パンクロックと箱根駅伝 序章

 ひょっとしたら俺は夢を見ているのではないか?ストップウォッチを片手にそんなことを真剣に思ってしまった。一瞬一瞬が奇跡に近く、砂漠に降る雪のようだった。まったくもって奇異な光景である。車の後部座席から、”先輩”が新春の箱根路を颯爽と駆け抜けているのがみえるからだ。

 そして、その先輩は伝説のパンクロッカー、クレイジー街田なのだ。俺の恩人であり、親友だ。その姿はスポーツ選手よりも、神事をつかさどる狂信者に近いようにもみえる。歌えなくなった唄の代わりにに自分の全身全霊を箱根駅伝にぶつけているのだ。カーラジオに耳を傾けずとも、先ほどから実況中継で先輩の異形と偉業を讃えているのがハッキリと聞こる。


「なんということだ!専央大の街田!信じられない快走を続けております!繰り返しますが、この街田。大学2年生まで全くの素人でした!しかも、若者に人気パンクバンド『アブラボウズ』ボーカルでもでもありました。現在、世田谷学園を交わして単独8位。ここまで5人抜き。すごいですよね。解説の谷垣さん。」


 他の区間では常に冷静な物腰だった実況者でさえ、先輩の名前を出すたびに興奮からわずかに声が裏返える。解説者も、感嘆した様子で伝える。


「正直、私も全くの無名の素人で、持ちタイムも10000mで30分02秒の街田選手がメンバーに入ったのを見たときは、かつて無敵艦隊と呼ばれた専央大もここまで苦しい戦いをするのかと思いましたが。いや、本当に勝負って何が起きるか分かりません。いい走りです。なんと、ここまで区間3位の快走なんですよねぇ。」


 今は先輩の後ろを走る監督車に監督の助手として乗り込んでいる。しかし、俺もまさか、陸上部のマネージャーになって箱根駅伝の監督車に乗り込むなんて夢にも思っていなかった。監督を補佐するために先輩の1kmごとのスプリットタイムをノートに慌ただしく書き込んでいくが、その最中にもラジオで「街田」の名前が呼ばれるので何とも鼻が高かい気分になった。きっとツイッターでも大騒ぎしているになっているに違いない。


 今日という日を迎えるまで何度人に笑われただろう、『ど素人のバンドマンが箱根駅伝を目指す。』それがどれだけの人の嘲笑の的になったことか。先輩が陸上部に入部することだけで批判が無数の矢のように降りかかったし、チーム内からは嫌がらせだってなんどもされた。俺だって、先輩が走るためにはなんだってしてきた。そして、それは地獄の日々だった。しかし、今こうして先輩が走っている姿をみてるとなんだかそれが、すべて報われたような気がして胸がジンジンと熱くなってきた。
新春の湘南を先輩は駆け抜けていく、松並木の古い街道を、湘南大橋の強風の中を、真新しい立派な振興マンションのすぐそばを、様々な色の旗をパタパタと振る色とりどりの人々の群れをかき分けるように、白い息を吐いて只まっすぐ次の区間へ向けて。
 
「おい、牧田。街田のタイム落ちてないか?」

 
 監督の一言に俺はハッとした、極めて快調走っていた先輩ではあるが、浜須賀の交差点を過ぎたあたりから徐々に先輩の様子が怪しくなくなってきいる。俺は手元のメモ帳とストップウォッチに目を走らせた。


「あ、監督。もしかしたらタイムが落ちてきているかもしれません。」


 その不安は的中して、浜須賀の交差点を過ぎたあたりから徐々に先輩のフォームが大きく左右にブレ始めてきて、一歩を踏み出すペースが遅くなってきたように見える。危険だ。これはガクッとタイムが落ちているかもしれない。後ろを振り返ると、10km地点で勢いよく引き離したはずの世田谷学院の赤いユニホームが少しずつ大きくなっているのが見えた。さっきまで威風堂々と座っていた監督も、異常事態に不安を覚えたのか、眉間にしわを寄せ石像のようにこめかみに手を当て うーん。と唸った。


「牧田、今の1kmのラップどんなもんだ?」


 監督からの質問に慌ててストップウォッチを凝視しながら答える。


「あと少しで13km通過、、、3、2、1。今!! 3分14秒です。」

 その瞬間、車内の空気が凍り付き、俺の頬を冷たいものが滴り落ちるを感じてた。これはマズいぞ。先ほどの1kmのタイムがが3分01秒だったら明らかにペースが落ちている。しかも、8区の最大の山場である遊行寺の坂でには入っていないではないか。俺は心で呟いく。『そっくりだ25年前の悪夢に。』俺がこの世にも奇妙なパンクロックと箱根駅伝に巻き込まれる事になったあの事件に、まさにそっくりじゃないか。そんなの嘘だろ。先輩が同じ運命をたどるなんてあまりに皮肉すぎるじゃないか!嘘だ。先輩なら、きっとあの悪夢に打ち勝てるはずだ!
 

 俺は食い入るように先輩の動きを凝視した。スタート時にはとても滑らかなフォームがもはやロボットのような動きになり、肩が錨のように上がり始めた。体の軸は少し右に傾き、反対に左膝は少しガニ股になったいた。そして、7度しか気温がないのにも関わらず、大量の汗を掻いていて、ボワっと湯気が出ているを目視できるほどだった。

「膝か、。」

 監督は小さく断定的に呟いた。

「はい、多分そうでしょう。」

 膝をギュッと掴みながら俺は返答をした。その一言を言うのは辛かった。先輩の膝はボロボロで、俺はずっとそれを匿ってきたからだ。

「あのすいません。実は、、、」

 俺は、素直に全てを告白しようと思ったが、監督はこっちを振り向き。

「いい。全部知ってたよ。俺の責任だ。」

 柔和な笑みで俺の気持ちを諭してくれた。本当は、監督に対しても、チームに対しても申し訳無いきもちでいっぱいだった。でも、監督が許してくれたのが少しだけ許された気持ちになった。海岸線沿いが終わり市街地に向かうにつれて人の数は多くなってきた、藤沢駅に到着すると黒山の群衆がランナー達を待ち構えていた。そして、その多くが「街田ー!」と叫び先輩を応援していた。俺は、その光景に身振いをしそうだった。

前を走っていた、先輩が左手を上げグー、パーして合図を監督車に送った。給水要求の合図である。


「あっ、監督給水の要求が来てますよ。」

「牧田、お前が給水行ってこい、それから、なんか魔法を掛けてこい。このままお前が何も言わずに遊行寺でブレーキしたらお前も後悔がのこるだろ?」

 ギョッとした。えっ?俺が!?

「えっ、自分ですか?自分が言ってもいいんですか?」

 監督は俺にペットボトルの水を手渡す。

「俺は、膝が悪いから給水を渡せない。マネージャーのお前が行ってくれ。大丈夫ですよね。」

 監督が、監督車に同乗している審判に問いかけた。

「大丈夫です。」

 その運転手の一言を聞いた途端、俺はドアを勢いよく開け、勢いよく飛び出そうとした寸前、監督が一言声かけてきた。

「いいか牧田、魔法をかけるんだぞ!」

 はい、と勢いよく返事をして車外へ飛び出す。ヒュゥと冷たく清い正月の空気が俺の肌を突き刺した。耳鳴りがするほどのの歓声の中を先輩に向けて走っていく。先輩は、硬く冷たいアスファルトの上で鉄より重たい襷をつけて、折り重なった運命の渦を切り裂いていた。先輩の真横につけて水を渡すとき、俺はハッとした。遠目から見る以上に先輩は帯びたしい量の汗をかいていた。しかも、それは冷や汗だった。間違いなく先輩は激しい痛みを堪えてる。先輩はギョロっとした目で俺を見て一言呟いた。

「膝あかんわ。」

 俺は息を飲む。どうしよう。何か気の聞いた事をいわなくちゃ。でも何を言えばいい?

「 あっ、いや、でも、その、大丈夫。」

 猛烈な後悔の念が俺に湧き上がってきた。『魔法を掛けてこい』と言われが、魔法どころか気の聞いた事の一つも言えず。馬鹿みたいに大丈夫です。いうことしかできないのかよ。お願いだ。もしも、箱根駅伝を神が見てるならば、先輩の人生に救いを下さい!お願いします。そう、神に祈るしかできなかった。

「あっ、あと、5kmです!頑張ってください。」

「おう。」

 先輩の手から水を返して貰らい、監督車に戻ろうとした、その時だ。
何重にも重なりノイズのようになった歓声の海から、とてもクリアな声が響いた。

「つーなーぐー。がんばれー。」

 決して大声ではない、むしり囁くような呟くような不思議で暖かくて懐かしい声だった。なぜその声だけ響いただろう。先輩は声のするを向き、沿道に誰かを見けたのだろうか、ニヤリと笑った。

「なるほどな!」

 先輩はつぶやくと、目の光が変わった。先輩の芯が冷え切って固まってしまったあの瞳の奥に、あの時の魅惑的で暴力的な輝きが戻るのがたしかに見えた!先輩はついに帰ってきたんだ!そうだ、ずっと憧れて、ずっと尊敬してきた、あの先輩の日の目の輝きだ。先輩は一回天を見上げてから、正面をカッと目を見開いて大声で叫んだ。

「牧田!膝ぶっ壊れたわ!駅伝選手として終わりや!でもな、こっからは、パンクロックや!ワシはクレイジー街田や!最初から全部がぶっ壊れてるんや!!もう、壊れるもんなんてない!全部ぶっ壊してやるわ!!」

「せ、先輩。」

「遊行寺いてこましたるわ!」

 先輩は天高く拳を突き上げた。そこから、俺を置き去りにして急加速しながら、遊行寺の坂に飛び込んでいった。雲間から急に光が差し込み目が少し眩んだ。帰ってきたんだ、クレイジー街田が。そして横に並んだ、監督車へ慌ただしく乗り込んだ。

「おい牧田、信じられない。ペース上がったよ!」

 監督が目を丸くしながら嬉しそうに膝を叩いきながら俺に話しかけてきた。
運転手も「すげぇ。」と息を飲んだ。ラジオも先輩が再加速したのを興奮気味に中継していた。運転手が俺と監督に問いかける。

「すみません。一体、どんな魔法使ったんですか?」

 監督はフフンと鼻息をしてから、自分の頬をさすった。

「音楽ですよ。音楽の魔法。」

 運転手は「へっ!?」っと間の抜けた声を出した。

「あの、運転手さん。実は自分と先輩はパンクロッカーなんです。パンクロックっていう野蛮な呪文に取り憑かれてるんです。」

 監督はククッと笑い。運転手はハンドルを握りながら少し首を傾げた。
俺もなんだかおかしくてハハハっと笑った。そう、すべてはパンクロックと言う野蛮な呪文に取り憑かれた俺と先輩の奇妙な物語なのだ。

うーん。ドッスン