パンクロックと箱根駅伝 29話

浜さんの家は2軍寮からしばらく歩いた先にある。青々とした蔦がボロボロの平屋立ての長屋で。それは少し大きい台風が来たら簡単に吹き飛びそうなほど脆弱な作りに見え、現存してる事が奇跡のように感じられた。
周辺には街灯がない上に、時刻は丑三つ刻に差し掛かっていた事もあり、まるで、不良達が度胸試しに使う幽霊屋敷にしか見えなかった。よっぽど2軍寮の方がマシに見える。

「え、浜さんこんな所に住んでるんですか?」

浜さんは、ドアノブをひねりながら軽く首を傾げて俺を見た。

「不思議に見えるかな?でもな。寮を追い出された陸上部の学生は、こんな世の果てみたいな所に住まなきゃならんのだよ。」

そう、軽い口調で言ったのだが、俺は軽率なことを聞いてしまったと後悔した。
浜さんが部屋の電気をつけると、外見とは裏腹にとても清潔で整頓されていた。自分の2軍寮の近代美術館のようなゴチャゴチャ部屋とは対照的である。
特に目を引くのは、アートチックテイストで台がガラス張りの美しいガラス張りの机と、それによく似合った綺麗な脚が細くて長い椅子が2脚おかれていて、机の上のMacBookがあるほかに、物は見当たらなかった。おそらくどこかに生活必需が隠されているのだろうが、それにしてもモデルルームのように生活感のない部屋だった。

「その机と椅子。とっても綺麗ですね。」

俺がそう聞くと。浜さんはそれに腰掛けた。

「ああ、そうだろ!良いだろ!これ誰が作ったと思う?」

その質問に俺は驚く。とても素人が作れそうなものに見えないからだ。

「まさか浜さんですか?」

浜さんは「ははは。」と笑う。

「違うよ、福永だよ。あいつあんなに見えても凄い才能を持ってるんだよ。」

俺は思わず。「えっ!」と驚きの声を漏らしてしまった。

「俺もびっくりしたよ。誕生日に福永が『いつもお世話になってるからって』って言ってさ。ビックリしたよ。あいつがこんな美しい机と椅子を作れるんだもん、やっぱり何かを創れる人間って何処か変わってるのかもしれないね。」

俺は、心の中で『確かに。』と呟いた。何故ならば、正に先輩がそれにあたるからだ。

「じゃあ、牧田座りなよ。コーヒー淹れるからさ。」

そう言うと浜さんはスクッと立ち上がり、よく古い割にとても清潔に見えるシンクの方へ向かった。椅子に腰掛けながら浜さんを見ると改めて脚の長さを実感させられる。しかもただ長いだけではなく、細くしまっていて美しいのだ。きっとこの脚を見ればどんな素人だって脚が速いとインスピレーションを感じる事だろう。ただ、残念ながらこの美しい脚には膝の軟骨がほとんどないのだ。

浜さんは手際よく、シンクの上の収納からインスタントコーヒーとカップを取り出し、棚の中に隠されていた給湯ポットからお湯を入れた。
田舎っぽいが暖かな色鮮やかなマグカップに入れて持ってきた。

「このマグカップ可愛いですね。」

浜さんは嬉しそうな笑顔を見せる。

「そうだろ!それはポーランドのマグカップだよ。俺はそれを金はないがコツコツそれを集めるのが好きなんだ。」

部屋には一応エアコンがついているが、まだ十分に部屋暖まっていなかったので、その鮮やかなマグカップから飲むインスタントコーヒーは凍え切った心と体に何よりも胸に染みてきた。

「ところでさ。いきなりだけどさ。牧田お前。悩んでるんだろ。見てわかるよ。ぶっちゃけさ、もう、一杯一杯なんだろ?」

浜さんは物静かに、しかし、ずっしりに胸にくる深みを持った口調で俺に話してきた。さっきの泣き顔を見られた身としては何の弁解の余地もなく。

「はい。凄く後悔してます。毎日、毎日。自分が何をしているのかさえ、凄く曖昧です。なんの為に俺はこんなボロ雑巾みたいにこき使われるんだろうって最近ずっと思ってます。自分が甘かったんです。マネージャーなんてどうにかなるだろうって。でも実際はどうにもなりませんでした。自分には来てはいけなかった世界のような気さえします。」

「辞めたい?」

浜さんの静かな声に俺はギクリとした。そうだ。恥ずかしながら、ここ数日『辞めたい』『辞めたい』とずっと思っている。もう1日だってあのムカつく先輩達の顔を見るのだって我慢ならずに、毎日何処かへ逃げ出したくなるほどだ。こんな所で逃げたら俺は根性なしだと分かっているが、頭で分かっていてもどうにもやりきれなかった。。

沈黙を続ける俺に浜さんは、ため息をついた。あぁ、俺はとうとうこの人にも見捨てられるのか?と覚悟を決めたが、浜さんからは意外な言葉が返ってきた。

「なんだよー。もう辞めたいのか?勿体無沿いぞー。さっき?お前が尊敬する街田くんと一緒に練習してきたのに、肝心のお前がもう辞めたいのかー。残念だなー。」

俺は、沈黙していた事すら忘れて浜さんに喰らいつくように質問する。ここしばらく忙しさに負けて殆ど先輩と連絡を取っていなかったからだ。

「えっ、先輩と練習してきたんですか?」

「ああ、日野先生が街田と3軍と一緒にしてあげれないか?と言ってきたので3軍で都合つく奴連れて練習に行ったよ。ビックリしたな。今日のメニューは16000m(3分35秒)+1000m(free)R'400mだったんだけれど。街田は16000mは最後の5000mで脱落したけれど。+1000mを2分43秒で走りやがった。ビックリしたよ!」

俺は仰天した。ど素人ながら2ヶ月陸上部に関わっていくうちに価値のあるタイムというものがわかるようになってきた。そして、1000m2分43秒とは凡人が逆立ちしても走れるタイムではない。

「ええ!早すぎではないですか?」

浜さんは真剣な目つきで俺を見つめながら話す。

「あれは天才だ。スタミナは全くない。フォームはグチャグチャ。さらには、無駄にピョンピョン跳ねるように走る。だけど、それ上回る。野生のスピード。天性のリズム感。桁外れの根性。がある。あれは遅すぎた天才だよ。日野先生の見る目は確かだ。何よりも凄いのは、あのギラギラ輝く目だ。今の専央大にあんな奴はいない。俺は、一瞬で惚れ込んだよ。あいつを一流にしたいってな。」

その一言を聞いただけで、俺の胸はカッカッと熱くなり。辞めたいなんて気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。

「浜さん。ありがとうございます。その一言で自分は頑張れそうです。」

浜さんはハッハと白い歯を向けて笑った。

「君、単純だなぁ。うらやましいよ。」

俺は、その時。ふと思った。浜さんはなんの為に、ここまで人に為に頑張れるのだろうか?自分なんかより、きっと選手件マネージャーで、色々な選手の面倒を見てる浜さんの方が遥かに大変なはずなのに、何故この人はこんなに頑張れて、こんなにも素敵なのだろうか?

「あの、浜さん質問です。浜さんは、なんでそんなに頑張れるんですか?」

俺の質問を聞いて浜さんはスクッと立ち上がって。シンクの方へ行き、コップを取り出し水を入れた。そして、ガタガッタと建てつけの悪い音を立てる窓を開けて、コップから外のコンクリートの部分に水を零した。俺は何が起きたのかわからず。それをシゲシゲと眺める。

「なあ、牧田。この水飲めるか?」

と、すっかりコンクリートのシミになってしまった部分を指差す。俺は、一体何の謎かけなのか?頓知なのだろうか?と思って首を捻るが答えが出ない。

「いや、すみません。俺は飲めません。」

と、ありきたりな答えを返すが、浜さんは静かに嘘をついていない口調でこういった。

「俺は、飲んだ事がある。惨めにコンクリートに染み込んだ水分を啜った事がある。」

比喩表現なのか?はたまた、俺を試しているか?と思ったがどうもそうではない。この人の目は本気だ。浜さんが語り始める。

「高校3年生の時。俺は膝の軟骨を殆ど取ってしまって、もうマトモに走れなかった。高校1年生の時。自分を心から可愛がってくれたコーチが、回復の見込みのない俺をゴミみたいに扱うのにはビックリしたよ。それでな、夏合宿のある日。ロード走を脱水症状で息も絶え絶えで最後尾を走る俺は、たまたま通りかかった民家の人から一杯の水を貰ったんだ。それがいけなかった。ゴール地点にたどり着いて喉がカラカラで今にも意識を失いそうな俺の前でコーチが給水ボトルをひっくり返した。『おい。お前は俺以外から水を貰ったんや。お前に渡す水は金輪際ないわ。』俺は、なんて事をしたんだ。と思って顔が真っ青になって、『すみませんでした。』と謝るがコーチは全く許してくれなかった。『おい、どうしても飲みたきゃ、この水たまりを飲め』と言われて。遠のく意識の中でスポーツドリンクでできた水たまりを必死で啜った。啜った分と同じ分だけ涙がボロボロと流れてきたよ。もう、辞めよう。心から俺はそう思った。」

浜さんの話がそこで少し途切れ、時計のコチコチする音と遠くを走るトラック車のエンジン音だけが聞こえた。

うーん。ドッスン