パンクロックと箱根駅伝 47話

伊達監督によるメンバー発表が終わると、選ばれたメンバー達は一言づつ抱負を述べることになったのだが、決意を述べている時の雰囲気たるや、あまりに奇異な印象を抱かざるを得ないような具合だった。
何故ならば、目の前にいるチームメイト対して抱負を述べてると言うよりかは、そこにいない誰かに話してるみたいだったからだ。そう、丁度テレパシーを使ってメンバーに選ばれた嬉しさを田舎にいる両親や恋人に向けて交信するように話しているように見受けられる選手が大半だったからだ。逆に、選ばれなかった者は、選手の決意や抱負など、どうだってよくて、ただただ、当日体調不良者が出た時にどうにかして最後のメンバー枠を奪おうと思案しながらも内心ショックでどんより目が曇ってしまったような複雑な表情が幾つもあった。白井さんについては悔しいというよりは、浜さんへの申し訳なさを感じてるような顔をして右の唇を噛んでいるのが見えた。

全員が話し終わった後で、伊達監督は細かな事務的な調整事項が書かれたプリントを配ってから説明を始めた。誰が何日にどの練習をして、どこの宿に泊まって、付き添いの選手は誰で、どの交通手段で移動するのかと言ったような先ほどの緊張感とは打って変わって淡々話した。

「で、ここまで。話は以上だ。くれぐれも言っておくが、メンバーに選ばれなかったからと言って諦めるなよ。じゃあ、あと今回の俺の選考に不満のある者はいるか?あとからグチグチ言われても困るからな。質問がある奴は今ここで手を挙げろ。」

伊達監督は、交響曲におけるバスドラムのように太くて威厳のある言い方で問いかけた。この雰囲気の中で選考に不満があって手をあげることができる奴はさぞかし豪傑だと思ったが、一番後ろの列の席からスッと手が上がるのが見えた。その場の全員の視線がその手の持ち主に矢の様に降り注いだ。誰だ?そんな勇気のある奴は?なんとそれは、選考落ちした選手ではなく、準エースの前川だった。伊達監督も思わぬ選手が手を挙げたので深く眼底に据え付けられた目を丸くさせて驚くように言った。

「なんだ、前川?一区が不満か。」

前川は思わせぶりにスッと立ち上がり、目に掛かったアシンメトリーに伸ばした前髪を気障っぽく振り払ってから、自信からくる高慢な態度で話を始めた。

「いや、不満があるのは、自分の事ではありません。私は1区で区間賞ねらいます。それに対しては問題はありません。では問題は?そう!10区です。なぜ大和を使うんですか?誰がみたって調子悪いの分かるじゃないですか?」

場の雰囲気が一気に凍り付くが、前川はおかまいなしに続けた、今度は伊達監督の方では無く大和さんの方を向いて彼を指差した。

「てかさ、最近ずっとイライラしてたからぶっちゃけて言うわ。大和怪我隠してんだろお前?ぜったいお前の動きおかしいわ、てかさ。メンバー選ばれたいからって、怪我かくしてんじゃねぇよー。お前さ、この前さ、監督室で伊達監督に泣き落としてたろ?自分が選ばれたいからって卑怯じゃないの?あぁ?どうなんだよ?」

大和さんは座ったまま言葉もなく前川を静かに睨みつけた。そこにはありったけの殺意が込められており、いつ机を蹴り飛ばして前川に殴り掛かってもおかしくないと俺は思った。それを制するように伊達監督が口を挟んだ。

「前川。まぁ、落ち着け。俺も大和に関しては同じ事を感じてた。怪我してると睨んでたよ。だが、俺が最後に選考メンバー選んでる時にな。監督室に現れて絶対区間賞を取るんでメンバーに選んでくださいって床に頭をこすりつけてきたんだな。脚がちぎれても走るって言ってきてな。なぁ大和。」

俺は動揺した、恐らく場に全員が同じ事を思っただろう。なぜならばメンバー争いは血も涙もなく実力のみで決まると思ってたからだ、しかし蓋を開けてみれば泣き落としが存在したのだである。マネージャーという立場から見ても甚だ理不尽な話だと思うぐらいだから、その場にいた全員が『なんて理不尽な話だ』と思ったに違いない選考に落ちた選手などは特に。そしてもう一つ疑問がある。なぜ伊達監督はチームに不協和音をもたらすような事をわざわざ言ったのだろうか?

「俺も、大和に関しては調子が悪いだけなのか、怪我しているだけなのか迷ったよ。富津合宿の出来は悪すぎたからな。だが、調子を見るために主力とは別に練習させたら絶好調だったし、何より本人が怪我ではないと言い張るんだな。まぁ、大和に関しては特待の事もあるし、みんな敏感になりがちだがな。でも、俺は過去の実績を買った形だ。」

なにが、過去の実績だ。この狸親父め!過去の実績がそんなに重要なら過去の実績がない白井さんが最後の最後いくら頑張ったってダメじゃないか。それはあまり理不尽ではないか?おかしい。コレには絶対何かカラクリがある。でもそれが何かわからない。

「おい、大和から何かあるか。」

伊達監督から促されると、大和さんは椅子を雑に引きずってワザと大きな音をたてた。ヌゥと立ち上がった。無骨な表情で立ち上がって前川さんの方を顔は向けず目線だけで一瞬睨んだ。古びた茶色ダウンジャケットをきている坊主頭の大和さんと、金色のネックレスをしてパリで買ったらしい上質な碧い手編みのセーター着ている前川さんがにらみ合うと奇妙なコントラストが生まれた。全く同じ物を目指し同じ努力している同じような実力の持ち主二人なのにまるで違う世界の住人同士のようだった。その均衡を破るように大和さんは必要以上に無骨に言い放った。まるで何かを隠すかのように。

「え、。そうっすね。まずは、本来は自分はチームを引っ張る立場なのに合宿では情けない練習をしてすみませんでした。あと、怪我はしてないっす。ちょっと調子悪かっただけです。なんで、絶対に区間賞取ります。以上っす。」

それだけ言うとまた雑に椅子を引きずってから、ドンッと荒っぽく着席した。
大和さんの言ってることは、嘘だ。絶対に怪我している。俺にはそれを分かっている。だけど、それを声に出して言うことができなかった。この場合は、言うのが正しいのか?若しくは言わないのが正しいのか?ダメだ。さっぱり分からない。仮に、もしここで俺が一言、ロキソニンの飲み過ぎで吐血していた事を公言してしまえば、大和さんがメンバーを外されて白井さんがメンバーに入るだろう。ただ、それが正しい事なのか?間違っているの事なか?よくわからない。つまり、この状態が俺の人生経験では善悪の区別すらつかないほど特殊すぎて、沈黙するほかに無かったのだ。

しばらくそんな事をグルグル考えながら沈黙を貫いていると、重苦しい雰囲気のままミーティングが終わった。
もうすぐ、箱根駅伝本番だと言うのに、此処には希望も夢もなくて。的足の速い勝者と足の速い敗者が存在するだけだった。それは一種の精神的真空状態のようだった。

寮までの帰り道。浜さんと白井さんと一緒に歩いていると。浜さんが「まだまだチャンスはあるからな。最後まで諦めるなよ。」と言った。それは優しい嘘だった。白井さんは「もちろん最後までメンバーねらいますよ!諦めませんよ!」と笑顔で返す。それもまた優しい嘘だった。そして俺は厳しい真実を言えなかった自分を呪った。

寮に帰ると、洗面所から長い影が延びていた。それは誰かが泣いている形をしていた。その影の持ち主が誰かなのかは分からないが、俺はその影の持ち主が誰かなんて詮索するような無粋な事はできなかった。そう、この神聖な空間を犯す事などきっと聖者でもできないだろう。

誰かの努力の結晶が美しい涙となって、無機質な洗面台に流れ込んでいった。

うーん。ドッスン