パンクロックと箱根駅伝 39話
タイムトライアルのスタート地点の前に色とりどりのランニングウェアを着た選手が集まってきた。誰の顔を見ても笑顔の者はおらず。口数も少なく誰もかれも心に秘めた思いを確認するかのように息を整えていた。
唯一例外は、涼しいというよりはやる気なそうな顔で、適当な鼻歌を歌いながら軽い柔軟をしている戸川だけだった。
どんな時でも彼の気持ちは上の空らしく、ミーティング中もよく窓の外ばかり見ている。最初の頃は、なんて失礼な人だと思ったけれど、彼がそれでも許されているのは絶対的な実力と余裕がなせる業だと理解すると、それが日常で何も思わなくなっていた。むしろ一部の選手たちからは顰蹙を買うどころか一種の尊敬と信仰の対象になっているほどである。
伊達監督が選手たちの前にメモを事細かに書き込んだ紙を挟んだクリップボードを持ってやってきた、濃い顔にかけたオークリーのサングラス、古い裾がキュッと絞れたゴールドウィンのウィンドブレーカー、そしてオメガの時計。まるで地上げ屋にしか見えないような出で立ちだった。
「では、今から練習始めるが、最後に確認するが、お前ら本当に良いんだな?Aチームで。」
伊達監督は狼の群れから、狼の姿をした羊を探すような、いやらしい口調で問いかけをした。しかし、選手たちは異口同音に。
「問題ないです。」
と、力づよい口調で言ったのを見て、伊達監督は満足気にフフンと笑った。
「よし!わかった!後悔はないんだな!いいか、今日の結果がお前らの人生を掛けていると思え!何度も言うが、箱根に出た事あるのと、出た事がないのではお前らの人生は大きく変わってくるぞ!はっきり言うが、今日頑張れなかったら、髪を茶髪に染めてチャラチャラした大学生活を送った方がずっとましだと思うからな!これは戦争だぞ!とくに崖っぷちの死ぬ気で走れ!以上だ!」
伊達監督が好きではないが、この言葉の重さは胸にズシリと伸し掛かった。そうだ、選手たちは、本当はチャラチャラした大学生活を送りたいのだ。みんなそうだ!テレビじゃあ山ほど綺麗事を並べるが、選手たちは内心こんな苦しくて辛い所に、もう一秒だって居たくないはずなのだ。
しかし、選手は死ぬ気で走る。それは、自分の人生のため、就職のため、恋人のため、あるいは両親に親孝行する為。それ以外の色んな事。
みんな何かしらのテーマを持って箱根を目指して走っているのだ。いや、それはテーマというよりは引力に近い。そうだ、選手は何かしらの引力に導かれて苦しみの中を戦っているのだ。そして俺は、先輩と浜さん達の引力に惹かれてこの不思議な世界の一員になっている。
『箱根駅伝を目指す。』別な惑星の物語だ。まるで、普通の大学生活をアベコベに映した鏡の中の世界のようですらある。
「じゃあ、今日は風が強いから6kmまでペースメーカーをつけて集団走に変える。それで1kmから3kmを前川が先頭。大体2分58秒ぐらいで押していけ。」
はい!と体格ががっちりした前川さんが返事をする。
「つぎ、3kmから6km 福永が2分55秒ぐらいにあげろ!」
いつもは奇人にしか見えない福永さんも真剣な顔をして返事をした。
「それ以降はフリーにする。箱根に出たいやつは死ぬ気で走って29分15秒以内で帰ってこい。」
俺と浜さんは選手たちの後ろで、自転車のサドルにに腰かけながら待機している。伊達監督の発言を聞いて浜さんが小声で俺に言った。
「まじかよ、この設定でビルドアップかよ。」
「そんなに、きついんですか?」
「経験者からしたら震えがくるよ。」
そうしていると14人の選手たちは一列になって並んだ。14名の外に5、6区の山選考要因に入っている選手は今回別メニューをやっているため。この中から最低でも6名は脱落することになる。そして、箱根駅伝のメンバーから落ちるだけではなく、白井さんに負けると清潔な一軍寮から、ごみ溜めのような2軍寮に落とされるので、崖っ淵の選手たちは必死である。
「よし、いくぞ!3、2、1!!」
ピピピッ。
伊達監督がストップウォッチを押す音を合図に、選手たちは素早い大蛇と見違えるほどに一列のまま華麗なスタートを切って、ペースメーカーの前川さんは滑らかに加速した。伊達はナメクジが運転する監督車に乗り込む。
俺と浜さんは監督車の更に後続から自転車でついていく。
伊達監督も本日の練習を全員が達成できるとは思っておらず、脱落した選手を後ろから追いかけてタイムを取るのが俺と浜さんの仕事だ。
ペースがあるうちは丁寧に一列になって走っているが、おそらく6km以降のペースメーカーいなくなってからはそれぞれの思惑によって、選手たちがバラバラになるのは間違い無いだろう。
俺は必至で自転車を漕いで監督車の後ろに付いていく。マネージャーになった当初は『なんだ、自転車で後ろに付くぐらいなんてことないや。』と思っていたが。風が強い今日みたいな日に時速20km以上で走る選手にカゴに給水を満載したママチャリでついていくのは相当にきつい事なのだ。
選手たちの集団はタッタッタッと乾いたキレのある足音を立てながらながら、先ほど井上さんが靴を届けてくれた岬の突端まで向け走っていく、まだ誰も息を切らしていない。
自転車を漕ぎながら、ふと思い出した。
そういえば、井上さんは今何しているのだろうか?さっきはずぶ濡れでうつぶせていたけど、どうしているのだろうか?まあ、井上さんはああ見えてタフだしどうにかなるだろう。しかし、まさか海を渡って靴を届けてくれるとは、、。井上さんは先輩と似ているようで実は全く正反対の人なのだ。先輩は徹底した理想主義者で金は無いが夢は持っている。理想を実現する為には自分のすべてをぶつけて一切の妥協を許さない。
それとは対照的に、井上さんは現実主義者で夢をあまり持たない。妥協だらけだし、金はジャブジャブに持っていても、目標はあっても夢は持っていない。けれど、柔軟性は高く、いざという時にはとんでもない行動力を発揮するのだ。
確かに、見た目は、高円寺のアル中みたいにだらしなく、くそ野郎だと思う事も山ほどあるが。俺は井上さんに何度も窮地を救われている。
先輩に救われたのが俺の魂であるとすれば、井上さんに救われる時はいつだって現実的な問題の方なのだ。
そんな事を思っていると、砂浜のそばの公衆トイレの自販機で缶コーヒーを買っているウェットスーツを男と目が合った。井上さんだった。
俺は挨拶をかわすまでもなく一瞬目を合わせただけで通り過ぎた。今の俺は井上さんの目にどう映っているのだろうか。果たして井上さんに今の俺が命を掛けて靴を渡すに値する男に見えているのだろうか?
俺はパンクロックの世界から全く別の世界にきてしまったのだ。同じ日本に住んでいて同じ時代に生きても、世界は数え切れないほど存在してる。
そうだ、もしか俺が田無土なんて最悪の街に引っ越さなけば普通に楽しく普通に楽しい大学生活を送っていただろう。それが、さも世界の普通だと言わんばかりに俺は普通の世界に対する感謝をしらず生きていただろう。
中学生の時に、わけわからず地獄に落ちて。先輩とであいパンクの世界に生きて。そして今、何故か陸上部のマネージャーをしている。
それらの世界の中で自分が真に生きるべき世界は何処なのか?それはわからない。ただ一つ言えることは、今この瞬間においては井上さんと俺は1kmも離れていないのに全く違う世界に生きている。と言うことだ。
そんな事を思っていると3kmを過ぎて、ペースメーカーが福永さんに変わり、集団はグンっとペースアップした。先ほどまで快音だった足音達にリズム遅れの不協和音が混じり始め選手たちの呼吸も次第に荒くなってきた。
すると、小心者の寺本が顎を突き上げ、ハァハァと喘ぎ声をあげて、腕を老人のように力なく抱えた情けないポーズを取りながら集団から脱落してきた。伊達監督には6kmより手前で脱落するものには自転車は後ろからついてタイムを計測しなくて良いと支持を受けているので、寺本をスルーして監督車の後ろに付いた。
集団は1週を終わって丁度5km。現在13名である。
集団の最後尾に白井さんの姿が見える、やはりこのペースはきついのだろうか?
浜さんが独り言で呟く。
「たのむぜぇ、白井。」
6kmを過ぎた瞬間。集団のペースがフリーになり、戸川が逃げるカモシカのような勢いで集団から飛ばしていった。顔に苦しさは浮かんでいなかった。
それを追いかけるように、前川、大和、福永が第二集団をつくる。
その後方には石原と小林兄を先頭にした8人の第三集団。彼らが本当に勝負がかかっている崖っ淵の選手なのだ。
俺はその第三集団を後方から追いかける。
第三集団は全員身体中に汗を大量に書いてい、何にかは遠くからでも聞こえるぐらい大きな呼吸をしていた。
あっ、その集団から白井さんが徐々に後ろに下がってきているのが見える。致命的な離れ方ではないがこれ以上差が広がると危ないかもしれない。
第三集団は再び岬の突端に差し掛かった。第二集団との差は大きく開いている。白井さんはズルズル下がり始めている。
その時、大きなだみ声で誰か歌っているのが聞こえてきた。
『はぁ、歌!?』
なんだと思い、歌が聴こえる方を見上げると、少し離れた左側の防波堤に井上さんが腰に手を当て仁王立ちしながらブルーハーツの「終わらない歌を」を歌っていた。
*終わらない歌を歌おう
*クソッタレの世界のため
*終わらない歌を歌おう
*全てのクズ共のために
*終わらない歌を歌おう
*僕や君や彼らのため
*終わらない歌を歌おう
*明日には笑えるように
うおおおおおお!
井上さんは絶叫した!きっと選手たちにはXXXXにしか見えないだろうが俺にとっては何よりのエールだった。
その時に、猛烈な突風が吹いて第三集団がペースダウンした。その瞬間に白井さんは集団の最後尾にピタリとつけた。
うーん。ドッスン