見出し画像

人の命の重さが無限大だと思っている人へ。

俺も医者になるまでそう思ってたけど、人の命の価値が無限大だと思ってる人達は結構いる。

人の命がかかっている、あるいはほんの少しでも死の危険があれば無限大のコストをかけてもいいと思ってる、そういう人たちだ。

しかし、少し現実を見ればそうでないことが分かるはずだ。俺は医者になってから気がついたが、別に医者にならなくても少し考えればわかる事だ。

まず、どんなにコストをかけても死ぬことは防げない。いつか必ず死ぬ。そして特定の死を避けることにコストをかけ過ぎれば、別の死を生んでしまう。

生きていくにもコストがかかるのだ。死を避けることにコストをかけ過ぎれば、生きていけなくなる人が出てくる。

ここで言うコストとはお金だけのことではない。モノ、人、金、手間、時間。要するに有限な資源全体のことだ。有限であるから、なにかに使えばどこかで足りなくなる、そういう性質のものをここではコストと呼んでいる。

世界全体とか国全体という大きなスケールでもそうだけど、1つの病院の中ですらそうだ。

例えばもはや寝たきりで意識どころか自発呼吸すら怪しい状態で、何年も何年も、毎月数十万円、数百万円かけて生かされているお年寄りがたくさんいる。御年寄でない人も結構多い。

もはや人間と呼べる存在ではない。人間としての存在、すなわち人格はとうの昔に失われている。魂というものがあるのなら、それはもうあの世に行ってる。魂の乗り物でなくなったのに、体だけが生きながらえている。しかし命に最大の価値を置く考えではこのような「非人格的な」存在ですら「大切な命」としてその維持に膨大なコストが失われ、その代償として「まだ人格的に生きてる人たち」が助かる、がんやその他の治るはずの病気の治療にかけるべき人手、お金、薬、手術器具の代金や維持コストなどが確実に割を食っている。

おかしいと思わないか?命って、生きてる人達の人格や尊厳を損なってまで維持すべきものなのか?

いや俺が言いたいのは延命治療反対とかいう聞き飽きた話ではない。ここで延命治療の話を出したのは、命の重さを無限大にすることのおかしさの一例だ。

人を傷つけることの罪の重さは、傷つける度合いによって決まっている。

そして1番悪い罪は、人の命を奪うこと、すなわち殺人とされる。

でもこれもおかしいのだ。殺しさえしなければ、命さえ奪わなければ殺人の罪には問われない。でも殺さなくても一生寝たきりで意識も戻らないけがをおわせても、実質的にその人の人格は死ぬのに殺人の罪には問われないのだ。

命が無くなるかなくないかの境目は、法や多くの人が思っているようにはあまり人にとって大きな意味は無い。

それよりも、人の人格が尊重されたのか?人を傷つける罪があるとしたら、怪我の程度や生き死にでその罪の重さを測るのはおかしい。

どれだけその人の尊厳を傷つけたのかで決まるべきだ。

暴行罪とか傷害罪とか殺人罪とか、その他の刑法一般、そしてその他の例えば飲酒運転とか無免許運転とか、全て作り直す必要がある。ただ表面的な行為だけで罪の軽重が決まってしまい、人を傷つけない行為が処罰されてしまったり、逆に激しく傷つける行為が見逃されてしまったりする。

あなたが世の中や他人を見る時、この考え方を忘れないで欲しい。

1番大事なのは本当に命なのか?って。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?