パンクロックと箱根駅伝 2話

先輩が来ないよりも、悩んでいる先輩の力になれないのが悔しかった。

先輩と出会なければ。俺はきっと死んでいたからだ。

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先輩と出会う前。

東武練馬駅近くのマンションに住んでいた。

父親は霞ヶ関に努めるエリート公務員で、ピカピカの高級外車に乗り、週末にはよくキャンプや遊園地に連れて行って貰った。

小学校高学年から近所のサッカー部に所属し、試合のたびに母親が弁当を作って応援に来てくれた。

兄弟はいなかったが、活発で社交的だったので友人は多く毎日とても楽しかった。

少年時代は順風満帆でとても楽しかった。

僕はきっとこのまま大人になって。スポーツで活躍し、進学校に進み一流大学を出て、一流企業へ勤め、綺麗なお嫁さんを貰い、子供を授かって、両親のように幸せな家庭を築くのだろう。そう信じていた。

しかし、中学校に入学してから、人生計画を大きく狂わす3つの出来事がおきた。

まず一つ目は、父親が田無土市という長野と岐阜の境目にある小さな町の土壌汚染計測センターというところに出向しなければならなくなった事。

父親は家族で引っ越すにはあまりに辺鄙すぎる土地だと思い。単身赴任する選択をした。「母さんを頼むよ。」と俺に言い残し、一人寂しく単身赴任した。

土壌汚染計測センターでの業務はとても忙しいらしく、父親は祝日でも滅多に帰ってこなくなった。家族で過ごすことは正月ぐらいになったが、中学生になっていたので、それに関してさ苦に思う事はなかった。

2つ目は、母親が寂しさに負けて浮気してしまった事。

この事に関しては詳しくは未だにに知らないが。

母の職場の50代の上司と浮気をしていたのを、父の知人が気づき、証拠を掴まれたそうだ。

そこから泥沼の話し合いが半年に渡って行われた結果、予定調和の如く離婚する事になった。

そして不運にも、父親に親権が渡された。生まれ育った東京を離れ田無土市などと言う聞いたこともない土地へ引っ越すことになった。

父は「都会よりもきっと田舎の人たちはあったかいからこれから素敵な思い出ができる、前向きに考えよう。」と力強く俺に語りかけたが。両親に唐突に離婚された上に、世間から逃げるように、聞いたことのない田舎街に引っ越すなんてとても前向きにはなれなかった。

そして、3つ目、

田無土市が最悪の街だった事だ。

温かい田舎街どころか、人間の嫌なところで作ったスープの様な街だった。しかし、父親は仕事漬けでそれに全く気がついていなかった。

そのスープは先代の骨の髄までしみ込んだ恨み辛みがコッテリと出汁を効かせて、心のアクが溢れ返っていた。

俺はそれを知らなかったし、教えてもくれなかったので、その煮えくり返ったの苦汁を飲まされる事になる。

その町は。昔、平家の落人達が険しい山の間を切り開き隠れ里を作ったのが始まりである。なんでも土の性質が悪く水田や田畑が全く作れない痩せた土地だったそうだ。その変わり、蚕を飼って絹を作ったり、石材を加工した工芸品などを作り糊口をしのいでいたそうだ。それが由来で田無土と名づけられたのだった。

この小さな村に、人が大挙して押し寄せたのは明治14年の事。田無土峰から銅鉱が発見され。それに目をつけたR財閥が大々的に投資し、湿布怒涛の勢いで街は開拓されていった。まずはトンネルをくり抜き汽車を通し立派な田無土駅を作った。最寄り都市からのアクセスは15倍も早くなった。そして、全国から稼ぎを求めて血気盛んな労働者が集まった。それに伴い、電線や電話などは周辺の村と比べ圧倒的速度で整備されていった。

いつからか「奥信州の浅草」とも呼ばれるほど発展を遂げるまでになった。昭和22年には田無糸市に格上げされ、僅か800人の寒村は最盛期で17万6000人まで人口が膨らんだ。

しかし、その華やか発展とは裏腹に労働者の生活は苦しく、給料は現金ではなく田無土でしか使えないR銅山切符で払われていた。現金に換えるのは田無土管理支局なる怪しい建物にて不当なレートで交換せねばならず、故郷へ帰るにも汽車賃さえも工面できない者も多かったそうだ。

「嗚呼 此処ハ 蟻地獄。生キテ悲シキ 田無土カナ。仏ニナルマデ 休ミモ取レズ。」

そんな流行歌までできるほど労働環境は劣悪だった。

時は流れて、昭和58年に銅山が閉鎖されると田無土も人がいなくなる筈であったが。

昭和53年に田無土の土に世界ごく一部でしか発見されてないレアアースが大量に含まれる事が発見されていたのである。

またもR財閥が鉱山跡の施設を利用し、日本で唯一のレアアースの採掘から精製、加工、流通まで管轄する巨大プラントを作り上げた。

その結果、田無土市の人口は現在も6万1300人程を維持し、市民は、町長から子供まで「何らかの形」でR財閥と関わっていた。

市の中心には立派な市の合同庁舎が立ち。その横にはオペラ風の立派な市民体育館と市民ホールを併設した施設。

そこから一直線に伸びるメインストリートには、ピカピカのコンビニと対照的に色あせた食品店と洋品店。

場違いにおしゃれな美容室と煤けた理髪店、そして300mほどある居酒屋横丁とスナックが何件か入った雑居ビル。

その奥に市民病院と老人ホーム。そのずっと奥、川を一本はさんで巨大なプラントと採掘場があった。

四方を赤く地面をむき出しにした山に囲まれて、そこらかしこに放置された昔の銅山後の廃墟が赤茶けて残っていた。プラントの裏側には、廃土で作られた巨大なボタ山があった。

のどかな田園風景とは程遠く、街のいたるところで巨大な煙突が常に白い煙を噴出していた。

典型的な車社会で、乗用車を持たない人間にとっては2時間に1本運行される松本行きのバスが唯一の脱出手段だった。

国道沿いには大きな看板のチェーン店が立ち並び、人々は生活の糧を大体そこで入手していた。

週末になると、隣町の須美水町との中間点に巨大なショッピングモール「ネオン」にこぞっていき。そこで、シアトルコーヒーを飲み、着色料のたっぷり入ったアイスを食べて、話題の邦画を観て、メダルゲームで億万長者になる事が最大の娯楽とされていた。

僕と父の新居は、国がプラントの脇の13階建ての立派なマンションの12階をまるまる借りあげていて、そこの1205号室に住んだ。2LDKで、2人で暮らすには広すぎるほどだった。

父の働く土壌汚染計測センターはボタ山の脇の細い道を15分ほど進んだ先にあった。小ぶりだが作りがしっかりした白塗りの2階建の建物は鉄柵に厳重に囲まれていた。

新しい学校は、マンションから300m先の市立田無土第三中学校に決まった。

驚くべき事に、学校の校舎は真新しく、とてもきれいで清潔だった。

転入説明を受けるために学校へ行くと。

「東京でもこんだけすごい学校はないでしょう?これだけの施設があるのもR財閥のおかげなんだよ。」と教頭先生から聞いてもない事を長々と説明された。

見学すると学校のいたるところにR財閥の重役らしき人物と中学生達が映った写真が飾ってあった。

「第4回R建設チャレンジキャンプ」

「R薬品主催 市民コンサート 第三中学校 金賞」

「R製鉄社会見学」

といった具合にタイトルが付けてあり。

「ね!R財閥すごいでしょ?」

しつこいぐらい説明された。

あぁ俺は田舎に来たんだなぁと痛感させられた。

担任の先生を紹介された。

やせこけたヌートリアみたいな顔した45ぐらいの男で。妙に滑舌がわるく、ヒゲの剃り残しが目立ち、上ジャージを下ズボンに限界までピッチリ入れていて、重度の猫背で。歩き方は、まるで妖怪のようだった。前の学校の担任が爽やかな25歳の体育教師だったのに比べると、なんだか不愉快でたまらなかった。

次の日、担任に

「と、東京から2年4組に転校してきた。ま、牧田くんだ。み、みんなよろしく、な。」

まるで、壊れたレコーダーのような滑舌で担任から紹介をされた。

「東京から来た牧田です。みんなよろしくお願いします。」

そつなく挨拶を終えて、新しい学校での生活が始まった。

教室をざっと見回したところ、一部の生徒を除いて、前の学校よりも大人しそうに思えた。

「ねぇ、東京からかきたんでしょ?芸能人あった事ある?」

「新しいコーヒーショップ言った?」

「えっ、ネオンインディアンアイスクリーム食べたことあるの?」

そんな具合に最初の1ヶ月ぐらいは、蟻が甘いお菓子にたかるみたいにクラスで人気者になった。

転校生が珍しいかったそうで、東京の事や前の学校の事をよく質問された。

人気者になったとは言っても、友人とまではいかなかったので、放課後には暇する事が多かった。

なので、田無土でも前の中学校に続いてサッカー部に入ろうと思い、サッカー部の顧問の所へ行ったのだが何故か入部を問い合わせても顧問に「いや、ここは思い切って新しいスポーツにしたほうがいい。」だの「途中入部は予算の都合で無理なんだ。」「まずは担任の先生に許可をもらってくれ。」などと何度も不可解な事を言われ断られた。それが腑に落ちず。でも、担任に相談すれば流石に解決するだろうと考え、その件を伝えると、「あっ、あー、いっ、今忙しいから、こっ、今度ね。ははは。」などと言われ断れてしまった。意味もなく卑屈な笑いをするのが妙に不愉快だった。なんとなく抗議する気も失せてきて。もう、サッカーの事に関してはサッパリあきらめて高校受験に集中しようかなぁ。と考えた。

田無土にきて1ヶ月が経つと、当初こそ人気者だったものの、次第にネットで調べればすぐ答えが出るような事を質問してくるクラスメイトもいなくなった。ちょうどオタマジャクシの飼育に最初だけ熱をあげ足が生えたぐらいで誰にも面倒を見てもらえなくなる時によく似ていた。

しかし、逆に言えば馴染んできたともいえる状況であり。この時はまだ上手くやれてる!と自分では思っていた。

転校生なんてこんな物で、次第に仲の良い友人もできるだろうと楽観視していたのである。

更に1ヶ月ほど過ぎた日の事。

理科室に行くため一人で上級生のクラスの前の廊下を歩いていると

「おーい、東京人!」

後ろからガラの悪い声で呼び止められた。

関西弁?と思い足を止め、後ろを振り返ると、そこにはボサボサ頭で目がギョロギョロした上級生が俺を睨みつけていた。口は今にも悪口が飛び出しそうなほど、への字に曲げがっていた。

「おい、お前、東京からきたんやろ!よくもまあこんなクソ田舎にきたよのう!」

彼は、壁にダラっともたれ掛かり窓の縁に肘を掛け頬杖をついていた。

身長は175cmぐらい。痩せ型で足が長く、ラフに着こなしたワイシャツから見える胸からはとても筋肉質だった。

「なんや、その顔は。ガラの悪い先輩に絡まれて、嫌か?」

「いっ、いえ。そんな事はないですよ。」

俺は不意に知らない先輩に絡まれて狼狽した。そして、あっ、この人はきっと、同級生が噂していたヤバい関西弁の先輩だと直感した。

「いや、きっとそう思っとるやろ!まぁええわ。」

「それで、要件はなんですか。」

なるべく関わりたくないので早急に要件を聞こうと思った。

「なぁ、この街はどうや?東京から来てなんも無いやろ?ほんま終わっとると思わんか?」

と頬杖をついたまま顎を突き出して、俺を試すかの様に意地悪な顔をして質問を投げかけてきた。

「いや、そんな事はないです。人は優しいし、食べ物はおいしいです。」

変な事を言うと、この先輩につけ込まれると思い当たり障りのない返答をした。

「ふふ、ぶっぐ!」と、その先輩は吹き出すと、こう言い返してきた。

「なんやそれ?東京人は田舎に引っ越したらは人は優しく食べ物は美味いって言えと、教科書にそうかいてあるんか?あほやね!この街はクソだよ!よく覚えておけ。今はお前はお客様や!これからクソの味を知るで。」

そう言い終えると「ひっひひ!」とまた意地悪そうに笑った。

折角、上手く行き掛けている新しい学校での生活もこの男が壊してくるんじゃないか?そう思うと俺は

「なんなんですか、やめてくださいよ。急いでるんで。」

そう、毅然とした態度で言い放ち、踵返してその先輩から遠ざかり理科室へ向け歩きはじめた。

「おい!東京人!俺の名前は街田や!もし、この街で地獄に落ちたら俺の所にこい!俺は、いつでもここにいるで!」

と、後ろから聞こえたが無視してその場を去っていた。同級生の中でいつも話題になっている、危険人物クレイジー街田。この街で生まれたのに何故か関西弁を話す男。なにを考えているか分からない上に、誰にでも何にでも噛み付く街の鼻つまみ者。彼には関わらないほうが良い。と同級生が口を揃えて言っていた。なので、俺もそれに従った。

それから3日後。妙な事が起きたのだ。

ある日突然、同級生がやたらと父親の仕事の事を根掘り葉掘り聞いてくるのだった。

その時は特に疑問は思わず、同級生に知ってる範囲の全てを話した。

うーん。ドッスン