなにも誤解し合い、敵対し、勝手に他人の事を理解した気になり、ありもしない何かを恐れ、自分を守ろうとする。

そういう風に、この装置は用いられている。

狂気する群衆に背を向けて、わかり合えないための装置の前提を覆せるとしたら、そこにはどのような条件が必要なのか?

問いは、止まない。

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