灯台と懐中時計

夜の海に優雅に浮かぶ一隻のタンカーがボォーっと汽笛を鳴らし、その曇った音が、だれもいない遠くの入江に響き渡った。

その入江には、集落があった。切り立った岩礁でできた海岸線があり。その一角の小さな砂浜の近くに閑散とした錆びついた漁村と、侵食されつつある不安定な崖の上に据えられた古い灯台が一つ建っていた。よく言えば、風光明媚であり、悪く言えば何もない不気味な集落であった。

夏場は、少ないながらも観光客が来るので、砂浜が公園として整備されいたが、申し訳程度の海の家が一軒と自販機とお手洗いが設けられている程度だった。しかも、冬も目前に迫った晩秋の夜更けに、わざわざ辺鄙な浜辺に訪れるものなどおらず、波音と、風でススキが擦れる音と、時折聞こえる船の汽笛だけが夜の世界の住人だった。

ビュー。ヒュー。と凍てつく風が北の空から吹きおろし、ハングル文字が書かれたペットボトルがコンクリートの上を歪に転がるカラカラと言う音が聞こえたあと、ザッ、ザッ、ザッと。砂浜を歩いて来る音が聞こえてきた。

こんな時間に珍しい。若い女だ。

女は、背はスラリとして髪は短い。年の頃は20台半ば。品の良いロングダッフルコートの襟首を抑えながら、前かがみで風に震えながら波打ち際まで砂を踏みしめながら歩いて行った。波打ち際までくるとコートの内ポケットから、秒針が止まった真鍮の懐中時計を取り出した。それは立派なアンティーク品で細やかな彫刻がとても美しかった。時折吹く冷たい風の中で、彼女はその時計を病気の小鳥を見つめるような瞳でじっと見つめていた。

しばらくして、胸の奥から小さなため息をついた後、彼女は時計を胸にそっと戻し、踵を返して、鉄パイプとトタンで出来た簡素な海の家まで歩いて行って、併設された木製のベンチに腰をかけた。空は曇っていて空には月も星も何もなく、海の不気味な神秘さを讃えていた。

なにもない凍てつく夜に、静かにそよぐ海の遠くを見つめながら無意識にコートの中の時計を撫でていた。

ザッザッザッ、もう一人の足音が後ろから近づいてきた。

女がハッと振り返ると、そこには一人の老人が散歩をしているところだった。

70過ぎぐらいの品のようさそうな白髪の男性で、一目しただけで、害はないとわかる顔つきだったが、印象とは対照的に顔の右半分に大きな傷跡があった。目が合ってしまったので、女は急ごしらえの笑顔を作って軽く会釈をした。老人も愛想の良い笑みを浮かべて頭をゆっくり下げた。

「こんばんは。お嬢さん。ん、アレ、地元の人じゃないな。どちらからお越しになりました?」

女は、海の挟んだ先にある半島を指差し、ちょうど製鉄所の明かりが見えるあたりですと答えた。

「あれま、街の方からこんな辺鄙な所に、珍しいですね。つかぬ事をお尋ねしますが、お嬢さん、こんな夜中に何をされにきました?」

女は、対岸の海を見たくなったんです。と嘘をついた。まさか、懐中時計を捨てる場所を探して旅していたら、この海岸にきてしまったなどとは言えなかったからだ。

「そうですか、対岸の海を見たいだけでしたか。どうです何もないでしょう。」

そんなことはありません。静かでいいところです。

「まぁ、せっかく対岸の海まできたのですから、もしよろしければ対岸の老人の昔話でも聞いていきませんか?」

女はその申し入れを、ええ。と承諾した。老人は女の隣にそっと座った。老人はハァーっと両手に息を吹きかけ手を揉みながら、紙芝居でも話すような口調で語り始めた。

「僕は、昔からこの近くに住んでたんだけど、子供の時からずっと、対岸の街並みに憧れていた。賑やかで楽しそうだなぁって。そう思ってた。まぁ。渡ってしまえば対岸も寂しい町だったんだけどね。」

女は、頷く。ええ、対岸も寂しい町ですから。と答えた。

「でもね。お嬢さん。夜になったら真っ暗闇になるこの町から見たらずっと魅力的だったんだよ。私はジャズピアニストになりたかった。だから、親が中学を卒業したら漁師になれと言って止めるのもきかずに、対岸の町で働いたんだよ。工場で住み込みで働いて、夜はジャズバーで修業をしていた。まぁ、きついが楽しかったよ。そんなある日、工場の爆発事故に巻き込まれたんだよ。オマケに指もズタボロになってね。」

女は、きっとその時できたであろう老人の右半分の痛々しい傷を慈しみを込めて思わずジッと見てしまった。

「それで、海の見える病院に運び込まれて入院したんだ。金もなかったが、それより辛いのは親の止めるもの聞かないでピアニスト目指して町にやってきたのに、一生ピアノが引けない大怪我じゃあ。なんとも言えない悲しい気持ちだった。これからどうしよう。いっそのこと、病院の窓から飛び降りてしまおうか。と思思いつめて。病院の窓から月の無い暗い海を見たときに。向こう岸に一つ光るものがあったんだ。それは沈黙の夜を切り裂く光だった。」

老人が指差す方向に女は目を向ける、あっ、あの灯台ですか?

「そうなんだよ。あの古ぼけた灯台だけが夜にで光を放っていたんだ。その光はけっして華やかでも、美しくも無い。でも、ああ、そうか。確かにジャズが流れる街のネオンサインや一流ホテルのシャンデリアも美しい、それから教会のステンドグラスのマリア像から差し込む暖かな光も美しい。でも、寂れた不気味な崖上に立ち尽くし誰にも褒められる事なく光を絶やさない灯台も美しい。そう思ったんだ。だから、かえって漁師になるのも悪くないな。と思えたんだ。」

女は、灯台の足元の崖を見る。確かに急峻な崖地になっており、金物のように鋭い岩がゴロゴロと並んでいる。強い波は容赦なく岸壁に打ち付け、横穴に吹き込んだ風は魔女のため息のような気味の悪い音を奏でていた。確かに不気味な場所だが、その上に白亜色の短くて太いズングリした不恰好な灯台があることによってそれらに安定と調和をもたらしていた。

「あの灯台の光を見て私は考えたんだ。灯台は足元を照らさないじゃないか。もし灯台が首を垂れてしまえば、不気味な岸壁にしかそこには映らないじゃ無いか。だが、嵐が吹こうが、雷がなろうが、誰にも褒められずともジッと立ち尽くして闇夜を照らす事が誰かの道しるべになっている。」

老人の強くて優しい瞳を見つめながら話を聞いていると、女はなんだか恥ずかしく俯いきながらこの場所にたどり着いた経緯を告白した。
あの、本当は私、振られた彼に貰った時計を捨てようと思っていたんです。なんだか、止まった時計を見ているとまるで自分の時間まで止まった気がして、。でもリサイクルショップに売るのは忍びないし、燃えないゴミの日に捨てるのも切ないし。だから、海に流そうと思ってこの場所にきたんです。誰もいない静かな夜に流そうと思って。あの、、でも、捨てたら海のゴミになってしまいますよね。すみません。
女が上ずり調子で弁解するように喋るのをさえぎるように老人はカラカラと笑った。

「別に私は止めないよ。流したいならどうぞ流してください。でも、なんで貴女みたいな美しい人がそんなに悩むのです?」

しばらく、沈黙が続いた後、女は、俯きながら両手をギュッと握りしめながら口を開いた
あの、私、何もできないんです。人に助けられて、やっと毎日生きていけるぐらいいっぱいいっぱいなんです。それで、やっと、彼氏もできて、少しずつ色んな事がうまくいってきたのに、でも。私は、振られてしまったんです。そうしたらもう、もっとダメになってしまって。なんだか、申し訳なくて。

「申し訳ない?」

ええ、たかだか、男に振られたぐらいでウジウジしてしまってダメになってしまう自分が情けなくて申し訳ないのです。だから、そんな時計と一緒にそんな自分を捨てにきたんです。

老人は、女の肩をそっと優しく叩いた。その右手には薬指がなかった。

「自分は殺すものでも、捨てるものじゃないさ。生かしていくものさ。何もできない。それがどうしたのさ。顔を上げて頑張っていれば、きっと知らない誰かの光になるさ。名も知らない灯台のようにね。」

老人の優しい言葉を受けて彼女は顔をハッとあげた。老人は胸ポケットから鈍く光る銀路のハーモニカを取り出した。女を見て優しく微笑む。

「なんだ、あなた綺麗じゃないか。泣き顔は似合わないよ。雲が低くなってきた。もうじき、雨が降る。一曲吹くから、それを聴いたらもう今日は帰りなさい。」

老人は、ビリージョエルのピアノマンを吹いた。薬指の失われた掌に赤子のように包まれたハーモニカから、暖かく人間らしい音色が、寒くて暗い浜辺に響き渡った。そして、不恰好な灯台が指揮者替わりの明かりをリズムよく夜空を照らしていた。

きっとこの老人の人生は、上手くいった事より上手くいかないことの方が多かったのだろう。きっと自分の人生を幾度となく怨んだだろう。ただ、事故で夢破れたピアノマンが優しく吹くピアノマンは彼が人生に決して屈しなかった証であるような気がした。すると、女の胸に、マグマのように熱いなにか湧き上がり、やがて涙となって頬からこぼれ落ちた。

老人が、最後のひと吹きを終えると女は泣きながら拍手をしていた。私のためにありがとうございます。そう震えながら謝辞を述べた。
老人は照れ臭さそうな顔をして頭を描いた。

「まぁ、気に入ってくれたら、よかったよ。お嬢さん。お節介で悪かったね。若い頃の自分を見てるようでなんだか心配性になっちゃってさ。さぁ、イジワルな雨が降る前にもう帰りなさい。」

丁度その時、ポッ、ポッ、っと。地面に素敵が落ちたかと思うと、たちまち驟雨がサッーと降ってきた。まさか、もう冬なのにこんなに雨が降るなんて。と思いながら慌てて駐車場に車に飛び乗のると、バックミラー越しに、老人が手を振ってるのが見えた。女は窓を開けて、ありがとうございました。と大声で言った。
老人は、ハーモニカをキザにふき鳴らしてから、暗い夜道の中にスウっと消えて行った。

女は、その日はそのまま家に帰った。
次の日、女は白い息を吐きながら街一番の高台まで登ってみた。
眼下を見下ろすと、市街地と海沿いの製鉄所が無数のトパーズのように輝いている。しかし、そのずっと先、真っ暗で不気味な対岸にひとつだけ、力強い光がみえた。灯台の光だ。名は、雨崎灯台という。

静かな夜の帳の中、彼女の胸の中で懐中時計が静かに時を刻んでいた。

うーん。ドッスン