見出し画像

テロへの反応で感じた国民性~アメリカ/フランス/ベルギー/日本で

衝撃的なあの日々、アメリカ9/11テロ事件から20年が過ぎ、フランスのチャーリー・エブド社襲撃事件から7年が過ぎた。また最近は日本でも無差別の殺傷事件が増えているこの時に当時色々と感じたことを書き残してみたい。

私は海外駐在時に1980年代のイギリスでIRAのテロ、アメリカでアルカイダによる2001/9/11の同時多発テロ、2015年以降のフランスやベルギーでのイスラム過激派による複数の連続テロ事件などを、幸いにして直接は巻き込まれなかったが、住民として経験してきた。1月7日は、2015年にフランスで起きたチャーリー・エブド社襲撃事件が起きてから7年目にあたった。このテロをきっかけにフランス各地でテロが相次いで起き、当時住んでいたベルギーでも2016年3月22日にブリュッセル空港やブリュッセルの地下鉄のマールベーク駅で連続爆弾テロが発生した。いつどこで起こるかもしれないテロの脅威は海外生活の中に常に存在し、見えない重しとなっていた。

9/11テロ発生時に私はシカゴに住んでいたが、たまたま自宅にいてライブで見ていたニュースの映像で、一緒に働いたことのある当時の職場の先輩後輩が働いているWTC#2に飛行機が突っ込み、ビルが崩落するさまを声もなく見守っていた。友人や仲間が多数巻き込まれて亡くなった。テロに巻き込まれ生死も判明していない友人のご家族に励ましの電話をする時ほど辛かったことはない。また、ブリュッセルのテロでは、家族の知人がテロに巻き込まれ生死の境をさまよった末に回復したこともあり、テロは他人事ではない。9/11テロの後ではシカゴのシアーズ・タワーにも飛行機が突っ込むとのデマが流れ、当時のアメリカ人秘書がパニックに陥ったことや、当時の何とも言えない大きな不安感を今でも鮮明に覚えている。ブリュッセルではEU議会周辺に住んでいたこともあり、我々が買い物をしたり散歩をする日常生活圏を武装した兵士が警備する姿に大きな違和感といくばくかの安心感を感じていた。海外に住んでいる間は否応なく、テロが身の回りにいつ起こるかもしれないとの不安と警戒感を抱えながら生きていた。
日本に帰国して、日本はとても安全な国で、一般市民は無自覚にその安全を享受していることを改めて身に染みて感じた。これは大変有難いことであると同時に、あまりの無警戒さにテロが起きた時の悲劇的事態を心配してしまう。海外では武器を持ったテロリストは生かしておけば犠牲者が増えるので、抵抗すれば否応なく射殺される。このような的確な対応が瞬時にできる警察官は(訓練を受けた一部の特殊部隊を除き)日本にはいないのではないか。最近は、刃物を使った小田急線や京王線での無差別殺傷事件や放火・立てこもり事件が増えてきている。大阪クリニックでの放火巻き添え殺人事件、東大正門前の傷害事件も記憶に新しい。これらも政治的、宗教的背景のない一種の無差別テロと考えれば、犯人にとっての犯行の容易さは平和慣れした日本のアキレス腱を示しているのではないだろうか。周りの人が殺意と武器を持っていると想像できる日本人、万一そうした人に出会った時に備えて意識している日本人はまだ殆どいないだろう。電車の中で無防備に居眠りができるのは日本だけではないか。日本が今後も安全な国であることを切に願う一方で、こうした事件は、残念ながら今後も増えていくと思われるので、少なくとも個人個人がリスクを意識して身を守るすべを考える時期に来ているのではないか。
話をアメリカに戻そう。9/11テロ後に感じたアメリカと日本の対応の違いは、当時の私には異常なほどに際立って感じられた。ブッシュ大統領の即時の対応は明快で、テロリストをどこまでも追いかけて責任を取らせるとの反撃だった。テロ行為をアメリカとアメリカ市民への攻撃、すなわち戦争行為と位置づけ、非常事態宣言や軍の動員など戦争体制を整え、その後イラク侵攻やアフガニスタン紛争へとつながる対テロ戦争へ突き進んだ。アメリカ史上初めてのアメリカ本土への攻撃に対して、「目には目を」の怒りと報復で反応した。一般市民もこの対応を熱狂的に支持した。ほぼ国民一枚岩の怒りの噴出であり、真珠湾攻撃でアメリカを敵に回した怖さを当時の日本は本当には理解していなかったのではと感じたくらい強烈なものだった。個人的にも、アメリカ人とけんかをしてはいけない、と心の底から思ったものだった。
アメリカが危機に際して一枚岩になれる背景は、強烈な愛国心で、愛国心は幼いころから日常的に植えつけられるようになっている。例えば、娘が通った小学校でも生徒は毎日、「I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all. 私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います」とアメリカ合衆国の国旗に向かって国家への忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)を唱えている。公式行事や毎日のスポーツエベントでは国旗が掲揚され、国歌が唱和される。普段は様々な意見の対立や人種間の軋轢を感じるアメリカ社会であるが、自国に対する基本的な理念を国民が共有していることで、この理念、特にテロ行為に対しては「万民のための自由と正義」が侵されたことが強烈な愛国心となって現れ、時には過剰なほどに攻撃的になるのではないかと感じた。ちなみに、アメリカは世界でも最たるキリスト教国家で、新任大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓するし、伝統的にキリスト教が根付いている欧州に比べても、毎日曜に家族で教会に通う人の数は圧倒的に多い。

一方、当時の日本政府の対応や国会の議論は犠牲者への追悼と、テロ行為の非難、テロ犯罪者を逮捕し裁くことに国際的に協力する、の3点が主だった。アメリカにいてこの報道に接した私は大きな違和感を持った。なぜなら、2,977人の犠牲者の中に24人の日本人がいたことへの特別な言及が国会の決議文には全く無かったからだ。犠牲者への追悼も一般的なもので、日本人犠牲者への言葉は全く無い。アメリカが、アメリカ人が激しく反応したのとは対極的な、言ってみれば奇妙に静かな反応だと感じた。一番奇異に感じたのは、日本人もテロ行為の標的になって犠牲者が出たことを、マスコミも含めて日本人や日系企業に対する攻撃と捉えていないことだった。日本政府には世界中どこであろうと日本人と日本人の活動の安全を保障する責任があるはずだが、その具体的な観点や対応策が全く欠落した国会決議文はむなしい作文にしか見えなかった。海外にいる日本人にとって、日本政府は当てにできる存在でないことを思い知らされた事件だったのに、またマスコミも一般の日本人もそのことを特に意識したり批判したりしていないようだった。先に述べた日本人の、日本の与えられた平和に慣れた国際的な感覚のずれが現れたようなシーンだった。先般のアフガニスタンからの日本人救出においても、日本政府の他国に比べて遅い対応にイライラしたのは私だけだろうか。

フランスのテロに話を変えよう。ヨーロッパは多民族多宗教国家であり、基本がキリスト教国家であるアメリカや単一民族国家である日本とは大きく異なる。経済的な階級も明らかに存在する。フランスやベルギーではアラブ系やアフリカ系住民は移民出身の貧困層が多く、しかも何世代も高等教育を受けられず、貧困から抜けられない閉塞感や根強い差別から社会や国への不満を募らせている。不満のはけ口や社会的な出口がない若者がイスラム過激派と結びつき、中東での戦闘訓練や実戦経験を経てテロリスト化し、ヨーロッパに戻ってテロ行為を行うという深刻な問題がある。若者のテロリスト化は宗教・民族問題より根の深い社会問題であり、今活動しているテロリストを捕まえれば解決するような単純な問題ではなく、移民層のより根本的な社会への同化策なしには、テロの脅威は今後も無くならないだろう。

2015年1月7日の、パリの有名な風刺新聞社であるチャーリー・エブド社襲撃事件は、こうした背景の中、イスラム教最高指導者であるムハンマド師の風刺画を掲載してきた同社が武装した2名のイスラム過激派に襲われ、関連して起きたユダヤ食品スーパー襲撃事件と合わせ17人が犠牲となった。最高指導者を風刺の対象とすること自体イスラム教徒にとってはタブーであり、テロ攻撃の直接のきっかけとなった。同社はそれまでにも何度か警告や火炎瓶攻撃さえ受けていたが、フランスでは民主主義の大原則として、宗教の自由と共に宗教を批判する「表現の」自由が尊重されていて、度重なる裁判にも勝訴し、イスラム教風刺画を続けてきた歴史がある(実はチャーリー・エブド社イスラム教だけでなくキリスト教の風刺も同じような過激さで行ってきている)。

これ以上事件の詳細には触れないが、私が感銘を受けたのは、テロ後の1月11日にフランス各地で行われた国民による犠牲者の追悼・反テロ行進(共和国の行進Marche Republicane)だった。パリだけでも意を一にする1.5百万人超の市民とフランスのオランド大統領やドイツのメルケル首相など各国指導者が集結した。政治的メッセージは一切なく、静かに行進するなか、Liberté(自由)の声とフランス国歌La Marseillaiseの歌声が響く。アメリカが9/11テロの後、テロリストに対する敵意・報復をむき出しにして団結したのに対し、フランス国民はテロへの反撃でなく、フランスの自由と民主主義の価値を全国民で守ることを示すことで団結していた。庶民が自ら立ち上がり、血を流して戦い取った、フランス革命から脈々と受け継がれてきた、静かなしかしテロに屈しない骨太い伝統の力を見た気がした。日本のように拡声器によるうるさいアジや注意もなく済々と秩序だって行進する人々に、本当の意味で成熟し、自立した民主主義国民の姿を見たような気がする。普段は感情を表に出し言いた放題のことを言う個人主義のフランス人だけに、自由と民主主義の価値観に対する脅威に対し一致団結する姿に感動さえ覚えた。多くの人が小さな子供を連れて来ていて、行進を体験することを通じて民主主義の価値観の大切さを教えているのも印象的だった。翻って、日本に今、自由と民主主義の価値を本当に理解している人はどのくらいいるのだろう。自分も含めて、こうした大切なことをきちんと子供たちに教えることのできる、政治家、ジャーナリスト、教師、親はどのくらいいるのだろうか。今回のフランスのテロとフランス国民の対応をケースとして、日本の子供たちにも自由と民主主義の大切さを学んで欲しいと心から願ったことを思い出す。

最後に、ベルギーの「ゆるさ」について、チャーリー・エブド社テロ直後のエピソードをご紹介しよう。当時の私はブリュッセルからパリに高速列車タリスThalysを利用して毎月のように出張していた。事件の翌日もどうしてもパリに行かなければならず、かなりの不安を感じながらタリスをブリュッセル南駅からパリ北駅まで利用した。いつものように早朝の列車であったが、ブリュッセル南駅では何の警戒も荷物チェックも無く、これで大丈夫なのかと更に不安になりながら乗車した。ところが、乗車してみると車内には銃を携えたフランス人兵士が巡回して警戒に当たっていた。また、パリ北駅では物々しい武装兵士がホームを警戒していて、ホームの出口では列車から降りた乗客のパスポートチェックを行う徹底した警戒ぶりだった。フランス側のこうした対応は少なくとも私が帰国した2019年5月までは続いていた。テロを受けた当事国として、フランスの対応は当然であるが、一方でベルギーのある意味、「ゆるさ」を感じたエピソードだった。実はブリュッセル市西部にあるモーレンベーク地区は、その後の2015年のフランスのバタクラン劇場襲撃テロや2016年のブリュッセル空港テロ事件などの犯人が潜伏していたアラブ系住民が住む地区で、ヨーロッパではテロリストの巣と呼ばれていた。このような地域がお膝元にあるにもかかわらず。チャーリー・エブド社襲撃事件以降も徹底的な掃討作戦を行わず、その後のテロを許してしまった一因にこのベルギーの「ゆるさ」があったのではないか。ブリュッセル南駅の警戒態勢も、テロの後は駅の警備も一時的に厳しくなった時期はあったが、いつの間にかセキュリティー・チェックが無くなっているのだった。ブリュッセルの警備にしても、私が住んでいたEU議会周辺こそ武装兵士による警戒が続いたが、街中の繁華街ではいつの間にか警戒する兵士がいなくなっていくブリュッセルだった。テロ対応の「ゆるさ」は困るが、ほかにも何事につけても感じるこの「ゆるさ」が今は懐かしく、実はこれまで住んだ仏・英・米そして日本に比べてもベルギーが住みやすかった最大の理由かもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?