パンクロックと箱根駅伝 45話

箱根駅伝前に故障者を出すことを防ぐため、伊達監督は選手を競わせるような練習はしなかった。最終選考に残った選手ならば誰でもこなせる程度の練習であり、大きな山場は無かった、強いて言えばメンバー発表の前日に5000m(14分45秒)+1000m(2分45秒)があったぐらいで、それも全員問題なくクリアランスすることができた。
メンバー発表が近づくたびに部内の殺伐とした雰囲気はトゲトゲしたを増し、感冒予防の為、練習以外はマスクを着用していて、どこへ行くにも携行の消毒液を持ち歩いていた。それはまるで、街を彩るクリスマスのイルミネーションまでもが、流行性の疾病に見えてきそうなほどだった。

そのような限界体制の中、メンバー発表の日を迎えたのである。

「やれる事は全部やった。もう、後悔はないわ。」

メンバー発表を聞くために、大学の会議室まで向かう坂道の途中、白井さんが浜さんにとてもさっぱりした顔でいった、それを聞いて浜さんはびっくりした顔で首を傾げた。

「いやいや。まだ、本番はこれからだぞ。なんだよ。その落選したみたいな口調は?」

浜さんは慌てて白井さんに問いかける。それを聞いて白井さんはヘヘッと笑う。

「いやぁー、なに。心意気だよ。もちろん選ばれる気だけども。今更ジタバタしたって始まらねぇよ。あとはドカッと構えて運命を受け入れる。しかし、やるべきことはやった。それには後悔がねぇって事よ。」

白井さんは、すがすがしい顔でそう言った。だが、俺はその表情の奥に、不確かで弱い感情が揺らいでるのを感じた。それはまるで何か自分の心を隠すための仮面のようだった。きっと浜さんも同じ事を感じたのだろう。

「そうか、、。」

ただ一言。それ以上は俺も浜さんも白井さん何も言葉にできず、神妙な沈黙が3人を包み込んだ。

今日は運命の日なのだ。そして、あの憎い伊達監督が全てを司る神なのだ。

専央大学でも比較的古い校舎にあたる、3号棟の会議室の中に入ると色あせた長机が失われた単位の墓標のようにならべられていて、独特の饐えた匂いを発していた。俺たちはミーティングが始める20分前についたのだが、今日の発表は誰しもが気になると見えて、すでに半数以上が着席していた。それから1分もしないうちにメンバーが全員集合してしまった。

「おい、牧田。全員揃ったから伊達監督を読んで来い!」

と指図されたので俺は慌てて立ち上がり、当然のように駆け足で伊達監督がいる体育事務室まで行く。どうせ黙っていたって伊達監督は来るのだからわざわざ呼びに行く必要もないのだが、メンバー発表前の独特雰囲気が溜まらないので少しでも早く呼んでほしかったのだろう。体育事務室の扉を開けると。年末ということもありシーンと静まった大部屋の隅っこで、いつも以上に偉そうに座る伊達監督の姿しかなかった。

「なんだぁ。牧田どうしたんだ?」

ジャージ姿の伊達監督は、椅子の背もたれに深く腰かけながら。ペラペラのプラスチックのコップに入れられた薄そうなコーヒーをゆっくり啜っていた。

「いや、全員揃ったので呼びに来ました。」

伊達監督は壁掛け時計をチラリとみた。

「なんだよ。まだ15分もあるじゃねぇかよ。コーヒーぐらい飲ませろよ。」

伊達監督は不機嫌そうな顔をした。

「すいません、早く読んで来いと言われたもので、、。」

そう言いかけたとき、伊達監督は小さく反動をつけて起き上がり、流し台に飲みかけのコーヒーをジャバッっと捨てた。その後机の上から図番に挟んだメモ紙と手帳を取って鞄にしまった。

「しょうがねぇ。早いけど行くか。」

「ありがとうございます。」

二人で会議室までの400ⅿほど道のりを歩いて行った。伊達監督と二人きりで歩くとというのは今までなかったので、わずかな距離だがとても長く感じられた。

「牧田。お前はよく頑張ってるよ。」

伊達監督の口から、優しい口調で意外な言葉が出てきたので。俺は思わず「はっ?」と言ってしまった。

「いや、もっと根性なしで、すぐに逃げ出すと俺は思っていたが、ここまでよく頑張ってくれたよ。」

なんでだ?なんでこの人は急に優しくなったのだ?と思っていると、伊達監督はつづける。

「牧田、俺も鬼じゃないから言うけどな。お前、今年の箱根駅伝終わったら辞めてもいいんだぞ。」

いや、何を言ってるんだ!わざわざここまで頑張ってきたのに、辞めさせられてたまるものか。

「ちょっと、待ってください。何か勘違いしてるかもしれませんが自分は辞めませんよ!」

その言葉を聞いて、伊達監督は俺の心を望み見るように目を細めてじっと見た。そして、零すように口を開く。

「なぁ、俺は今から選手発表をする。それがどういう事だかわかるか?ある者に取っては努力の結晶になるが。あるものにとっては努力を全否定された事になるんだぞ。俺は、鬼だ。勝つために非情になってる。でもな、なんだかんだ言って人間の心は残っているんだ。少しだけだどな。」

伊達監督の横顔が、枯れた欅から零れ落ちた夕日を浴びて。いつもの濃くて恐い顔が、ミルクコーヒーのようにマイルドになっていた。

「だからな、俺ははっきり言うぞ。素人が箱根駅伝を走るなんて無理だ。俺は、街田ってやつが入ったらメディア向けの餌に利用する。『ほら、感動秘話ですよ。』ってな。それは、戦略の一部だからな。でも、メンバーに選ばれるのはきっと無理だよ。メンバーに入るなんてこと。嫌がらせで言ってるんじゃない。専門的見地から考える客観的事実なんだよ。ここは美しいものが美しく輝く世界じゃないんだ。どんなに汚くても強いものだけが美しいんだ。なぁ。お前も、街田も。変にこの世界にこれ以上首突っ込んで、傷つくことないんじゃないのか?だから、あきらめてもいいんだぞ。」

俺は、何も言えなかった。なんと答えても、自分の中に僅かに揺らいだ炎が誰かの吐息で消えてしまいそうだったからだ。それはまるで、自分の中に生まれた幾つかの新しい自分と古い自分が蝋燭を見つめながら座っているようで。

「無理はしなくていいんだぞ。俺はお前が陸上部を辞めて普通の大学生に戻る事を止めやしない。いい話だと思うがな。」

そこで俺はハッとした。お前は、何を躊躇してるんだ。お前はパンクロッカーだろうが!何を今更芋をひくんだ?お前と先輩の生きざまはそんなの者なのか!?ちげぇだろ!!そう思うと俺は歯をグイっとく縛ってから、意を決して伊達監督に食らいつく。

「いえ!絶対に私は辞めません!絶対にです!確かに挑戦しても無謀で傷つくことばかりかもしれません!誰かに笑われて、惨めになるかもしれません!でもここで逃げたら魂が死んでしまうんです!だから、お願いします!私を最後の最後までマネージャーとしておいてください!」

伊達監督は俺の面構えをジッと見つめてから、かすかに笑う。

「俺も現役時代。お前や浜みたいなマネージャーがいたら。って思うよ。」

その声は、どこか湿っぽく、そしてかすかに気品があった。俺は、ひょととしたらこの人は自分が思っているような人なのじゃないだろうか?と思った。

伊達監督は指をパチンと鳴らした。

「牧田。今言ったことは全部忘れろ。他言無用だ。どうも。メンバー発表の時はセンチメンタルな気分になるんだ。」

「わかりました。絶対に言いません。」

ちょうど校舎の前に来たので、俺は駆け足での玄関の前に行き、伊達監督が通るために扉を引く。その時に見た伊達監督の顔はいつもの顔が濃いオッサンに戻っていた。

うーん。ドッスン