パンクロックと箱根駅伝 16話
井上さんの家は昔から続く大地主の家系で、その広大な土地の一部をR財閥に貸していて、その賃料で普通の人が一生で稼ぐほどのお金が毎年入っていた。
しかし、肝心の井上家が幸せかといえばそうではなく、ヒッピー崩れの父親が金持ちなのを良いことに働きもしないで一日中酒を飲みながらギターを引くような生活を井上さんが産まれてからも続けていた。
井上さんが小学校高学年になり物事の分別がわかり始めると、父親は重度のアルコール中毒になってしまい、どこにあるかもよくわからない久里浜の特別な病院に入院してしまった。
母親はそれなり綺麗な人なのだが、結婚してからはスーパーで値段を見たことがないぐらい金銭感覚に疎かったので、井上正右衛門の農地改革から受け継がれたる莫大な遺産を湯水のごとく浪費していった。
だが、どんなに管理者が雑であっても土地を貸している利権の力は恐ろしく、貯蓄の桁が億以下になった事はない。
ところが、井上さんは道楽な母親からデタラメな額のお小遣いを貰っても、楽器と格闘ゲームにしか興味がない変わり者だった。
井上家の土蔵は、立派な白い漆喰に覆われていて。似合わない大きな窓ガラスがついていて、入り口は観音開きに開く西欧風の彫刻が記してある立派な物だった。
驚くべき事に一歩中に入ると、そこはアメリカンカフェ風のスタジオになっていた。白黒の格子模様の床が眩しく光っていて、間接照明が優しく照らす、天井の中央には飛行機のプロペラみたいな換気扇が優雅に回っていて、レコードが大量に入ったジュークボックスが存在感を発揮する。奥には一段あがってステージがあって、アンプとドラムセットが置かれていた。その他にも井上家の土蔵は色々なレトロアメリカンなインテリアが山ほどあって、まるで駒沢あたりの洒落たハンバーガー屋みたいだった。
「な、なんや!ここは!井上!おまえ!すごすぎやろ!」
先輩は目を丸くして驚いた。当然俺も。
「アル中のおやじが若い時に道楽でつくったんだ。でも、もうオヤジは病院からかえってこないし好きに使っていいよ。」
同じ街に産まれてもこれほどに境遇が違うのかと驚くと同時に、この街でもう使われない土蔵スタジオを持っている井上さんを見抜いた先輩の眼力の恐ろしさを感じた。
ここから、パンクバンド「アブラボウズ」活動は加速度的にバンドらしくなっていくのである。
そして、その大金持ちの井上さんに「実はお願いがあります。」とメールをいれてアパートの最寄り駅のベンチに腰掛けて井上さんを待っていた。
ふと前を見ると、井上さんはベンチに座る俺の目の前を素通りしていった。
「あっ、井上さん。」
と、通り過ぎざまに話しかけると。
ノースフェイスの緑のダウンジャケットを来た井上さんはギョっとして素っ頓狂な声を上げた。
「はぁ、牧田?うそだろ!えっ、いみわからんわ。なんでボウズになってるの?はぁ?はぁ?えっ、ちょっとまって、ちょっとまって、全然意味わかんない。」
井上さんが驚くのも無理は無い、昨日まで肩まで届く長髪だったからだ。
「あの、井上さん。ちょっと、つもる話しもあるんで、とりあえず自分の家に来て貰ってもいいですか?」
混乱する井上さんを後目に場所の移動を提示した。バンド解散してたった数日で起こったことを公園で話すにははあまりに情報量が多すぎた。
井上さんは、顎を少し突き出しながら右の空をちらりと見た。
「おう。そうだな、俺も牧田に色々話したいところだったんだ。」
そう言うと、俺と井上さんはアパートに向け歩いていった。井上さんは品川の高級賃貸マンションに楽器に囲まれて優雅に暮らしていた。それとは真逆の俺の貧乏アパートの部屋に入って驚く。
「ぅっわ!たばこ臭い!えっ、牧田タバコ吸わないのにこんなにタバコ臭いの?何でこんな所にすんでんの?田無土の秘密基地と対してかわんねぇじゃん。」
嫌味ではなくて本心で驚く井上さんに、あんたが恵まれすぎてるんだよ。と思いながらも。
「まぁ、貧乏学生ですから、どうぞ座ってください。」
井上さんはダウンジャケットを掛けてから、恰幅の良いからだテーブルの横に置いた座布団にどかっと腰掛ける。その間、俺はお茶の用意をする。その間にも井上さんが俺に声かける。
「まず、聞きたいんだけど。街田はバンドにもう戻ってこないのか?」
俺は背中がぞわっとした。何も言わず、給湯ポットから急須にお茶を注ぐ。
「うん、どうなんだ?俺は、絶対、あいつ陸上部になんてはいれんと思うぞ。常識で考えてだな。それでプーになった街田を戻すのが牧田の仕事だ。俺と牧田と星崎でもそれなりのバンドは作れるが、やっぱ街田がいないと、もっと上にはいけないよ。」
俺は後ろめたさの中で入れたお茶を井上さんに運ぶ、コトッと置く手が震える。
「どうなんだよ、牧田。」
俺は少し下唇を何度か軽く噛んでから、腹の奥から声を振り絞る。
「すいません、あの、井上さんには謝らなくてはいけないんです。俺は、本当は先輩の付き添いで陸上部に入るのを、応援をするだけの積もりだったんです。」
井上さんの顔つきが見る見る曇る、どちらかと言えば彼は楽天家だったのでこんな顔をあまり見たことがないから俺はこれから告白する事に恐怖を覚えた。
「で、どうなったんだ。」
「はい、でも門前払いでした。でも、どうしても諦められなかったんです。その時に、俺がマネージャーになれば、先輩が入部できるんじゃないか?って話があって。」
井上さんは口を軽くあけて「あっ?」っと声に鳴らない声をだした。こちらをにらんだ。
「まさか、てめぇ。」
「はい、陸上部のマネージャーになりました。」
井上さんは湯飲みを持った手を一瞬振りかぶりそうになったが「ふぅー。」と息を整えた。間違いなく怒っている。しかもとんでもなく。
「あー、まぁ。おまえらバカだしな、そんな事もあるかもな。とりあえずもっと話しをきかせろ。」
本当に消えてしまいたい気分だ。
「それで、えっと。自分が2軍寮に入寮する事になって、先輩は仮入部になりました。」
井上さんは俯いて膝に手を突いて震えた、そこからいくつかの滴がこぼれるのが見えた。彼はうつむきながら怒鳴った。
「なんなんだよ、本当にお前ら、なんなんだよ、俺は悔しい、本当に悔しい。ずっと夢見てきたんだよ。パンクバンドで上京してスターになるって。でもさ、そんな事あるわけないじゃん。クソみたいな田舎でクソ金持ちとして生きていくのが俺の人生だと思ってた。でも、夢を見せてきたんじゃないかお前ら二人が、俺だけじゃないんだ。星崎もそうだよ。お前らがいて俺の人生は夢みたい幸せだったよ。それがなんだ。急に全部捨てたんだ。全部だぞ。俺と星崎の夢をお前たちは捨てたんだ。しかも、お前は二軍のマネージャーで、街田は仮入部って、、、なんだよ。俺たちの全部捨てて得た物がたったそれなのかよ。畜生。畜生。」
井上さんは泣きながら木製テーブルを壊れそうな勢いでガツンガツンと叩く。
「でも、先輩のお父さんの無念を受け継ぐためには、、、。」
俺が苦しい弁解を始めると井上さんのクリームパンみたいな大きな手で胸ぐらをグイっと捕まれた。荒い鼻息が俺の顔にかかる。
「でも、お前もそうする必要はないだろ!なんでお前までいくんだよ。俺はお前が必要なんだ。俺はお前も天才だと思ってんだよ。なんでお前まで俺の大切なものを壊すんだよ!!」
俺は何も言えない、罪悪感の海で心は満たされ、彼の目を一秒見てる事すら苦痛だった。
「すいません。」
そこで井上さんは俺の手を離す、窓の方に振り返り力なく手を大きく横に広げてからだらんと下げて、ため息を履く。
「あー、ばかばかしい、ばかばかしい。」
「すみません。ほんとうにすみません。」
しばらくすると、井上さんが俺の方を振り返って、今度は狂気に満ちた笑顔を向けて俺を指さし、クククと笑う。
「しかも、お前のその頭なんだよ。あのクソ長髪はどうしたんだよ。どっかの美容師が好きとかいって延ばしてた、あの髪はよう。そうだ、俺はわかってしまった。そうだわかった美容師が好きなのは嘘だったんだ。」
急に話が変わってびっくりした。
「いや、あの人は好きですけど、ボウズにしたんです。」
井上さんはプーっと吹き出し腹を押さえてゲラゲラ笑った。
「違う、違う。全然違う。お前はもとから、あんな女すきじゃない。お前、本当に好きだったのは星崎だろ。わかっちゃった。君は星崎が好きで、だけど自分をごまかす為に彼氏持ちで対してかわいくもない美容師を好きになってごまかした。お前が俺と違ってファンに手を出さないのはそうだったんだ。でもな、星崎には絶対に手を出せないもんな。星崎は街田にホレてバンドに入ったんだもんな。」
「違います。そんな事はありません。」
「いやそうだ。君はそうだったんだ。それから街田があれだけ美しい星崎に決して手を出さないのもわかったよ。牧田が星崎を好きなのわかってたからな。全部そうだったんだよ。あーなるほどー。」
「違いますよ。本当に違います。」
井上さんは、笑うのを辞めて「ケッ」っと良いながらテーブルを蹴る。
「まぁいいよ。仲良しのオホモ達め。なんであの日、街田を追っかけたんだ。追っかけるのが星崎だったら。お前は星崎とつきあって。3人でバンドできたんだ。それが一番の幸せだろ。違うか?」
「違います、いや。違わないかもしれません。でも自分は先輩の影みたいなもので、、。」
井上さんはもう一度胸元を掴み直す。
「じゃあ、俺はウンコか!ゴミか?ヘドロか?ただのクソ金持ちなのか?好い加減にしろよ!!」
そこで井上さんは力なく崩れ落ちシメシメと泣き始めた。背中をさすろうと思ったがその手は弾かれてしまった。
しばらくして四つん這いのまま井上さんが震える声で問いかける。
「なぁ、良いこと教えてやるよ。あの夜な。星崎さんを追っかけたのは誰だかわかるか?佐藤さんなんだよ。おまえ、佐藤さんがずっと星崎狙ってたの知ってるよな。佐藤さんには、星崎の美しさであそこまでプッシュして貰ってたようなもんだ。追っかけてどうなってんのかなぁ。怪しいなぁ。どうなってんだろ。助けなくていいのかよ、あの男は毒蛇みたいな奴だってしってるだろ。まだ戻れるぞ。牧田。戻ってこい。俺についてこい。」
胸の奥でムシみたいな物が這うのを感じた。どこかで井上さんの言ってる事に従いたい気持ちがあるのだろう。
「でも、俺は先輩と一緒に地獄にいきます。」
井上さんはあーーー。と叫びながら立ち上がってダウンジャケットを着始めた。
「もう、しらねえよ!!で、さっき言ってたお願いってなんだよ?それ聞いたらもう帰るわ。」
とても言いづらいが、もうどうしても破れかぶれだった。
「あの、ベース買ってくれませんか?言い値で良いんです。こんな事、言う資格なんてないかもしれませんがお金が必要なんです。」
俺は土下座する。井上さんは、その場に十秒立ち尽くし俺を見下す。
「ああ、わかった、ベースギターを50万お買い上げします。」
そう言うと、俺のベースギターの首を雑に掴んで垂直に大きく振りかぶった。ぞっとした、まさか嘘だろ。
「やっ、辞めてください。」
「ふざけんな、バーカー。」
ギャァァァン!!!
すさまじい破裂音と不況和音の中でベースギターが床にたたきつけられてた。廃材3号は二度と修復不可能なほどコナゴナに砕け散った。
「はぁはぁ。クッソ。あとで、金は送る。口座番号教えろ。あとな、金ならいくらでもやるわ!だから、新しいベースは絶対売るなよ。絶対な!あと絶対にお前はバンドに戻ってこい!」
廃材3号の亡骸を持ちあげる。もう2度と音は鳴らないであろう。
少し呼吸を整えた。
「あの、わかりました。すべてが終わったらバンドには戻ってきます。それから、ベースは売りません。ただ、この事。先輩には秘密にしてもらえませんか。」
井上さんは壁を殴る。
「どこまでも、気持ち悪いんだよ。クソホモ野郎!ただ、星崎にはしっかりと言うからなこれは義務だ。」
「それは大丈夫です。」
井上さんは雑に部屋の扉をひねると勢いよくけっ飛ばした。どこかから「さっきからーうるさいんだよー。」と苦情が響く。
俺は廃材3号を眺めながら泣いた。
一生懸命前に進もうとしても、過去はそれを許さず俺を引きずる。
部屋の片づけをしていると。
携帯がなった。星崎さんからだ。俺は一瞬ためらったが応答する。
「もしもし牧田です。」
しかし、無言だった。取り返しのつかない空白を感じて俺は焦る。
「もしもし?もしもし?」
そのまま、受話器を持ち続けると。1分ほどしてから。柔らかい声が聞こえた。震えるような、僅か消えかけの希望のような声だった。
「あのさ、、。がんばってね、、。だから、さようなら。」
そこで、電話が切れる。あわててかけ直すが何度かけ直しても、電話は通じなかった。。
何か俺を覆った。そして、この部屋の真ん中に黒い穴があいてそこに吸い込まれるように感じた。
ああ、そうだ、わかった。
俺は星崎が好きだったんだ。
うーん。ドッスン