パンクロックと箱根駅伝 36話

富津公園を2周する朝練習が終わり、汗にまみれた選手達にやたらと粉っぽいプロティンを配り終えた後。朝食の配膳の手伝いに向かうまでのわずかな休憩時間を使って、素早く部屋で充電していたスマホを取って、民宿の中庭のベランダの億に行って、井上さんに電話をかけた。
俺の頭の中の計算では、井上さんはバイクを持ってるので、木更津で買った靴を高速道路を使って富津まで届けてくれればギリギリ間に合うのでは無いかと考えたのである。
しかし、問題は彼が素直に応じてくれるの見込みもなければ、電話にすぐ出てくれる保証もない事だ。だが、他に考えられる手立てもないので取り敢えず電話をかけた。
すると、まだ、朝7時10分なのに、まさかのワンコールで井上さんが『おう!?朝早くからなんだよ。』と電話にでてきたので、とてもびっくりした。
俺は、恐る恐る話し始めた。

「もしもし、牧田です。あの、いきなり電話してスミマセン。」

電話の向こうの井上さんは、眠い上に苛ついているらしく、とても尖ってイガイガした口調で返してきた。

「牧田、こんな朝早くから電話してきてなに?ひょっとしてまたお願い事かぁ?」

井上さんの口調が尖っているのも無理はない。俺はバンドを勝手に辞めてしまった上に、井上さんに借金をしている立場なのだ。それに彼の予想通り、俺はまた彼にお願い事をしようとしている。

「すみません。まさに、お願いごとなんですが、、。その、今何してました?」

すると、井上さんはため息を吐きような口調でこういった。

「はぁ?オマエふざけんなよ。何だよ。お願い、お願いってよ~。俺はドラえもんか?キテレツか?もしくは怪物くんか?」

ドラえもんはともかくとして、怪物くんはお願い聞いてくれるキャラじゃ無いだろ?と思いながらも。そこは黙っておいて。

「いや、本当にすみません。でも、本当にお願いしたい事があるんです。いまどちらにいらっしゃいますか?」

井上さんは電話の向こうでケッっと悪態をついた。

「雀荘だよ、雀荘。横浜の黄金町の雀荘。徹マンやってたの。ふざけんな、18万円負けたよ。あー、クソムカつく。」

「そんな、時にとても言いづらいのですが、、、。」

「なんだよ!?」

一呼吸おいてから、俺は慎重にこう言った。

「靴買ってきてほしいんです。」

はぁ?と電話の向こうの井上さんは素っ頓狂な声を上げた。

「はぁ?はぁ?まてまて意味がわからない。」

井上さんの口調は徐々に怒りに満ちてきて、今にも切れ出してその勢いで電話を切りそうなほどだった。俺はそれを制するため慌てて続ける。

「いや、意味を説明したらとても長くなってしまいます。でも、どうしても今日の11時までに靴が必要なのです。ミズノのウェーブエキデン24.5cmを買ってきて千葉県の富津市まで持ってきてほしいんです。いや、ちょっと本当に緊急自体で他に頼れる人もいなくて、、。」

そこまで言うと、2人の間にしばらく沈黙が続いた。。気まずくなって『あの、』とでも言おうかと思った瞬間、井上さんが口を開いた。

「わかったわ。お前がそこまで言うんだったら、よっぽどの事だな。でもな、金は良いとしてもな、どこで買って、どうやって、、、富津?だっけ?そこまで持って行けば良いんだ?」

「それで、あの。井上さんバイクを持ってるからお願いしたいな。と思ったんですが、、、。10時開店の木更津のスポーツ店で買って、それから高速に乗ってくれば間違いなく間に合う思ったんですが、、。」

そこまで言った時、耳をつんざくような大きな罵声が聞こえた。

「あほかーー!!俺の乗ってるのはな!スーパーカブだぞ!馬鹿かお前は!?」

俺は、なんで井上さんが怒っているのか理解できずに聞き返した。

「どう言うことですか?」

「あのねぇ。原付は高速に乗れないの!わかる?道路交通法でそう決まってるの!」

あっ!と思うと同時に、俺は自分のアホさ加減にがっくりした。靴を買って井上さんがバイクで高速を飛ばせばどうにかると思っていたが、原付が高速を走れない事をそもそも俺は免許持ってないので知らなかった。もはや、力なく受話器に向かって『あー、、』と情けない声を出している次第だった。
そんな俺を哀れんでか井上さんはこう言った。

「あのな、牧田。お前はアホだな。知ってたよ。でもな。とりあえず買わなきゃいけない物と、届けなきゃ行けない場所をラインで送れ。それから俺がどうするか考えてやるから。無理なときは申し訳ないけど、それでも最前は尽くすから。お前はそっちでやらなきゃいけないことに集中しろ。たぶん追いつめられてるんだろ?色々と。」

井上さんの口調が急に優しくなって俺はなんだかホッとした。それは井上さんとの人間関係だけではなく陸上部に入ってからの諸々のことを含めてだ。

「あの、やっぱり追い詰められてるの分かりますか?」

「そりゃあ、田無土にいたとき『あれだけの事』をやっていればな。まぁ、考えてやるからな、お前は自分の仕事を一生懸命やりな。」

「ありがとうございます。」

と言って俺は電話を切って、鞄にしまって、一回時計を確認した。すると朝食の配膳を始める時間ギリギリだったので慌てて、民宿の食堂へ向かう。

食堂に入るとナメクジと浜さんと大島さんが、あくせくと皿や座布団を並べていた。しまった、一番下っ端なのに一番遅く来てしまった。と思うやいなや大島さんが、俺の方を向いてこう言った。

「おい、牧田!おめぇ、来んの遅えぞ。いつもいってんだろ、選手は速く走るのが仕事、俺たちは早く来るのが仕事ってよぉ。」

大島さんは気の良い人なのだが、遅刻(ギリギリに来るのを含む)に尋常ではなく厳しいのだ。
すみません。といいつつ、俺も慌てて朝食の準備を進める。その横で俺の事情を何も知らないナメクジがボソっとこう言ってきた。

「朝から、何電話してたんだよ?女か?」

「いや、だったらいいですけどね、いや、友達と野暮用です。」

「ふーん。ふーん。そうだったんだー。よかったねぇ~。女と電話して遅れたら細野的にはこれだもんね。」

といってナメクジは自慢げに自分の首もとを親指で着るジェスチャーをしてきた。自分ではカッコいいつもりだろうが俺はレイア姫に首を締め上げられるジャバ・ザ・ハットを思い出して気分がゲンナリした。
朝から良いことが無いなあ。そもそも靴は本当に間に合うのだろうか?などと頭の中でグルグルと思っていると、浜さんが柔らかい手で俺の肩をポンポンと叩いてくれた。それだけでなんだか気持ちが少し安らいだ。

ふっくら焼き上げた目玉焼き。丁寧に味付けられためかぶ。焼きたての
良い香りがする海苔。よくアブラの載ったいい匂いがする鰺の開き。しっかり出汁が利いたワカメの味噌汁。真ん中で2つにカットされた瑞々しいグレープフルーツ。新鮮なストレートのオレンジジュース。それら朝食オールスターズを丁寧並べ終えると練習後の一風呂を終えた選手達がまだ新鮮な湯気を上げながら、朝食のテーブルに付いた。この合宿が始まってからいつも見る景色だが、俺の目には今日は違って見えた。

『この中に、白井さんの靴を切り裂いた奴がいるんだ。』

そう思うと急に俺は人間不信になったような気がした。その時、白井さんが絶対みんなに言うなと言った意味がよく分かった。
もし、この場でそれを言ってしまえば、このチームは崩壊するだろう。決して良いチームとは言えないが、それでも一人一人必死に戦っているんだ。たとえ表面上では嫌っていても正々堂々と戦っている事でチームが成り立っている。だから、白井さんは決して口にしない道を選んだのだろう。

朝食がいつものように、ナメクジの合掌で始まり、皆が食べ終わる頃合いを見計らって、伊達監督から朝の一言が始まる。

「いいか、お前ら。昨日も言ったが、今日の練習が一番大切だからな。スタートは今日の11時で10kmのタイムトライアルをやる。Aチームの設定は29分15秒。Bチームの設定は29分45秒。山組は別メニューで40km走3分40秒ペースな。ハッキリ言って、Bチームの設定についてこれない者は箱根のチャンスがないと思え。」

伊達監督の力強い言葉を聞いて選手一同は大きく返事をした。しかし、エースの戸川だけは下を向いてスマホをイジっていじりながら、あくびをしていた。ナメクジによる食後の合掌があり、朝食は終了になった。俺が食器の片づけを終えて部屋に戻る途中の廊下で白井さんが俺を待っていた。

「なぁ、牧田、朝の件は忘れてくれ。俺もちょっと俺も気が動転してて無茶なお願いをしたって半生してるわ。」

白井さんは、ボソっとそう言うと俺の横を通り過ぎようとしたので、俺は咄嗟に振り返った。

「あの、白井さん。自分もどうにかするんでこんな事に負けないで下さい。」

白井さんはニッコリ笑ってる親指を上げた。

「ギャンブラーは負けてから取り返すのが仕事よ!」

うーん。ドッスン