パンクロックと箱根駅伝 18話

布団の上でとりあえず目を閉じていると、明け方ぐらいに何とか眠る事が出来た。

机の上のスマホが鳴る音で目をさますと太陽がすっかり高くあがっていて、10時30分だった。相手は音信不通の先輩だった。

「もしもし、牧田です!今何してるんですか?」

慌てて電話に出ると。昨日の晩、井上さんと大喧嘩した事など全く知らない先輩の声が素っ頓狂な声が聞こえてきた。

「おー、牧田!すまんな!実は、日野先生ずっと面談してたら、日野先生が面倒見てくれることにが急遽決まって。その為の色々な手続きやってたら、牧田から電話あったの気がついとらんかったわ。すまん。すまん。」

んっ?ちょっとまて。日野先生の所で世話になる?いったいどういうことなんだ。

「いや、ちょっと待ってください。お世話になるって?まさか!?」

「そうや、日野さんの家に下宿する事になったんやわ。それで、三食付きでトレーニングを見てくれる人も紹介してくれた。」

いやいや、ちょっとまて、いや確かにあの人は良さそうな人に思えたけれど、なぜそこまでしてくれるんだ?俺たちを利用する事しか考えてなかった伊達監督と比べると余りに対照的で違和感を覚えるぞ。

「えっ、なんで、そこまでしてくれんですか?日野先生って何者なんですか?」

「わしにもわからん。でな、今日、夕飯の時に色々教えてくれるから、牧田も家に来いっていうんやな。夕方空いてるか?」

「あいてますけど、、。良いんですか?僕が行っても。」

本音を言えば、行きたくはなかった。井上さんとの喧嘩の余韻が残っていて、知らない人の家に夕飯を食べにいくなんてすこし嫌だったし、なにより自分が行ったらあつかましいのでは無いかと考えた。

「大丈夫やで!絶対きてな!日野さんめっちゃ良い人やで。住所は後から送るわ!」

そこで電話が切れると、メールに集合場所が送られてきた、八王子のはずれにある小さな駅が待ち合わせ場所だった。

夕暮れ時、指定された駅前で待っていると、総菜屋のコロッケのにおいが俺の鼻をくすぐってきた。しばらく待っていると、目の前の県道を渡って先輩が歩いてきた。先輩は上下真新しい陸上用のジャージをきていて、赤くて軽そうなランニングシューズを履いていていた。

「おう、牧田、なんかしょぼくれた顔をしてるな。」

俺の気持ちなんて知らない先輩は軽やかな笑顔を見せる。

「いや、ちょっと寝不足なだけですよ。しかし、その格好。もう練習してるんですか?」

先輩はニカッと笑う。

「ほんのすこしだけやけどな。」

僕たちは急な坂を下り、小さな川を渡ってしばらく歩き、目の前にそびえる丘陵の細い階段をずっと登っていった。八王子は少し離れると坂だらけで、自然がとても多く少し見晴らしの良いところに行くと空気の澄んだ日は東京が一望出来る。

「日野先生の家はここやで。」

先輩が指をさした先には、坂道の中腹に森に囲まれいる大きな家があった。広い庭に大きな楠の木が生えていて、古い木造家屋の日本風のお屋敷だが、屋根や窓は少し東欧みたいな趣きがあった。建築物には詳しく無いがきっと大正時代ぐらいに建てられたお屋敷だろうと言うのが見て取れた。
庭の門を開けて、ガーデニングで彩られた庭を歩いて玄関に向かう途中。

「おー、いらっしゃい。よく来たね。」

日野先生が縁側からサンダルを履いてこちらに歩いてきた。そのまま、玄関を開けてくれ、モダンな彫刻が置いてある立派な玄関で靴を脱いで、廊下を越えて突き当たりの部屋に歩いて、突き当たりの部屋では、立派なレンガの暖炉が付いていて、飾り窓にはフランス人形が置いてある。ロココ調の箪笥に置かれたマイセン磁気の壺、立派なヴィクトリアン調のテーブルの上では日野先生の奥さんが鍋を用意していた。

不思議な空間だ。人の家に来たと言うよりは、博物館にきてしまったような感じさえする。

奥さんは品の良い感じの話し方で。

「いらっしゃい。カニって食べれるかしら?」

と、優しそうな笑顔を向けてきた。

「はい、大好物です!」

勿論、貧乏学生にカニ鍋のお誘いを断る権利など存在せず、ありがたく頂く事にした。

「まぁ、そんな所に突っ立てないで、腰かけてゆっくりしてくれたまよ。」

日野先生が優しい笑顔で、僕らを座るように促す。

「牧田、日野さんは神様みたいやろ。」

俺もそう思う。昨日が井上の地獄ならば、今日は日野先生の天国だ。

「確かにそうです。」

2人で立派な手すりが付いた椅子に座った、先輩がウキウキしながら俺に話しかける。
先輩は鍋が好きだ昔から鍋をするときは子供の様な笑顔を見せる、ましてや今日は生臭いザリガニ鍋ではなくカニ鍋だから一層のうれしかった。

奥さんが、コンロの上で煮え滾る野菜が土鍋に立派な脚をしたカニをたっぷり入れ蓋をする。きっとあれはタラバガニだ。
フッフッと土鍋の蓋からいい匂いが立ちこめる。奥さんがポン酢を入れた皿や追加用のさらに立派な白菜やネギ、肉団子、ホタテ等を綺麗に並べている。食材はどれも綺麗で目がくらみそうだった。本当に美味しそうだ。そういえば、ここしばらくは缶詰やレトルトばかり食べていた。

「準備してる間に、牧田君に部屋でも見せて上げてよ。」

日野先生は、奥さんの手伝いをする傍ら、先輩に諭す。
そして、先輩と共に古くてキュィキュィなる急な階段を昇っていく、2階にはふすま開きの部屋が和室が1つ洋室が3つとトイレが1つあった。その1つが先輩に貸された部屋だった。南向きで日当たりが良い6畳ほど部屋だった。
ワックスが効いたフローリングの部屋で、机と椅子とベットがある以外には、いくつかの段ボールが積み重ねておいてあるだけで、当然ながら生活感を感じさせなかった。

「先輩、その段ボールは何ですか?先輩の荷物ですか?」

「いや、日野さんがくれた練習着や陸上用品なんかやで。」

先輩が段ボールをひらくと、少し型が古いお下がりのウィンドブレーカーやジャージ、シャツ、筋トレグッズ、トレーニンググッズなんかが、ぎっしり詰まっていた。

「先輩、そのジャージはなんかはいったい誰のお下がりなんですか?」

俺は、ジャージを広げながら首を傾げる。

「その説明は、日野先生が夕飯の時にするって言ってたわ。でも、不思議なんやな。こっちのジャージには、山田って書いてあって。こっちウィンドブレーカーは金森、こっちの青竹踏みには吉岡って書いてある。みんなバラバラなんやな。」

確かに、よく見るとサイズも時代もバラバラだ。

「なんなんでしょうか?お下がりでも集めたんでしょうか?」

俺は、ふと思う。今、この環境はとてつもなく異質だ。なんで、日野先生は何もない先輩の為にここまで尽くしてくれるのか?
たしかに、田無土ってクソみたいな街でパンクロックを始めた環境も異質だが、この恵まれ過ぎた環境は、違う惑星にたどり着いた旅人のように、俺の正常な事と正常でない事の境界線を曖昧にさせていた。

そんな事を考えていると階段の下から日野先生の呼ぶ声が聞こえてきた。

「おーい。できたよー。」

よし、待ってましたとばかりに足早に階段を下って、鍋がある大広間にたどり着くと、丁度奥さんが鍋の蓋を外す所で、モゥワァっと蒸気があがり、おいしいに香りが部屋に充満する。

「アスリートだから、酒は飲ませられないが、今日は腹一杯たらふく喰ってくれたまえ。」

椅子にゆったりと座る日野先生が顎に手を掛けながら満足そうな笑みをこぼす。
鍋の中で美味しく煮たぎる具材はどれを食べても素晴らしく美味しそうで。猛烈な空腹を感じた。

「いただきます。」「いただきます。」

俺と先輩は、手を合わせると一心不乱に鍋をかきこんだ。しかもご飯が少し芯が通った芳醇な新米で、気がついたら二人で6杯もお代わりしてしまった。

「よく喰なぁあ、君たち。」

日野先生が首を伸ばして関心しながら、ご飯をモリモリお茶碗によそう先輩をみる。

「いや、家が、貧乏でこんなうまい鍋食べた事なかったんで、ほんま感謝しとります。」

先輩はニコニコしながら白米をモリモリ食べる。勿論、俺も。
しばらくすると、カニ鍋も炊飯器の米もすっかりなくなった。

「あー、ごちそうさまでした。」

腹一杯食べて満足した俺と先輩は再び合掌した。
しばらくすると奥さんがテーブルの片づけ始めたので、俺と先輩は一緒に台所まで食器を持っていって片づけを手伝った。

片づけが終わり再び広間に戻る。と日野先生がゆったり座ったまま。

「美味しかったかね?」

と訪ねてきた。当然、最高に美味しい鍋だったので。

「いや、本当に美味しいです。本当に感動しました。でも、なんで僕たちみたいな訳の分からない若者にこんなに尽くして頂けるんですか。」

俺の質問に、日野先生は「うん」と頷くと、立ち上がって。部屋の箪笥の中から何かを取り出し、俺と先輩の前に見せてきた。

「これが、何かわかるかな?」

長四角くて、白いケースに入っている。これはきっと最近あまり見かけなくなった。

「VHSですか?」

「そう、VHSだ。24年前の箱根駅伝のVHS。そこに映っているのはだれか、わかるかな。」

先輩顔つきが変わり、胸の奥から強くてふるえる声をだした。

「まさか、俺の親父の映った奴。」

「ご名答。街田のお父さんは、俺とは関わりのない選手だった。でも、俺はこの時、専央大学の監督だった。それで、お前の親父は良く覚えているんだ。まぁ、それだけがお前の面倒を見る理由じゃないんだが。とりあえず見るか?このビデオ。そこに答えの一つがある。」

俺は、この人が昔の監督だったのか?と驚いたが、そんな事は気にせず先輩が身を乗り出す。

「是非、見せてください。みた事ないんです。」

その時、日野先生の目つきが変わった。優しい初老の男性から修羅場を潜ってきた勝負師のような輝きになった。

「覚悟しろよ。ここから先は優しい世界じゃないからな。」

うーん。ドッスン