パンクロックと箱根駅伝 37話

10kmタイムトライアルは富津公園を2週する単純なコースである、富津公園は全体的にフラットで路面状態も良好な為、走りやすく好タイムが期待できる。
唯一の難所と言えば唯一防砂林が無い岬の突端のヘアピンカーブの部分だけだ。Aチームの設定29分15秒とは陸上競技場で10000mを走るのであれば練習の設定としては過度に速いペースであるが、この富津のコースであれば力のある一軍の選手達。(戸川、大和、前川、そして奇人の福永さん)にとってはたいして難しいタイムではない。
そしてBチームの29分45秒がもう一つの基準になるのだが、箱根のメンバー争いで仕上がっている選手達にしてみればこのタイムをクリアランスする事自体は難しくない。しかしながら箱根のメンバーに選ばれるにしては今一歩アピールが足りないタイムと言わざるをえない。なので、普段はBチームで無難で練習をしている人間達が伊達監督に自分の実力をアピールするために賭けでAチームに志願することが毎年恒例である。おそらく当落線上にある小林君の双子の兄やアホの石原あたりがアピールのAチーム繰り上げを狙うと思われる。
Aチーム繰り上げとは当然ながらアピールできる良い面だけではなくあくまでも賭けであり、Aチームにしたばかりに29分15秒の設定をクリアできないばかりかオーバーペースで31分以上掛かってしまう選手も出てしまう。
そして、そのような選手を伊達監督にとって箱根駅伝本場における危険因子とみなされメンバーから外される。
専央大学陸上部のように優勝を計算できるほどみに戦力の充実しているチームにとっては、下位7番以降は殆どドングリの背比べであり、その選手達に伊達監督の期待する要素とは心理的な駆け引きになった際にもブレーキせずに一定の成績をあげることのできる安定性のある選手なのだ。しかしながら、練習の成績が良い方が生メンバーに選ばれるのが難しいところである。

そのような複雑な要素を有しているので、俺は各部屋を回って、Aチームで練習するか、Bチームで練習するかの統計を取っているのだが、これがなかなか回答が得られずに各部屋を何往復もする羽目になっている。
力があって迷い無く『Aチームで』と言える人間以外は、だいたい頭を抱えてから周りの様子を伺うために『ごめん、俺一番最後にして。』などというのだが、みんながみんなそんな具合だから。半分ほど空白を埋められなかった集計用紙をもって廊下を右往左往する羽目になっているのである。

中庭で洗濯物を干している浜さんがそんな俺に気が付いて声を掛けた。

「おーい。牧田ー。大変そうやなー。」

「ええ。中々、決まらなくて。」

丁度、中庭の浜さんと網戸越しに話したときに、目の前の階段から、白井さんと膝にアイシング用の氷嚢をグルグル巻きにつけた梶原さんが降りてきた。まだ白井さんに聞いていなかったので直ぐに声を掛けた。

「あっ、白井さんはAチームとBチームどちらで?」

白井さんは、右手をオカマみたいにクニャクニャと曲げて惚けた口調でこう言った。

「愛してる、のA。で、お願いしますわ。」

俺は、自分の耳を疑った。なぜならば、白井さんは靴が無い上に、実力的にもAチームは厳しいからだ。

「白井さん本当に良いんですか?」

俺が聞き返すと、22には見えない、おっさんみたいなあごひげをショリショリ手でなでながらウィンクでOKっとジェスチャーして俺の前を通り過ぎた。
俺が予想外の事に呆然としていると、梶原さんがボソっと耳元でこう言った。

「もう一回、各部屋まわってごらん?全員Aチームになるから。」

はて?と思いながらも、もう一回各部屋を回ると本当に全員Aチームになったのでびっくりした。そして各部屋を出るたびに『白井ふざけんな』と言ったような声が扉越しに聞こえてきた。
なぜ急に全員Aチームになったのか、後で梶原さんに訪ねると。

「だって、一番遅いと思われる人間が仮に29分15秒でゴールしたらBチームはその瞬間全員負けだからね。だったら、みんなAチームを志願して実力で勝負するしかないでしょ。心理的に。」

なるほど、たかがAチーム、Bチームの選択でもそんな心理的な駆け引きがあるのかと意外な奥深さを知ることになった。

しかし、あとはどうやって白井さんの靴を持ってくるか。なのだが、、。井上さん大丈夫かな?

9時半をすぎて俺は練習の準備を始めた。まず給水を作ってから、選手達のストレッチを手伝う。それから、浜さんとコース上に不足の事態がないか自転車で確認しに行った。たとえば唐突な道路工事や、野良犬がいないかなどだ。そういった些細な兆候を見逃すと意外な大事故につながるので、大切な練習の前は必ず確認に行くことになっている。

「白井が思いきったことしたから雰囲気荒れてるるなぁ。」

俺の横で自転車を漕ぐ浜さんがボソっと呟いた。

「やっぱり、印象よくないですか?」

「いや。良い悪いじゃなくてな。無難に練習やって箱根のメンバーに選ばれようとおもってた奴らからしたらでかい誤算だよ。でも、伊達監督からしたら正に俺たちを呼んだ思惑通りだろうね。」

「と、言うと。どう言うことですか?」

「2軍みたいに後が無い人間がガムシャラで暴れてくれたほうが、1軍でヌクヌクしてる中堅の連中に発破が掛かると思ったんだろうよ。あの伊達監督はそこら辺が旨いのよ。だから俺は嫌いなんだけどな。」

なるほどなぁ。と思っていると、二人の自転車は岬の突端の浜辺にたどり着いた。天気が曇りで、風は北西からピューピューと吹き荒れ海は白波を立てて畝っている。浜辺の中心は巨大な突っ張り棒を何本も埋めてピラミッド型にしたようなの展望台が何かの巨大な抜け殻のようにそそり立っていた。

俺と浜さんがコースの点検を終えて10km走のスタート地点の富津公園の駐車場に向かい、ナメクジに異常なしと報告した。
そして、時計を見ると、すでに10時15分だった。ああ、もう時間なんてないぞ。
さっきから井上さんにはコッソリ何度か電話をかけたが繋がらなかった。
『これはもうダメだ』と諦めて体操をしていた白井さんに誰にもばれないように謝ろうと思ったその時。井上さんから着信があった。
俺は、さっと防砂林の方へ入ってこっそり電話にでた。

「井上さん。今どうしてます?靴どうですか?買えましたか?」

「ああ、ばっちりご所望の品が手に入ったよ。」

俺は、とりあえずホッと胸をなで下ろしたが、井上さんは今一体どこにいるのだろうか?靴を買っても間に合わなければ意味が無いのだ。

「あの、井上さん今どこですか?」

「横須賀。横須賀の浦賀って所。」

俺はカラのバケツで殴られたようにポカンとした。いや、いやいや。あんんたさっきいた。横浜より富津から遠くなってるじゃないですか。俺は頭に熱湯を注がれたようにカーッと熱くなって怒りを感じてきた。

「ちょっとまってくださいよ!なんですか!?横須賀から間に合うわけないじゃないですか!?おちょくってるんですか!?」

「ばかやろう、おちょくってなんかねぇよ。10分でそっち付くから岬の先端で待ってやがれ。」

その口調は嘘を付いてる口調でもおちょくってる口調でもなく、大真面目な口調だった。

「えっ、えっ、どこからくるんですか?」

「幻の第2アクアラインを突っ切るって言ってんだよ!」

そして、電話機の億から大型バイクのようなバォンっと言う大きく力強いエンジン音が聞こえて電話が切れた。
幻の第2アクアライン?、、、。えっ?なにそれ。なにそれ。10分で?岬の先端?横須賀?大型バイク?バイク?東京湾?バイク?あっ、水上バイク!!あっ、ジェットスキー!!!

「あーーーーーーー!!!」

そうだ!井上さんはジェットスキーを持っている!それに富津と横須賀は最短で6km!それから井上さんは横須賀の浦賀にジェットスキーを置いていた。まさか?いや、でも、、、。そうだ!やっぱりそれしかない!!
俺は次の瞬間、誰にもばれないようにこっそり自転車に乗って岬の先端まで自転車をガチャ漕ぎした!突端の浜辺に着くや自転車を放り投げて、展望台の一番上まで息をゼエゼエ切らしながら駆け上がり、錆び付いた固定式双眼鏡に100円を突っ込んで、双眼鏡越しに東京湾を見下ろした。そうすると丁度対角線上、天然ガスを満載した大型タンカーの奥に見える、大型の漁船の後方に水しぶきをもいきり立った孔雀の様にまきあげながら、三浦半島から房総半島へ向かって暴走してくる何かが見えた。水しぶきの中心は黒い陰にしか映っておらず、正確に目視することは不可能だが。恐らく間違いない!あれは井上さんに違いない!
そして、詳しい法律は分からないのだが、往来の激しい東京湾を最短ルートで突っ切るという明らかにやってはいけないさそうなパンクロックな事をしながら靴を届けようとしているのだ。俺は慌てて展望台を駆け下りて井上さんの到着を待った。次第に、人の形がハッキリしてきた。太った全身スェットスーツの髪ボッサボサの男が荒波に揉まれながらジェットスキーに乗っている。間違いない!やっぱり井上さんだ。もう、ウィンドブレーカーを着込んでも寒風吹き荒む寒い時期なのに、俺の為にジェットスキーにのって東京湾を横断してくれるなんて、、。そう思うと今にも涙が溢れそうだったが、上陸間近で井上さんの顔がハッキリ見えるようになると、寒さでとんでも無くクソみたいな顔してるうえに青い鼻水で顔が中がガビガビにコーティングされていてなっていて、しかも髪がボサボサしてるのでは無く海藻だったので、絶対に笑ってはいけないのだが思わず吹き出してしまった。

井上さんを乗せた水上バイクは緩やかに砂浜に上陸し、そのまま井上さんはゼエゼエ言いながら倒れ込んだ。
出産を終えたトドのように砂まみれで横たわる井上さんに俺は駆け寄った。

「井上さん!大丈夫ですか?」

「ごっほ。ごっほ、大丈夫なわけねぇだろ。タンカーに引かれそうになるし、まっ、まじで、死ぬかと思ったよ。」

井上さんは息も絶え絶えだった。そして、寝転がったまま、背中にたすき掛けしていたスポーツ用品店の袋を俺に手渡した。

「あの。なんてお礼していいやら。」

「いいよ。時間ねぇんだろ。早くいけよ。あー気持ちわりぃ。」

俺は時間を見ると10時45分すぎな事に気が付いて慌てて自転車に乗った。

「あのすいません。本当にありがとうございました。」

俺が頭を下げると、井上さんは大声で叫んだ。

「俺は気持ち悪くて最高だぞ!ばかやろー!!!早くいけや!」

井上さん。あんた本当に最高だぜ、俺もあんたともっとバンド活動したかったよ。
俺は再び自転車をガチャ漕ぎしてスタート地点に戻った、そして俺の胸には懐かしいワクワク間が充電されていた。

うーん。ドッスン