![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/10292255/rectangle_large_type_2_d4a8794c157c4f4a596f2b479ad8d34f.jpeg?width=1200)
ねこみふ 第3部
そのロシアンブルーは優しいブリーダーの下、大切に育てられてきた。正しく躾けられ、正しく甘やかされたその猫は、時々ブリーダーの仕事の邪魔して悪戯したりしながら、楽しく過ごしてきた。
「イイじゃない! この子にするわ!」
ブリーダーはあくまでブリーダー。猫を育て、値段をつけて売るのが仕事である。それでもブリーダーもそのロシアンブルーと離れたくなかったのか、他のロシアンブルーの2倍近い値段をつけていた。
「私達にはこのくらいの値段のペットじゃないと釣り合わないねぇ!」
値段がついているということは、その値段を出せる客が現れれば、それは買われてしまう。
「ええと……お客様、確かにこの子も良い子ですが、他の子たちもとても良い子で……」
「何よ、いいからほら、お金出すからさっさとお会計!」
もちろん、客を信用できないと判断すれば、ブリーダーは拒否することもできる。しかし、全てのブリーダーが客に楯突く勇気を持っているわけではない。
斯くして、そのロシアンブルーは……みふゆは買われていった。これは果たして悲劇だったのだろうか。それとも……塞翁が馬……先に待つ幸福のための試練だったのだろうか。今の彼女たちにはわからない。去り行くみふゆたちの背中に、ブリーダーはただ祈るしかできない……。
ねこみふ 第3部
前半
Nanciscor
「んむむむむ……」
「なんだかもにょっとした口してるなぁ」
「だって〜……」
机に伏せた鶴乃は何か言おうとして、結局やめて再び口をむずむずと動かした。
万々歳の前には「臨時休業」と紙が貼られている。なぜなら、今日は母と祖母が久々に帰ってくる日。父は娘の金を奪っておきながら厚顔無恥だと批判するが、鶴乃自身は金を取られたことに関してはあまり嫌悪感を抱いていなかったし、むしろそうやって家庭がギスギスするほうが嫌だった。母たちが帰ってくるのも半ば義理のようなもので、縁さえなくなればこんな家は容易に棄てるだろう。だからこそ、再興して家族仲も取り戻さなければならない。そのために、早く最強にならなくては……。そんな焦燥感に襲われるため、鶴乃は母たちが帰ってくる日が苦手だった。
しかし、今日は楽しみでもあった。噂によれば、母たちは猫を飼い始めたらしい。名前はみふゆだとか。全て伝聞形式なのは、みふゆを買った後の母たちはすぐにまたどこかへ旅行に行ってしまい、写真すら見たことがないからだ。みふゆは果たしてどんな猫なのだろうか。お金は持っているはずだから、良い物を食べさせてもらっているのだろうか……自分よりも良い物を食べていたりするのだろうか……?
ガラガラ、と喧しくスライド扉が開けられる。この下品な開け方は十中八九、母か祖母だろう。鶴乃は顔を上げてそちらを見る。
「相変わらず油臭いわね!」
店に入るなり、母はわざとらしく鼻の前で手を振った。「本当、公害さね公害!」と後に続く祖母も似たような素振りをしながら入ってくる。
「一応、あんたらの実家なんだけどな……」
父が不服そうに呟く。母たちが何か反応する前に、鶴乃は立ち上がって「みふゆは!?」と尋ねる。
「ああ、猫ね。ちゃんと持ってきたわよ、ら」
母は手に持った猫用キャリーバッグ(わざとらしく金の装飾が施されている)と床に置き、留め具を外した。少しして、銀のロシアンブルー……みふゆが中から出てきた。鶴乃は喜ぼうとして……訝しんだ。
みふゆは明らかに元気がなく、また怯えるようにこちらを見上げていた。そして何より、荒れ放題の毛並み。買われたばかりのみふゆの写真を見たことがない鶴乃にも、これがおかしいということはすぐにわかった。
「これ……どういうこと!?」
鶴乃は母を見た。母は涼しい顔でみふゆへと屈み込む。
「どういうことって、何が? 確かに、美しさは欠けたわね」
母は猫の首へと手を伸ばし、内側から掴んだ。そして……絞め上げた。
「ほんと、この子の自己管理がなってないせいで……ッ!?」
母は手を引っ込めた。その指には赤い点のような穴が空いている。みふゆが噛み付いたのだ。みふゆは弱々しくも反抗するような目つきで母を見上げている。
「なッ……この猫! 飼い主の手を噛むなんて!」
母は激昂し、足をみふゆの真上に持ち上げた。踏みつけようとしている。鶴乃の身体は反射的に動いた。脳から怒りという電気信号が流れたかのように。母は足を振り下ろした。
「ギャアッ!」
母は派手に転び、客用の椅子をいくつか薙ぎ倒した。鶴乃は屈み、みふゆを抱え上げる。
「な、何をしよるね!」
祖母が目を剥く。彼女の年老いた動体視力は、何が起きたかを完全には把握できていない。しかし父は祖母よりも若く、それゆえに完全に捉えることができた。
母が足を振り下ろした瞬間、鶴乃もまた蹴るように足を動かした。標的はみふゆではなく、母の足である。母の足に蹴りがヒットし、縦と横のベクトルが合わさる。母は片足立ちの状態であり、しかもヒールを履いている。予期しない方向へのベクトルに対応しきれず、母は転倒。踏みつけんとした足はみふゆの上を通り過ぎる……これが一瞬の内に起こった出来事だ。
「今、はっきりわかった……」
鶴乃が絞り出すように言った。その声は震えている。「母親に暴力を振ってただで済むと……!」母が立ち上がろうとする。鶴乃は母を睨み据えた。
「ヒッ……」
母は悲鳴を上げそうになり、尻もちをついた。今目の前にいるのが自分の娘ではなく、まるで両目を橙に発光させた人外の怪物のように思えたのだ。
「あなたたちに、この子は任せておけない!」
鶴乃は次に祖母を睨んだ。祖母は「ヒイイイ!」と叫び、腰を抜かしてへたりこんだ。
「お、おい鶴乃……!」
父が声をかける。彼もまた鶴乃の鬼気迫る空気を感じ取っているが、母たちのように酷く取り乱しはしなかった。彼は自分の娘を信じていた。声が届いたのか、鶴乃の瞳から橙の光が消えたように思った。
「ね、願ったり叶ったりよ! そんなバカな猫、どこにでも棄ててきなさい!」
「バカはどっちだッ!」
「ヒイイイ!」
一度立ち上がった母は再び尻もちをついた。鶴乃の腕の中、みふゆが弱々しく鳴いた。鶴乃は肩で息をしながら母を睨み、踵を返して万々歳を飛び出した。
◆◆◆◆◆
ガチャン、と荒々しく玄関ドアの開けられた音に、やちよは訝しんだ。音の特徴的には鶴乃だが、さすがにここまで荒々しくはないはずだ。
「ちょっと、ドアは優しく……」
やちよは来訪者に文句を言おうとして……凍りついた。来訪者は確かに鶴乃だった。彼女は猫を抱きかかえ、ボロボロと涙を流していた。
「鶴乃……!?」
ただ事ではないということはすぐにわかった。鶴乃はよく泣く子ではあるが、こんな風に歯を食いしばって泣くなんていうことは滅多にない。やちよはカミハマスーパーのチラシを放り捨てて駆け寄る。
「ちょっと、どうしたの!? この猫は……?」
「……や」
鶴乃が呟いた。一秒後、決壊したようにへたり込み、激しく泣き始めた。
「やちよぉ! わたし、わたし、うわあああん!」
いつもの泣き方になったが、いつもより2倍近く激しい。やちよはオロオロし、とりあえず鶴乃を慰めた。下を向くと、傷ついた猫と目が合った。猫はすぐに怯えるように目を逸らした。やちよはこの騒ぎの根っこを概ね理解した気がした。
…………。
「……そう。なるほどね」
鶴乃が泣き止むと、やちよはすぐに付近の動物病院を検索し、猫を清潔なタオルで包み、腕に抱いてみかづき荘を出た。鶴乃は自分にも責任があると主張し、やちよの隣をぴったりとついていきながら、経緯を説明した。やちよは歩きながら頷き、鶴乃の頭を撫でる。
「あなたが責任を感じる必要なんてないじゃない。正しいことをしたわ」
「でも、わたし……お母さんのこと蹴っちゃって……みふゆがこんなことになってたことも気付けなかったし……暴走しそうになっちゃって……」
鶴乃の瞳が再びジワリと潤んだ。家族仲を悪くするようなことをしてしまったことも含めて、自分を許せないのだろう。
(本当に純粋な子……)
やちよは鶴乃の頭を撫で続ける。必要以上の言葉はかけない。きっと虚しく響くだけだろう。彼女はそちらに注意を向けながら、もう一方、タオルに包まれた猫を見た。あまり猫には詳しくはなかったが、命に別状はないように思えた。
「大丈夫よ、大丈夫……」
やちよは呟いた。それは自分に言い聞かせるようでもあった。
◆◆◆◆◆
幸いにも、命に別状は無いようだった。みふゆはエリマキトカゲめいてエリザベスカラーを着けられ、落ち着かないようにしきりに自分の身体に顔を近付けようとしている。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
やちよは目を腫らす鶴乃の頭を撫でる。単なる気休めだ。今回の件でみふゆはどれだけのトラウマを負ったことが。それをわかりながら、やちよは鶴乃のために嘘をついた。それでも十分だったのか、鶴乃は頷いた。
「それで……この子、どうするの?」
やちよはロシアンブルーを見た。もう万々歳には帰れまい。否、帰らせるわけにはいかない。母たちが帰ってきたとき、また鶴乃がいる保証はない。
「あ……そのことなんだけど」
鶴乃は目を擦って、やちよの目の前に正座した。そして頭を下げた。
「やちよ、お願い!」
「……まあ、そうなると思ったわ」
予想していたようにやちよはため息を吐いた。
「やちよなら、絶対みふゆに酷いことしないし……それに……」
鶴乃はちらりとみかづき荘を見渡した。まだ未成年の少女がたった独りで住む、広く寂しいリビングを。やちよは目を閉じた。そして、首を横に振った。
「私が大学とか撮影に行ってるとき、誰もこの子を見てあげられない。危険よ」
「う……確かに……」
「かえでは? あの子いっばい飼ってるじゃない」
「うーん……やっぱりかえでのほうがいいかな……」
人間たちの話を、みふゆはリビングの端っこで静かに聞いていた。彼女は人間の言葉はわからないが、自分の意志など関係なく、再びどこかへ運ばれようとしていることを本能的に知った。彼女の脳裏にブリーダーのもとを離れた後の苦しみの日々が蘇る。
人間たちが立ち上がり、こちらを見る。みふゆの心を恐怖が満たした。
みふゆは歯を剥き出して威嚇した。自分に触れるなと言うように。人間たちは困惑した。彼女たちには害意はなく、ただ気の毒な猫を助けようとしただけだった。だが、みふゆにそんなことはわからない。彼女はただ、これ以上自分を好き勝手扱われないように必死だった。
「ちょっと待ってて、鶴乃ブレインで考えてみる!」
人間の一方が額に頭を当てて唸り始めた。少しして、カッと目を見開く。
「わかった! きっとみかづき荘が気に入ったんだ!」
「は?」
「うんうん、絶対そうだよ! みかづき荘居心地いいもんね!」
「いや、ちょっと……」
「やっぱりやちよしかいない! みふゆをお願いね、やちよししょー!」
「話を聞きなさい!」
みふゆは人間の言葉はわからない。ゆえに、目の前で行われているやり取りがおかしなものだということにも気付かない。しかし結果として、彼女はそれ以上どこかへ運ばれることなく、みかづき荘に留まることができた。
◆◆◆◆◆
一週間後。
「みふゆ。ごはんよ」
やちよはリビング隅っこで縮こまるみふゆの前に、餌入れを置いた。既にエリザベスカラーの外れたみふゆは動かず、じっとやちよを見上げている。やちよは数歩離れた。みふゆは立ち上がり、水を少し舐めてから餌を食べ始めた。
この一週間で、みふゆはこの家のこと、そしてやちよのことを大まかに把握した。ここに現在住んでいる人間は、どうやらやちよだけらしい。初日に鶴乃が来た他に、やちよ以外の人間の出入りを見ていないため、ほぼ間違いない。
そして何よりも僥倖だったのは、やちよが前の飼い主よりもよほど優しいことだった。やちよは暴力も振るわないし、餌もちゃんと与えてくれる。嫌がる素振りを見せれば、撫でようとする手を引っ込めてくれる。みふゆの心の中には安らぎが生まれ始めていた。
しかし、やはり人間への恐怖は未だ消えていなかった。少し変な行動を取ったら、やちよも結局前の飼い主のように自分を打つのではないか……そんな恐れがどうしても消えなかった。
やちよはクッションに座って朝食を摂っている。みふゆはその様子を眺める。やちよが視線に気付き、優しい顔を作って首を傾げた。みふゆは恐れかけ……勇気を振り絞り、ゆっくりとそちらへ歩き始めた。やちよは驚いた表情になった。みふゆはテーブルの上に飛び乗り、手に頬をすり寄せた。そしてすぐに飛び降り、元の隅っこへと戻った。やちよはぽかんとしてみふゆを眺めていたが、やがて嬉しそうに相好を崩した。
「ありがとう、みふゆ」
みふゆはその笑みを眺めた。単なる人間の顔のはずなのに、みふゆの目にはやけに綺麗に映った。
◆◆◆◆◆
一週間後。
「みふゆ。ごはんよ」
やちよはテーブルのすぐ近くに餌入れを置いた。みふゆは爪研ぎを中断し、たたた、と駆け寄った。そしてしゃがむやちよの手に頬擦りした。やちよがその流れで頭を撫でると、みふゆは満足したように目を細めてにゃあと鳴いた。やちよが立ち上がって離れると、みふゆは水を飲み、餌をスローペースで食べながら、ちらちらと去って行った方向を見た。やがてやちよが戻ってきて、朝食をテーブルに置いて腰を下ろす。みふゆは餌を食べるのをやめてそちらに駆け寄り、やちよの膝の上に乗って毛づくろいを始めた。
みかづき荘に引き取られてから半月で、みふゆは完全にやちよへの警戒を解いていた。それには様々な要因があろう。代表的なものを挙げるならば、まず、やちよが誰も家に上げなかったこと。やちよはみかづき荘によく入り浸っている知り合いに事情を説明し、いいと言うまでみかづき荘を出入り禁止にすること、パトロールにも中々出られなくなるかもしれず、その分の穴を埋めてもらわなければならないことを謝罪した。そのことに対して不満を持つ者が誰もいなかったのは、無論良い仲間に恵まれたのも一因だが、やちよの人徳によるものとも言えよう。これにより、みふゆは知らない他人に怯えることなく、やちよとの信頼関係を育むことができた。
次に、みふゆが元々人を恐れぬ猫だったこと。ブリーダーの下にいたときは、猫を見に来た客に対しては堂々たる振る舞いをしてみせていた。ブリーダーに対しては、まるで母猫に対するように甘えていた。鶴乃の母や祖母のせいで一時期は人間をひどく恐れるようになったが、それは彼女の本来の気質ではない。
最後に……やちよとみふゆの相性が良かったこと。彼女たちはまるで7年もの付き合いのある親友のように、お互いの思考を理解し、感情を共有した。当然、七海やちよは人間であり、みふゆは猫である。完全な理解には程遠いだろう。それでも、彼女たちはその感覚に満足し、今やお互いを信頼しあっていた。
「ごちそうさまでした」
やちよは手を合わせ、みふゆの背中を撫でた。みふゆは見上げる。
「お皿片付けてくるから、ちょっとどいて?」
やちよは優しくお願いした。みふゆは……動かなかった。ふいと顔を背け、その場で石のように丸くなった。脇の下を掴んで持ち上げようとすると、より身体を丸めて抵抗する姿勢を見せる。
彼女たちは7年の親友のように仲良くなった。それにより、みふゆはやちよに対して甘えたがりを全く隠さなくなった。この2週間で、みふゆはリビングの隅で一日中震える猫から、充分に甘やかされるまで決して退かない猫へと変貌した。みふゆが最初にこの挙動を見せた数日前、やちよは甘えだと気付かずに無理矢理みふゆを退かし、しばらく無視された。
「怯えられるよりはいいけど」
やちよはみふゆの額から尻尾の付け根までを、丹念に何回も撫でた。みふゆはゴロゴロと喉を鳴らし、やちよにぴったりとくっついた。
(そろそろ、いいかしらね)
やちよは心の中で呟いた。みふゆはトラウマを十分に克服したように見える。自分とは十分に仲良くなった。次の段階に進むべき時が来た。やちよはみふゆを撫でながら携帯端末を持ち、メッセージを打った。送信ボタンを押す直前、最後にみふゆをちらりと見た。みふゆは撫でられるがままになり、微睡んでいるようだった。やちよは耳の付け根をくすぐりながら送信ボタンを押した。
みふゆが微睡んでいる隙に、やちよはそっとみふゆを膝の上から下ろし、キッチンへ朝食の食器を持って行く。自動食洗機にセットし、ボタンを押す。今日やることを脳内でリストアップしながら戻ると、みふゆは下ろされた位置から動かずにこちらを見ていた。じとりとした目付きだった。
「……あなた、本当に猫よね?」
やちよは思わず尋ねた。みふゆは猫であり、かつ2週間前に出会ったばかりでありながら、まるで嫉妬深い彼女のような振る舞いをしてみせていた。
その後、やちよは片手で家事をしながら、もう片方の手でみふゆの機嫌を取ることを強いられた。その状況は昼まで続いたが、それ以上はなかった。みふゆがここにやって来てから初めての、みかづき荘への来客があったからだ。
◆◆◆◆◆
ピンポン、と玄関チャイムが鳴った。お腹を撫でられて満足そうに伸びていたみふゆは、やちよの膝の上でピンと耳を立て、起き上がって玄関の方角を見やる。
「ちょっと待っててね」
やちよはみふゆを退かして立ち上がった。玄関へと向かうやちよの背中を、みふゆは立ってじっと見守る。
玄関のほうから女たちの話し声が聞こえた。その中にはやちよ以外の声も混じっており、皆親しげだった。話し声が止み、足音がこちらに近づいてくる。みふゆは後ずさる。足音の主たちはリビングの入り口で立ち止まった。彼女たちとみふゆの目が合った。
女は二人いた。一方は腰辺りまであるストレートの金髪、目がやちよのタレ目とは随分違う。もう一方は長い金髪をポニーテールにしており、胸がやちよの胸周りとは随分違う。
「驚いたな……本当に飼い始めてたのか」
「わざわざ嘘つくわけないでしょう」
ポニーテールのほうの呟きに反応するように、やちよが姿を現した。みふゆはそちらへ向かおうとし、正体不明の人間たちの横を通らなければならないことに気付き、身動きできずに唸った。
「……威嚇、されてる」
ストレートのほうがバツの悪そうな表情をした。やちよはこちらに歩いてくる。
「色々あって……えーと……人見知りの子なのよ。さっき伝えたじゃない」
「そうだけど……」
やちよは屈み、落ち着かせるようにみふゆを撫でた。みふゆの唸り声が少し大人しくなる。やちよは二人のほうを見て紹介する。
「左がかなえ。ちょっとネガティブなところはあるけど、優しい心を持ってる良い子よ」
「……ネガティブってわけじゃ……」
「右がももこ。あなたと同じで甘えんぼうだし、犬みたいだからきっと仲良くできるわね」
「アタシ貶されてるよな!?」
「……やちよは、猫っぽい……」
「違うんだ、かなえさん……アタシは誰が猫っぽいとかそういう話をしたいわけじゃなく……」
「ももこ、どうでもいいけどみふゆを怖がらせないでくれる?」
「誰が蒔いた種だと……!」
ももこは怒りにブルブルと震え、やがて諦めたようにため息を吐いた。
「けど、確かにやちよさんの懸念通りだ……すっごい怖がられてるな。レナ拾ったときみたいだ」
ももこはみふゆを観察した。みふゆの唸り声が再び大きくなり、やちよの陰に隠れる。
「やちよさんにはちゃんと懐いてるんだな」
「……やちよも猫っぽいから……」
「かなえさんそれ気に入ったのか? まあ人間全て無理ってワケじゃないなら……」
ももこは正座するように両膝を床に付き、その場から動かずに手招きする。
「よしよし、みふゆちゃーん。こっちにおいでー」
みふゆはももこを睨んだまま動かない。ももこは焦った様子もなく、笑顔を投げかけ続ける。その状態が10秒ほど続いた。
「それで合ってるの?」
沈黙に耐えきれなくなり、やちよは思わず尋ねる。
「合ってるよ。こういうのは急いだってうまくいかないからさ。かえでにめちゃくちゃ言われたなあ……レナが怖がってるって」
ももこは懐かしそうな目をした。彼女は過去にも人間を警戒する猫と仲良くなろうとしたことがあり、手痛い経験をしている。
みふゆはやはりももこのもとへは行かず、やちよの膝に乗り、やちよの腹部にその顔を埋めた。やちよは申し訳なさそうな表情をしたが、ももこはなんとも思っていないように立ち上がる。
「最初はこんなもんだよ。これから数日かけて、だな。やちよさんだってすぐに懐かれたわけじゃないだろ?」
「まあ……そうね」
やちよは頷いた。みふゆに懐かれるまでの時間はかかったが、その後の距離を縮めるスピードは想像を超えるものだった。
「ほら、かなえさんもみふゆちゃんに挨拶しないと」
ももこがかなえの肩を叩いた。かなえは困惑したようにももことやちよを見る。
「いや、でも……あたし、目つき悪いし……人間へのトラウマが増えるかも……」
「猫って人の目つきがどうとかわかるのかしら?」
「さあ? まあ大丈夫だって! これじゃかなえさん側が怖がってるみたいじゃん」
「ん……」
かなえは少しムッとした顔をした。やちよの膝の上、こちらに背中を向けるみふゆを見る。かなえは覚悟を決めたようにふぅと息を吐き、やちよの横まで歩き、屈みこむ。みふゆがちらりとかなえを見る。
「……えぇと……」
かなえはこれでいいのか確認するようにやちよとももこを確認した。やちよは自信がなさそうだったが、ももこは苦笑しながら頷いた。かなえはみふゆに向けて手を伸ばした。みふゆは動かない。かなえの指先がみふゆの頭に触れた。
「おお……」
ももこは思わず感嘆の声を漏らした。驚いていたのはかなえ自身も同じだった。人間に対してトラウマがあるというみふゆが、やちよ以外の人間に対して触れることを許している。それも今日会ったばかりの相手に対して。
しかし、数秒でみふゆは離れてしまった。やちよの陰に隠れ、かなえとももこの両方を警戒するように見上げる。
「すごいな、かなえさん。もう懐かれてるんじゃないか?」
ももこの言葉に、かなえは恥ずかしそうに俯きながら、首を横に振る。
「いや……懐かれてるってわけじゃ……」
「みふゆのこと、撫でてみてどうだった?」
やちよが覗き込むようにして尋ねる。まるで慈しむような優しい表情に、かなえは言葉に詰まり、耳を赤くしてそっぽを向いた。
「……ふわふわしてた」
「……ふふっ。そうよね」
やちよはかなえの頭を撫でた。かなえは驚いたように尻もちをつき、その姿勢のままやちよから距離を取る。彼女の顔は今や頬まで赤く染まっている。
「あ、あたしは猫じゃないから……!」
「知ってるわよ」
やちよはおかしそうに笑った。かなえは唇を尖らせてももこを見る。なぜかももこも不満そうな表情をしていた。
「なんか負けた気分だ……猫と接する経験アタシのほうがあるはずなのに……」
「いや、勝ち負けじゃないし……」
「そうよ。ももこは犬だから猫と仲良くなるのは時間がかかるってだけ」
「おい」
ももこはやちよを睨みつけた。やちよは鼻歌を歌いながら、緊張状態にあるみふゆを撫でている。ももこは諦めたように髪をかきあげ、時計を見た。
「ちょっとお腹空いてきたかも。どうする? 中華料理の出前でも頼む?」
「あー……それはちょっと……」
ももこの冗談めかした言葉に、やちよは微妙な反応をした。油っこいものを食べたくない気分なのだろうか。ももこは一瞬そう考えたが、やちよが気遣わしげにみふゆを一瞥したのを見て、何らかの断片を理解した気がした。
「わかった、アタシたちで何か作るよ。冷蔵庫の使うけど」
「ええ。ありがとう」
「……あたしたち、って、あたしも? あんまり料理は……」
「大丈夫だって。かなえさんの性格なら調整屋みたいなことにはならないさ」
ももこたちはキッチンへと向かい、慣れた手付きで今みかづき荘にある食材を確認する。やちよはその光景を微笑ましげに眺め、みふゆを顔の高さまで持ち上げた。みふゆの表情からは感情は読み取れない。
「二人とも本当にいい子よ。だからあなたとあの子たちが仲良くなってくれたら、私はとっても嬉しいわ」
やちよはみふゆと鼻同士を触れ合わせた。返事は何もない。そもそも、言葉を1割でも理解できたかどうかすらわからない。それでも彼女は構わなかった。みふゆを胸に抱き寄せる。みふゆは尻尾をやちよの腕に巻き付けた。
数十分後、昼食がリビングへと運ばれてきた。彼女たちは昼食を摂り、夕方までみかづき荘で過ごした。みふゆは2人から隠れるようにしながらも、彼女たちが帰るまでやちよからくっついて離れなかった。
◆◆◆◆◆
一週間後。土曜日。
「来たよー、やちよさん!」
ももこはみかづき荘の玄関ドアを開けた。背後にはかなえを伴っている。靴を脱いでいると、銀色の毛並みの猫がこちらへとやって来る。みふゆだ。
「やちよさんの代わりにお出迎え? ほんと、みふゆちゃんってよりみふゆさんって感じだな」
ももこはみふゆの頭を撫でた。みふゆは数秒撫でられた後、手の下をするりと抜け出してかなえの足元へ。見上げる。
「ん……」
かなえは少し困ったような、恥ずかしそうな顔をしながら屈み、みふゆの頭を撫でた。再びみふゆは数秒撫でられてからするりと抜け出し、先導するようにリビングへと歩く。高貴さすら感じさせる堂々たる歩みだ。
「みふゆ、本当に賢い……」
「な。人間だったら絶対アタシより頭良かったんだろうなあ」
2人がリビングに向かうと、やちよはソファに座って何枚ものチラシを周囲に広げていた。みふゆは走り出し、チラシを踏みつけて跳び、やちよの膝の上へ。譲らぬとでも主張するようなふてぶてしい顔をしている。
「いらっしゃい」
やちよが言った。呼応するようにみふゆが鳴いた。
この一週間の間、学校や用事の合間を縫って2人は頻繁にみかづき荘を訪れ、みふゆと打ち解けんと努力した。その甲斐もあり、今やみふゆは二人を恐怖しなくなった。やちよ以外の人間とも交流を深められるようになった。ならば、次は。
「あの子と、仲直りしないとね」
やちよはみふゆを撫でる。みふゆは不思議そうにやちよを見上げた。
……そして、更に一週間後。
みかづき荘の入り口の前、鶴乃は胸に手を当てて深呼吸した。そして手を伸ばし、チャイムを押そうとして、もう一度深呼吸し、深く指を押し込んだ。今の感情にそぐわぬ、軽快なチャイムが鳴る。少ししてドアが開き、やちよが向こう側から姿を現した。彼女は鶴乃の表情を見て小さく笑った。
「あなた、すごい変な顔」
「だ、だって……」
「緊張しないの。うちのみふゆは賢いんだから、恨む相手を間違えはしないわ」
鶴乃はやちよの顔を見れず、視線を彷徨わせた。やがて、ためらいがちに手をやちよへと伸ばす。
「つ、連れてって……。足、動かない……」
そう頼んだ鶴乃の表情は今にも泣きそうだった。やちよは少し考え、何も言わずに鶴乃を抱きしめた。
「あなたのせいで、私まで不安になってきたわ」
「…………」
「大丈夫よ。大丈夫」
それはなんら根拠のない、空虚な気休めの言葉だった。それでも、その声は鶴乃の胸に届いた。やちよが離れる。鶴乃は頷いた。その表情は先程よりも多少マシになっている。やちよは鶴乃の手を引き、玄関を上がり、リビングへと向かった。
やちよがリビングに姿を現すと、みふゆはそちらを見て立ち上がる素振りを見せた。しかし、その後ろから鶴乃が現れたことで、みふゆの動きは固まった。鶴乃とみふゆがお互いを見つめ合う。やちよは距離を取り、邪魔にならずに状況を俯瞰できる場所へ移動する。
みふゆが少し後ずさった。鶴乃の心を恐怖が襲った。母や祖母は滅多に家に帰ってこない人たちだったが、それでも横暴に気付くことが遅くなってしまった。加えて、鶴乃は母たちと家族の関係である……自分を傷つけた人間の家族と仲良くなるなど、みふゆは望んでいないのではないか……そう考えてしまう。
しかし、鶴乃は足を踏み出した。恐怖に打ち克つため、一歩一歩床を踏みしめて。みふゆは……下がらなかった。彼女は鶴乃が来るのをじっと待ち構えている。鶴乃は目の前で立ち止まり、屈み込んだ。そして震える指先を伸ばす。みふゆは動かない。鶴乃の指先が、みふゆの頭に触れた。みふゆは……動かない。鶴乃は壊れ物に触れるように、慎重にみふゆの頭を撫でた。みふゆは目を閉じた。石のように固まっていた鶴乃の表情が少しずつ解れていく。
その光景を眺めながら、やちよは安堵の息を吐いた。鶴乃に伝えた言葉には、ひとつだけ嘘があった。彼女の不安は鶴乃のものが伝染したわけではない。鶴乃が来るずっと前から、みふゆたちが仲良くなれるか不安だった。どちらも大好きで大切な友達だ。仲違いしている姿など見たいわけがない。やちよはこっそり目尻を拭った。
「えへ、よしよし……よしよーし……!」
……安堵にはまだ早かった。鶴乃の様子が何やらおかしくなっていた。手の動きは段々早くなり、みふゆが小さく唸り始める。良くない予感がする。
「ちょっと……」
やちよは止めに入ろうとした。だが、遅かった。
「よしよーし! みふゆ可愛いねーよしよしよーし!」
鶴乃はみふゆを抱きしめ、激しく頬を擦りつけた。みふゆが怒りの鳴き声を上げ、前足を振り上げた。鋭利な爪が鶴乃の頬に複数の赤い線を描いた。
「いっだぁ!」
「あぁ……」
やちよは頭を押さえた。みふゆは鶴乃の腕を抜け出し、やちよへと一目散に駆けて肩の上へ登り、牙を見せて威嚇する。
「や、やちよぉ!」
鶴乃が頬を押さえながら、助けを乞うようにやちよを見る。やちよは首を横に振った。
「あなたが悪いわ」
「そんなぁー!」
鶴乃の悲痛な叫びがみかづき荘に木霊した。彼女とみふゆの完全な和解には、まだ暫く時間が必要なようだった。
後半
Feles Magi
「ふと思ったんだけどさ」
夕方。みかづき荘。1階から2階へ意味もなく駆け上がるみふゆを眺めながら、ももこが誰ともなしに呟く。
「やちよさんって猫耳着けたことないの?」
「は?」
携帯端末で翌日の予定を確認していたやちよは、手を止めてももこを見た。その瞳は正気を疑うように眇められている。
「あなた、みたまのセクハラ癖が移ってない?」
「世間話じゃん。あの時かなえさんがやけにやちよさんは猫だーって言ってたじゃんか」
「まあ……そうね」
「考えてみたら、確かに猫耳着けたやちよさん似合いそうだなーと思って。で、アタシとかかなえさんが思いつくってことは、プロのカメラマンとかはとっくに思いついてそう。じゃあそういう撮影もあったんじゃないかって思ったわけ」
「……残念ながらないわよ。ん……いえ……ない、ない……わよ」
「やっぱりそうかぁ」
歯切れの悪いやちよに対して、ももこは気落ちした様子もなく言った。単なる世間話以上の意味はない。みふゆは1階へと戻ってくると、やちよたちのいるテーブルにジャンプして乗り、携帯端末をぺしぺしと叩き始める。
「こら」
やちよは携帯端末を取り上げ、みふゆの顎をくすぐった。みふゆはテーブルを降り、落ち着かなさそうにリビングをうろうろと歩く。
「なんだか、最近みふゆさん元気だよな」「有り余ってる感じよね」「元気が?」「他にないでしょ」「食欲……はやちよさんか」「ちょっと」
みふゆは専用のタワーでバリバリと爪を研ぎ始める。やちよは立ち上がり、棚をゴソゴソと探った。
「悩んでたけど、やっぱり連れて行くべきなのかもね」
やちよは手に目当ての物を握って振り返った。握られているのは、猫用のハーネス。
「散歩? どうなんだろうな……レナはかえでに行かされてるみたいだけど、猫って別に散歩しなくていいみたいだし」
「実験よ。数回行ってみて、楽しくなさそうだったらやめるわ」
「まあそれなら……」
やちよはみふゆのもとへと近寄る。みふゆは足音に気付いて振り向き、やちよが手に握ったハーネスを認識した。
「ちょっと我慢し……」
やちよが屈み込むと、みふゆはひらりと身を躱した。やちよはみふゆを見た。みふゆもまたやちよを見返した。
「…………」
やちよは近付いた。みふゆは再びひらりと逃げ、やちよを見た。激しく鳴いたり、引っ掻いたりすることもなく、じっとやちよを見る。
「おお……」
ももこは身を乗り出し、勝負の行方を見届けんとする姿勢になる。やちよはハーネスを大上段に構え、数回トライする。その全てをみふゆは躱し、やちよを見る!
「……わかったわよ」
やちよはハーネスを棚にしまった。「やちよさんがみふゆさんに負けた……」と、ももこが唾を飲む。
「着けないんだから、代わりに私から離れないこと」
やちよが言い聞かせる。みふゆは瞬きだけ返す。彼女は猫であり、人間の言葉をほとんど理解できない。
「じゃあももこ、お留守番お願い」
「ほーい」
ももこがひらひらと手を振る。やちよはみふゆを抱え上げ、玄関から外に出て行った。
「歩かせすらしないって……さすがに過保護なんじゃ……」
ももこは呟いた。シンと静まり返ったみかづき荘に、返事をするものはない。ももこは仰向けに寝転がる。ポケットの携帯端末が振動する。取り出すと、メッセージの着信。かえでからのレナが寝ている写真。ももこは少し笑い、メッセージの返信を打ち始めた。
◆◆◆◆◆
やちよはみふゆを抱え、近所の道を歩く。人通りはあまりない。それほど都会でもない新西区の夕方は、心地よい橙色の空気に包まれている。
「みふゆ、お外はどう?」
腕の中のみふゆに尋ねる。みふゆはやちよをちらりと見上げ、辺りを興味深そうに見回した。(家の中にいたがる子だと思ってたけど、意外と外にも興味あるのね)やちよは心の中で呟く。自分で歩き回りたかったりするのだろうか。やちよは屈み込んで下ろそうとする。すると、みふゆは抵抗するようにやちよの胸にしがみついて鳴いた。
「っとと……ごめんなさい。それは嫌なのね」
やちよは立ち上がってみふゆを抱え直した。すぐに機嫌が直ったのか、みふゆは再び周囲を見回し始めた。やちよは時計を見た。そろそろ戻っても良いだろう。やちよは踵を返す。
……その時、突き当たりのT字路を青い猫が横切った。高そうな首輪に青く楕円形の宝石が吊り下げられている。青い猫は一瞬だけこちらを見た。みふゆはその猫と目が合った。みふゆの毛が逆立った。
「ちょっ、と!?」
やちよは激しく鳴き始めたみふゆを宥めようとする。みふゆがここまで攻撃的になっているのは見たことがなかった。怒っている、もしくは恐怖している? 何に対して? 青い猫は興味なさそうに通り過ぎ、コンクリート壁の向こうに消えて見えなくなった。
「大丈夫よ、大丈夫……大丈夫だから」
わけもわからずやちよはみふゆの頭を撫でる。みふゆの唸り声は止まない。外はやはりストレスだったのだろうか。早く帰るべきだろう。やちよはみふゆを腕にしっかりと抱え、みかづき荘への道を急いだ。
……数日後。大学から帰ってきたやちよは「ただいま」と声紋認証で玄関の鍵を開けた。靴を脱いでいると、みふゆがリビングから歩いてくる。みふゆはやちよの横を通り過ぎ、玄関のドアをカリカリと引っかく。
「お外行きたいの?」
やちよが尋ねる。みふゆはドアを引っかき続ける。「ちょっと待っててね」と言い、やちよは自室へと向かいバッグを置く。
(別に外が嫌だったわけじゃなかったのね)
やちよは玄関へと戻りながら考えた。最初の散歩以来、みふゆはよく外に出たいとねだる様子を見せた。ここ数日は忙しくて行けなかったが、今もおねだりが続いているところを見るに、本当に外が楽しかったのだろう。……そうなると、果たしてあの時の暴れ方はなんだったのだろう。あれは尋常ではなかった。単なる気紛れで済ませられるものではない。調べてみてもそれらしい解答は得られなかった。
「今日はあんなふうになりませんように……」
やちよは祈りながら玄関に着き、靴を再び履いた。みふゆはにゃあと鳴いて急かす。「はいはい」とやちよがドアを開けると、みふゆは我先にと自分の足で外に出た。「閉めて」と音声認証でドアの鍵をかけ、やちよはみふゆの後に続いて敷地の外へ出た。
…………。
外に出たみふゆは、それほど好奇心旺盛というわけでもなかった。花が咲いていれば近寄って匂いを嗅いでみたり、人がいればじっと観察してみたりするが、やちよを放ってどこかへ行こうとはしなかった。彼女は必ずやちよの手の届く範囲を歩き、距離が開けばその場に座って待った。
「他の猫もこんなに頭良いのかしら……」
それとも、うちのみふゆだけ? やちよはそこまで考え、かぶりを振った。親バカじみた思考になっていることを自覚したのだ。
「……ん」
やちよは向こうから歩いてくる人影を認識し、眉をひそめた。ワインレッドの制服……参京院教育学園の制服の少女。あまりこの付近で見かける制服ではない。その上、見覚えのある顔だ。肩まである牡丹色の髪、同じ色をした意志の強そうな瞳、アンダーリムの眼鏡。
「あら……」
向こう側もやちよに気付き、顔を綻ばせた。そしてみふゆを見て「あら……!」と目を輝かせる。
「その子はやちよさんの猫ちゃんですか」
「ちゃん……? え、ええ。みふゆって言うの」
「美しい名前です。その……撫でさせて頂いても?」
「いいけど……あなたそんなキャラだった?」
少女は興奮を隠しきれない様子で屈みこみ、みふゆに手を伸ばした。しかし、みふゆはその横をすり抜け、尻尾でペシリとアスファルトを叩いた。
「あら……」
少女は露骨に落胆した様子を見せた。同情したやちよがフォローに入る。
「まあ、あの子人見知りなところがあるから……」
「……いえ」
少女は凛々しい表情で立ち上がる。
「あれはむしろ、自分の身体をそう気安くは触れさせない誇りと見るべきでしょう。とても気に入りました」
「……そ、そう」
少女はなぜかより嬉しそうな表情をしていた。やちよは理解し難い何かを感じながら、疑問に思っていたことを尋ねる。
「それより、どうしてこっちに? 調整屋に用?」
「そうでした……猫ちゃんに見惚れている場合ではありませんね」
少女は周囲を見回し、誰もいないことを確認してやちよに顔を近づける。
「まず先に、謝罪をさせて頂きます。申し訳ありません。先日……」
やちよたちは何やら内緒話を始めてしまった。退屈になり、みふゆは興味のあるものを探す。
すると、遠くに青い猫が立ち止まっていた。みふゆの毛が逆立つ。猫は牡丹髪の少女を見ていたようだったが、みふゆの視線に気付き、目を逸らして何処かへと歩き始める。みふゆは……なぜか、それを追って駆け出した。やちよたちは話し合いに夢中になっており、みふゆの様子に気付かなかった。
角を曲がると、青い猫の姿はどこにもなかった。だが、匂いは残っている。みふゆはそれらしき匂いを頼りに後を追う。いくつかの角を曲がり、アパートとアパートの細い隙間へ。匂いが近い。みふゆは隙間を飛び出す。
「いい加減しつこいネ」
追った先にいたのは、猫ではなかった。確かに青色の髪だが、れっきとした人間の少女が立っている。みふゆは困惑し、周囲の匂いを嗅ぐ。猫特有の匂いは消えているが、微かに残るエッセンスは確かに目の前の少女のものだった。
「何か用カ? こっちは暇じゃ……」
少女は言いかけ、目を細めた。何かに気付いたかのように。
『お前、これ聞こえるカ』
突然、みふゆの脳内に声が響いた。明らかに目の前の少女のものであったが、みふゆは混乱してぐるぐると辺りを見回す。
「……そうか。聞こえるみたいネ」
少女は呟いた。それは悲しげな声音だった。しかし猫であるみふゆには言葉がわからなければ、そこまでの感情の機微もわからない。みふゆは少女に牙を見せて威嚇する。
「安心するネ。取って食たりしないヨ。でも……そうネ」
少女は屈み込み、みふゆの瞳を覗き込んだ。その瞳は、微かに青く光っているように見えた。
「変な白いのに何か言われても、反応しないことネ。わかったカ」
少女の言葉に、みふゆは何も返せない。人間の言葉がわからないから……それ以上に、目の前の存在を恐怖していた。同じ猫とも、人間とも思えなかった。
「じゃ、さっさと帰るがいいネ」
伝えることは伝えたとでも言うように、少女は立ち上がると突然跳び上がった。屋根から屋根へと跳び移り、見えなくなる。みふゆは唖然としてそれを眺めていた。
「……ふゆ……みふゆ……!」
遠くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。他の何よりも安心できる声。みふゆは一目散にそちらに駆け、やちよを見つけた。やちよが気付いたときには、みふゆは跳んでいた。
「っと!」
やちよは慌てて胸元でみふゆをキャッチする。みふゆは甘えるように鳴いて身体を擦り付ける。
「もう、心配したんだから……」
やちよは肺の空気全てを吐き出すような安堵の息をついた。みふゆは周囲を確認した。既に牡丹髪の少女の姿はない。
「今日はもう帰りましょうか」
やちよはみふゆを腕に抱いたまま、みかづき荘への帰路についた。みふゆの記憶からは、先程の衝撃的な出来事は既に薄れて消えようとしている。まるで脳が防衛機構を働かせているかのように。人外の力を目の当たりにした人間が、不都合な真実として忘却しようとするかのように。
……帰るみふゆたちを瓦屋根の上から眺める存在があった。それは青い髪の少女。編み込まれた髪が風を受けて揺れている。
「こんなところにいましたか」
そして、その隣にたった今少女が現れた。牡丹色の髪。
「ななか」
青い髪の少女は名前を呼んだ。ななか、と呼ばれた少女は、青い髪の少女の視線を追う。
「美雨さんも彼女たちに興味がおありですか。私の場合はあの銀色の猫ちゃんですが……あの毛並みといい、立ち振る舞いといい……素晴らしいものでした」
美雨はやちよたちを眺めたまま、何も返さなかった。ななかは何かを察したのか、薄く微笑む。
「ご安心ください。美雨さんのことも私は大好きですよ」
「それは別にどうでもいいネ」
美雨は冷たく切り捨てる。
「それより、申し訳ないネ。魔女、やっぱり見つからなかたヨ」
「……そうですか」
ななかは顎に手を当てる。
「方角的にもこちらだと思ったのですが……もっとも、やちよさんたちが相対したとしても、彼女たちのチームが負ける相手ではないでしょうが」
「でも、私たちは取り逃がしたヨ」
「油断していましたから。まさか逃げるような相手ではないと。ですが、少なくともこの地域の魔法少女には、やちよさんから注意が呼びかけられるでしょう」
「……まあ、いいネ」
美雨は踵を返し、帰ろうとした。「美雨さん」その背中にななかが呼びかける。
「たまにはどうです? あの猫ちゃんのように、私に抱かれて帰りませんか?」
美雨は顔だけ振り向き、ななかを横目で見た。刀のように冷たい瞳だった。美雨の全身が光り、一瞬後にはその場所には青い猫がいた。猫は屋根から軽々と飛び降り、ななかを置いてさっさと歩いて行ってしまう。
「つれませんね……」
残念そうに呟き、ななかもまた屋根から飛び降りる。彼女はやちよたちの方角を心配そうに振り返ったが、すぐに猫の後を追うように歩き始めた。
◆◆◆◆◆
数日後。夜。
やちよはテレビもつけずにチラシを眺め、みふゆは特に何もせずソファで丸くなっている。静かな夜だった。外からも車の通る音が時々聞こえるくらいで、風の音も動物の鳴き声もない。
「みふゆ」
やちよが呟いた。特に意味はない。みふゆは反応し、ソファを降りてやちよの傍へと近寄る。
「よしよし」
やちよはみふゆの頭を撫でた。特に意味はない。みふゆはやちよの膝に乗り、再び丸くなった。やちよは片手で撫で続けながら、チラシに乗っている牛乳にバツ印をつけた。しばらく、そんな時間が続いた。
「…………!」
突然、やちよがチラシから顔を上げた。動きに反応して、みふゆはやちよを見上げた。見開かれたやちよの瞳からは、驚き、または緊張の感情が読み取れた。見たことのない様子に、みふゆは不安になった。やちよは携帯端末を取り出し、何らかのメッセージを打っている。やがてポケットにしまい、みふゆを膝から下ろして立ち上がる。
「ごめんなさい、お留守番しててくれる? すぐに戻るから」
やちよはみふゆの頭を撫で、玄関へと向かい、みかづき荘の外へと出ていった。いつになく性急な動きだった。あの緊張の様子は、近所のスーパーのタイムセールに開始数分前で気付いた時とも違う、もっとシリアスなものだった。良くないものを感じた。
みふゆは玄関へと向かう。外との接続口にはドアが聳え立ち、まるで猫を拒絶するかのようだ。しかし、みふゆは賢かった。みふゆはジャンプしながら突進するようにドアノブを押した。すると……ドアが少しだけ動き、外への隙間ができた。幸いにも……または不幸にも、やちよは鍵を閉め忘れていたのだ。みふゆは苦心してドアをもう少しだけ押し、充分な隙間を確保して外に出た。ガチャン、と背後からのドアの閉まる音が大きく響く。みふゆは地面に鼻をつける。やちよの匂いはすぐにわかった。みふゆは走り出した。やちよのもとへ。
……そして、その様子を眺める存在があった。その存在は屋根の上、髑髏じみた月を背後に赤く丸い目を光らせ、じっとみふゆを見ていた。
…………。
やちよの匂いはみかづき荘の近くで途切れていた。どんなに匂いを嗅いでも、それ以上向こうには行っていないはずだった。つまりそれは、やちよが突然大ジャンプをしたか……もしくは、目の前の“裂け目”が、みふゆの知らない異常な現象を起こしたことを意味する。
みふゆの目の前には“裂け目”があった。それはとてもこの世の存在とは思えないほどグロテスクであり、負の“力”を撒き散らしていた。みふゆの本能は強く警告していた。早くこの場所から離れるべきだと。しかし、この先にやちよがいるかもしれない。みふゆは逡巡した。……その一瞬の逡巡が、彼女から選択肢を奪った。裂け目がより広く開いた。引力が発生し、みふゆは為す術なく裂け目へ呑み込まれた。
…………。
裂け目の中は、猫であるみふゆにもわかるほどおぞましい空間だった。周囲には紫色のビルの残骸……群青色の廃墟……緑色の折れた電柱……が散乱し、崩壊した街を感じさせる。空は濃い橙色だ。みふゆはおかしくなりそうだった。しかし、地面から微かにするやちよの匂いが、彼女を正気に留まらせた。みふゆは地面に鼻をつけ、必死にやちよの匂いを辿った。道中に邪魔するものは何もなかった。誰かが掃除したかのように。独りでにさざめく水たまりを跳び越え、ビルの残骸の下を潜り、走る。
そして、彼女は到達した。最深部に。みふゆの前には手足の折れ曲がった人間模様の悪趣味な扉がある。みふゆはそっと前足を扉につけた。扉は自ら開き、みふゆを受け入れた。異形が彼女の目の前に現れた。
異形は全長20メートルはあろうかという巨体であり、身体は爬虫類じみた赤黒い鱗で覆われ、ワニじみて割れた口には鋭利な牙を持っていた。背中には赤熱したトゲが生え、腕の先には穿つことを目的とした獣じみた爪が生えている。その足元には2メートルほどの黒ずくめの無数の人型がひしめき、吹き荒れる青い風が人型をまとめて吹き飛ばしていた。それはあまりにも速すぎ、みふゆは動きを追えなかったが、それが何かはわかった。
青い風はやちよだった。
風は人型を吹き飛ばしながら、異形の足を斬りつけ、時々細長い何かを投げて異形の身体に突き刺していた。異形は苛立ったように地団駄を踏み、口から炎を吐き出して味方らしき人型ごと風を焼こうとする。しかし炎が到達する頃には既に風はそこになく、巻き込まれた人型が火達磨になって溶けるように消えていくだけだ。
「素晴らしいね、さすがはやちよだ」
すぐ横から声がした。接近する気配もなく、“それ”は突然現れた。みふゆは咄嗟に距離を取り、そちらを見た。
“それ”は白い猫のようだったが、みふゆは決定的に自分とは違うと気付いた。耳から生える天使めいた羽、赤いガラス玉のような瞳、そして何より先程発せられた人間の言葉……!
「はじめまして。僕の名前はキュゥべえ。君はどうやら魔法少女の素質があるみたいだ」
キュゥべえ、と名乗る存在の言葉は、みふゆの魂に語りかける。人間の言葉を知らずとも、人間ほどの知性を持たずとも、強制的に意味を理解させる。みふゆは威嚇すらできずに恐怖した。理解を越えた異常が起こっていた。
「君にお願いがあるんだ。僕は君の願いをなんでもひとつだけ叶えてあげる。その代わりに、僕と契約して、魔法少女になってよ!」
魔法少女! みふゆは賢い猫であり、それが何かをすぐさま理解した。彼女はやちよを見た。もっとも身近にいた魔法少女を。一瞬立ち止まったやちよが、半径5メートルの人型を吹き飛ばした。その横顔は気高く、美しかった。やちよがこちらを向き、目が合った。
「……みふゆ……!?」
やちよは驚愕に目を見開いた。その時、異形もまたみふゆに気付いた。その口元が燃え、赤い炎をこぼし始める。
「まずいね……」
キュゥべえは即座にその場を離れた。しかし、みふゆは動けなかった。数々の出来事による衝撃は、彼女のキャパシティを完全に越えた。彼女はただ呆然として異形の口元を眺める。「みふゆ、そこから逃げるんだ!」キュゥべえの声が聞こえる。異形の口元から巨大な球状の炎が放たれ、それはみふゆをまっすぐに目掛けた。瞬きする暇すらなく、炎はみふゆの目の前に迫った。
……しかし、炎は彼女の毛一本を燃やすことすらなかった。
「……ぐ、ぅっ……」
みふゆは腕に抱かれていた。もっとも安心できる場所……やちよの腕の中に。みふゆはやちよを見上げた。やちよは微笑み……みふゆを取り落とした。
「なんてことをするんだ、やちよ……!」
キュゥべえが白々しく叫ぶ。炎をまともに喰らい、やちよの背中は痛々しく焼け爛れていた。自分のせいだ。みふゆはそれを理解してしまった。
「……だい、じょうぶよ」
やちよは細長い棒を支えに立ち上がる。その全身は震え、今や立っているのがやっとという有様である。
「この程度の怪我、今までだって何度も、してきた……ベテランは、伊達じゃない、のよ……」
強がりが虚しく響く。人型が迫る。やちよは棒を構え、絶望的に振るった。
やちよの動きは明らかに精彩を欠いていた。人型を吹き飛ばすペースは先程の半分ほどになり、繰り出される攻撃を数発貰っている。人型の攻撃は弱くとも、今のやちよにとっては貰えばその度に命を削られる危険なダメージ……! それでもなお、やちよは戦う。……しかし、これは判断ミスだった。彼女はみふゆを抱いたまま、一旦その場所から退避するべきだったのだ……!
悲鳴のような鳴き声に、やちよはそちらを向き、その際に人型の攻撃を一発貰った。そこには、人型に掴まれて掲げられるみふゆの姿があった。
「みふゆ……!」
やちよは人型の波を越えようとする。しかし、波は無慈悲に彼女を飲み込もうとし、傷ついた魔法少女を通さない。
みふゆは鳴き叫んだ。自分が殺されようとしている。そして自分が死んだ後は、やちよもまた殺されるだろう。自分を守ろうとしたせいで。みふゆは叫ぶ。救いを求めて。
「みふゆ! 僕と契約するんだ!」
そして、悪魔の叫びがみふゆに届いた。みふゆは叫んだ。
……キュゥべえは、頷いた。
「契約は成立だ」
みふゆを掴んでいた人型が消し飛んだ。みふゆの周囲に結界が発生したのだ。やちよが、異形が、使い魔でさえもそちらを見た。みふゆの胸元から紫色の宝石が生まれ、目の前に浮遊した。みふゆは苦しむように身体を丸める。一瞬後、みふゆは紫色の光に包まれ、背中がぱっくりと裂けた。そこから噴き出したのは血ではなかった。眩い紫色の魔力が飛沫じみて迸る中、人の形をした光がゆっくりと身をもたげた。光はやがて薄れ、裸の人間の姿が視認できるようになる。足元の猫型の光は爆発四散し、無数の人魂じみた球体になり、人間の身体を覆い、魔法少女服を作り出した。最後に右手付近に光が生じ、巨大なチャクラムを作り出してその現象は終わった。そこには、魔法少女がいた。銀色の髪は猫めいて二箇所がピンと跳ね、その身体は神聖さすら感じさせるほどに均整が取れている。魔法少女は目を開いた。
「……みふ、ゆ?」
やちよが唖然として言った。みふゆ……らしき魔法少女は……力強く頷き、異形を……魔女を見上げた。そして前屈みになり……転んだ。
「にゃあ!?」
みふゆはジタバタと暴れる。なんたることか、彼女は今まで猫だった。ゆえに突然人間の身体を手に入れても、自由に動くことができないのだ。やちよたちは唖然としてその様子を眺めている。
「……にゃあ」
やがて、みふゆは力無く鳴いた。それを皮切りに、止まっていた時間が動き出した。
魔女が空気を震わせる咆哮を上げ、使い魔たちが殺到する。やちよは絶望的にハルバードを構え、みふゆはジタバタと暴れる……。
「グッド・タイミング!」
その時、みふゆの周囲の使い魔たちが吹き飛んだ。続けて、やちよの周囲に炎の竜巻が発生する。そして、魔女の悲鳴。左目に鉄パイプが突き刺さり、ドス黒い血が噴き出している!
「これでアタシも汚名返上して、スーパーグッドタイミングのももこって感じかな」
みふゆを守るように立つのは十咎ももこ! やちよの側には由比鶴乃! その中間の位置に着地する雪野かなえ!
「……遅すぎ、よ。じゅうぶん、バッドタイミング……ゲホッ!」
やちよは笑顔を作ろうとして、できずに膝をついた。ももこは背後の銀髪の女を一瞥する。
「聞きたいことは色々あるけど……かなえさん! 鶴乃!」
「ほいさ!」「……ん」
ももこの号令と共に、3人の怒れる魔法少女は動き出した。それはひとつひとつが台風のようであり……実際、魔女にとっての災害だった。
魔女は爪を振り回し、炎を吐き、殺されないように抵抗した。3人の怒りはそれを上回った。大剣が喉を深く切り裂き、鉄パイプがその傷をこじ開け、炎が頭と胴体を完全に切り離した。魔女は叫びながら爆発四散した。
結界が崩れ、現世の光景が戻ってくる。ももこは変身を解いてすぐにやちよに駆け寄る。
「やちよさん! 大丈夫……じゃないよな。治癒魔法使えるのはうちにいないし……」
「落ち着きなさい、ももこ……ほら、普通に歩けるんだから……」
やちよはふらふらと歩き……バランスを崩して転びかけた。それを、人型のみふゆが受け止めた。
「にゃあっ、にゃあっ!」
「もう……心配性の子が、多すぎるわよ……」
混乱したように頭を撫でてくるみふゆに、やちよは笑みをこぼす。ももこは微妙な表情になり……こんな時に尋ねることではないと思いつつも……口を開く。
「なあ……やっぱりその人って、みふゆさんなのか?」
「……そう、よ。正真正銘、ね」
「にゃあ!」
やちよに同意するように、みふゆ……らしき女……はブンブンと首を縦に振った。正直、やちよの意識は朦朧としているし、にゃあとしか言わない女は胡乱だ。ももこはかなえを見た。かなえは歩み寄り、やちよを抱え上げる。
「いたいわ、かなえ……背中、膝の裏もやけどが……」
「それは我慢して……。とりあえず、調整屋に運ぼう……このままここにいても……」
「ん、ああ……うん! そうだな、かなえさんの言う通りだ! 行くぞ、鶴乃!」
ももこは鶴乃に声をかけた。鶴乃は頷いた。彼女は結界が崩れた後、一言も言葉を発さずに複雑な表情をしていた。
◆◆◆◆◆
数日後の週末、昼。みかづき荘。
「まあ、色々と落ち着いて、やっとゆっくり話せる日が来たわけだ」
テーブルを囲む少女たちの一人、ももこがその場の全員に対して語りかける。すなわち、やちよ、みふゆ、かなえ、そして鶴乃。
「つーわけで、まあ全員大体の事情はもう知ってるけど……まず」
ももこはみふゆを指差す。みふゆはなぜか人型で、神妙な表情で正座していた。
「アンタは、みふゆさんで間違いないんだよな?」
「にゃ」
みふゆは頷いた。「なんか、やりにくいな……」ももこは呟いて咳払いする。
「みふゆさんは、猫で、魔法少女」
「にゃ」
「願いは、自分たちを助けてとかじゃなくて、やちよさんみたいな人間になりたい……みたいな」
「にゃ」
「固有魔法は変化魔法と、幻惑魔法のふたつ」
「にゃ」
「今は、人間の……まあ子供くらいの知能はある」
「……にゃ」
今度の頷きはやや不服そうだった。「もう大人並の知能があるって言いたいのよ」とやちよが補足し、「にゃあ」とみふゆがやちよの脇腹をつつく。
「……なるほど」
ももこは腕を組み、重苦しく頷いた。そして口を開こうとし、唸り、首を捻る。
「……何を言えばいいのか」
「無理に絞り出さなくても……」
「いや、聞きたいことは色々あるはずなんだけど……ありすぎて……」
かなえのフォローに、ももこが唸るように返事をした。
「鶴乃は、あるでしょう」
その時、やちよが声を発した。やちよと鶴乃の視線が衝突した。「にゃあ……」みふゆが不安そうに鳴く。鶴乃は俯き……首を横に振った。
「ある、っていうより……あったよ。なんでみふゆを巻き込んじゃったの、とか……みふゆを危険な目に遭わせないって信頼してたからこそ、やちよに預けようと思ったのに、とか……」
鶴乃は顔を上げる。
「でも、落ち着いてもう一度考えてみた。そしたら、全部が全部許せたわけじゃないけど……わたしだって、みふゆが暴力振るわれてるの気付けなかったし……一方的に責めるのは、できないって思った」
「……そう」
やちよは頷いた。彼女は殴られる覚悟だった。しかし鶴乃は殴らなかった。優しい子だからだ。やちよはそう考え、鶴乃に感謝すると共に、自分のしたことの罪を再び深く認識した。
みかづき荘が重苦しい空気に包まれる。そんな空気を引き裂くように、パンとももこが手を叩く。
「まあ、なっちゃったもんはなっちゃったんだからさ! 歓迎会しようよ! 新しいチームの一員のさ!」
「……ん。それがいい」
かなえが微笑んで頷く。「にゃあ!?」人間の知能を得て、言葉を少しずつ理解できるようになったみふゆが、楽しげな空気を察知して鳴く。なんとなくおかしくなって、やちよも鶴乃も笑った。
…………。
……窓から入り込む日差しに、みふゆは薄く目を開く。彼女はベッドの中にいた。窓の外には朝陽が浮かんでいる。
ひどく懐かしい夢を見たような気がした。あの後の夜、かえでとレナ(かえでの飼い猫である)も招いてみふゆの歓迎会は執り行われた。ももこが人の姿では甘えないのかと焚き付けてきて、言われた通りにやちよに甘えると、鶴乃も便乗して甘えて、それをかなえが写真に撮って奪われそうになったりと、今でも鮮明に思い出せるほどに楽しい歓迎会だった。
あれから、色々なことがあった。チームはあの頃よりも遥かに大所帯になった。メル、いろは、フェリシア、さな……。そして、他にも動物の魔法少女がいると知った。気付かなかっただけでこんなに多かったのかと、やちよも驚いていた。
みふゆは背中を撫でる手に気が付いた。顔を上げると、あの頃と変わらず優しい表情をしたやちよが、こちらを見下ろしていた。
「おはよう。みふゆ」
やちよが言った。にゃあ、とみふゆは返事をした。
ねこみふ第3部 終わり
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?