タイトル未定

※お試しの投稿です。まだ完成していません。

第1章
 彼女は何の変哲もない街角でずっと一人で戦い続けていた。

 僕が彼女と出会ったときの話をするためには少々遠回りをしなければならない。
 違和感はずっとあった。それは中学生のときからかもしれないし、高校生のときからかもしれない。でも、少なくとも僕は中学生のとき、毎日夜遅くまで働く父親の姿を見て、僕は一生アルバイトでいいと思っていた。休みは日曜日だけ。しかもその貴重な休みの日をほとんど寝て過ごし、次の日にはまた出社し、夜遅くに帰ってくる。そんな姿を毎日のように眺めていて、僕はこうはなりたくないとぼんやりと思っていた。そんな安穏な思いを抱えたまま僕は高校生になり、周りに流されるまま、自分の意思を主張しないまま、大学に進学した。
 大学の初日。一般教養の授業が始まるまでの間、大教室の後ろの方で手元のシラバスをぼんやりと眺めていた。「サークル、どこにする?」「うわあ同じだ!私もそこにしようと思ってる!」といった新入生のキラキラした会話に紛れて、春の穏やかな風には似つかわしくないノイズが僕の耳に流れ込んできた。それはおそらく4年生の会話だった。
『とりあえず内定出たよ』
『おおっ良かったじゃん』
『でも、まあこれからだよな』
『そうだな。田中先輩の姿、見ちゃうとな』
『俺も聞いたよ。1年であんなに変わっちゃうもんなんだな』
『先輩も内定出たときはホワイト企業だって喜んでたし、世間一般の評価もそうだったけど、現実は厳しいんだな』
『まあ、あんな企業ばっかじゃないっていうのはわかるけど』
『毎日、終電まで働いて、おまけに休日出勤もしてるって』
『いつ休むんだよって話だな。休職するかもって聞いたけど』
 モラトリアムという言葉はいい加減、死語だろうと思う。でも、その言葉自体は死語になったとしてもモラトリアムが根っこのように大学を地中からがっしりと支えているとそのとき感じた。社会に出るまでの期間を、死刑囚が死刑されるまでの期間と思ってしまうほど僕はネガティブな感覚に囚われていた。授業が始まるまでの間、どうして僕はこうなってしまったのだろう、どこで間違ってしまったのだろうということに思いを馳せてみたもののついに答えは出なかった。
 半年間、大学には通った。授業をぼんやりと受けながら、大学で勉強するということ、大学生活で何をするか、将来何をするかなど色々考えた。考えた末に出た答えは、ただここにいたくないということだけだった。逃げている。ただの逃避だった。モラトリアムのレベルにも達していない。
 両親には辞めるとだけ伝えた。特に反対もされなかった。父親は日本酒をお猪口につぎながらちらっと僕を見ただけだった。母親は「入学金と前期分の授業料もう払ってるんだからちゃんと返しなさいよ」とだけ言った。
 大学を辞めてから一週間、僕は特に何をするでもなく過ごした。だが、そんな生活も一週間で居心地が悪くなった。
 毎朝、リビングのソファーでごろごろしていると、掃除機をかけている母親が「借金はいつ完済されるのやら」と嫌味を言うようになり、挙句の果てにはリビングのテーブルには求人情報誌が置かれていた。もはや母親は嫌味を言うこともなく、無言の圧力をかけてきた。仕方がなく、僕は求人情報誌を片手に家を飛び出した。
 家の近所には子供の時から遊んでいた公園がある。公園の真ん中に大きな時計塔があった。時計塔のそばに3人掛けのベンチがあったので、そこに腰かけた。季節は10月に入っていたが、まだ少し暑さが残っており、背中は少し汗ばんでいた。まだ午前中ということもあり、公園には誰もいなかった。
 求人情報誌をぱらぱらと捲る。世の中には色んな仕事があるんだなあと今更ながら感じた。中でも、居酒屋の求人が非常に多かったが、僕はまだお酒を飲める年齢ではないので、当然働けない。一生アルバイトでもいいなどと考えていたが、そもそも今の僕は選べる立場にはない。母親の「借金はいつ完済されるのやら」という言葉が脳裏に過った。ページを繰ると、気難しそうなおじさんの顔が目に飛び込んできた。家のすぐ近所のコンビニの求人だった。受かる保証もない癖に、よし、ここにしようと思い、後ろポケットからスマートフォンを取り出した。
 一週間が経ち、求人情報誌の気難しそうな表情のおじさんが僕の前でバインダーに挟んだ履歴書に目を落としている。どうやらこの男がこの店の店長らしい。
「大学はなんで辞めたんですか?」目の前の男が初めて発した言葉がこれだった。
「大学では僕のやりたいことが達成できないと思いまして」ほとんど嘘だった。
 目の前の男性はなるほどと言いながら、何やらメモを取っている。
「うちもね……今、人手が少なくて困ってたところなんですよ。どこもそうなんでしょうけど」
「そうなんですか?」
「たった1日で辞めちゃう人もいますからね。それを思えば、半年間、大学通ったのがまだまともに思えるよ」
 この発言はどう好意的に捉えても嫌味だった。目の前の男性の目をじっと見つめると、彼も見つめ返してきた。
「1日で辞められるとこちらとしても困るんでね、頑張ってください」彼はそう言うとまた手元の履歴書に目を落とした。
「もちろんです」この日一番力強い返答だったと思う。
 面接に行ってから、2日後に採用の連絡があった。何が決め手だったのかはよくわからない。面接をしてくれた男性から「明日から来てください」とだけ告げられた。
 週5日の8時から夕方の5時まで働くことになった。アルバイトの初日。始業の30分前にアルバイト先に向かうと、レジには誰もいなかった。レジの前を通りすぎ、店の奥にあるバックヤードの方に向かうと、ドリンクコーナーで大学生風の男がアルコール類の品出しをしていた。僕の姿を認めると、「いらっしゃ」と言いかけたが、すぐに引っ込めた。「もしかして今日から入る新人さん?」と声をかけられた。なぜわかったのだろう。
「あっ、はい。今日からお世話になります佐藤祐介と言います。よろしくお願いします」
「やっぱりそうじゃないかと思いました。田中亮と言います。こちらこそよろしくお願いします」田中と名乗った大学生風の男は立ち上がりながらそう言った。「基本深夜シフトだからあんまり会うことないだろうけどね」と言うと田中は品出しを再開した。 
 「おはようございます」と言ってバックヤードに入ると、店長が着替えを終えて待っていた。
「田中さんには挨拶はしましたか?」面接のときよりも表情は柔らかだった。
「はい、挨拶しました」
「そう……じゃあ始業まで時間がないんで、早速これに着替えてください」
 手渡されたのはコンビニのユニフォームだった。それに手早く着替え終えると店長は話し始めた。
「さっき挨拶した田中さんは8時までなんで、私たちは彼と入れ替わりです。しばらくの間は品出しをお願いすることになります。慣れたら発注もやってもらいます。人も少ないんで、あまり事細かに教える時間もないです。なので、田中さんが上がるまでの間にざっと品出しのやり方を教えます。何か質問ありますか?」
 特に質問などなかったが、何かしらの返答しようとしたときには店長はすでに立ち上がっていた。
「では、行きましょうか」店長はそう告げると、バックヤードを出ていこうとした。
 慌てて僕も店長のあとを追って、バックヤードを飛び出した。ドリンクコーナーには田中の姿はなく、ダンボール箱が放置されていた。いらっしゃいませという田中の快活な声が聞こえたので、どうやらレジ対応をしているようだ。放置されたダンボール箱に目を奪われていると店長の声がした。
「この時間はね…おにぎりとかパン、あと飲み物がよく売れるんですよ。通勤通学の時間だからね。」
「はい」
「あと、ちゃんとメモ取ってくださいね」
「はい」慌ててポケットから昨日買ったメモ帳を取り出す。
「なので、売り場に少なくなってきたら随時品出しして欲しいんですよ。今日は田中君が出してくれてるから今のところ大丈夫そうだけど……」店内を見まわしながら店長は要点だけ伝えていく。
 店長は表情に乏しい。まだ笑顔を一度も見ていない。ときおりお客さんとすれ違うが、そのときはさすがに笑顔を見せている。
「あの……1ついいですか?」
「いいですよ」
「コンビニって24時間開いてるじゃないですか?いつ掃除してるんですか?」
「いつだと思いますか?」
「お客さんの少ないときですか?」
「ほぼ正解です。夜中の特にお客さんが少ないときです」乱れた雑誌コーナーを綺麗に整えながら言った。
 お客さんが多くなってきたようで、入口の方に目をやると次から次へとお客さんが入ってくる。佐藤さんと呼びかけれて慌てて店長の方を振り向くと、店長は雑誌コーナーを指さしている。
「聞いてます?」
「すみません」
「時間見つけて雑誌コーナーも綺麗にしてくださいね。放っておくとぐちゃぐちゃになるんで」店長は少年漫画誌の折れ曲がってしまった表紙を伸ばしながら言った。
「わかりました」
 どうして店長は僕の方を見ないのだろうか。何か気に障ることでも言ってしまっただろうか。そんな僕の不安をよそに店長は時間ですねと言ってさっさとバックヤードに戻ってしまう。
 バックヤードに戻るとちょうど8時だった。
「田中さんとレジ変わりますので、ここにある商品を品出ししてください」店長はバックヤードの隅にある商品を指さした。
「ここから1時間ほどお客さんが多いので、とりあえず商品を出してしまってください。手が空いたらまた聞いてください」
「わかりました。また何かあったらお聞きします」言い終わらないうちに店長はバックヤードから出ていってしまった。それと入れ替わりに田中さんが入ってきた。
「お疲れ様です」背伸びをしながら田中は言った。
「お疲れ様です」
「飲み物が全部出せなくて、まだ売り場にダンボール置いてるあるから、それを先に出してもらっていいですか?」何がそんなに楽しいのか、にこにこしながら田中は言った。
「わかりました」
 この際だから気になることを訊いてみようと思い、バックヤードにあるダンボールを持ちあげる手を止めた。
「あの……店長っていつもあんな感じなんですか?」
「あんな感じって?」田中はすでにユニフォームを脱いで、帰り支度を整えている。
「なんていうか…冷たい感じがしますよね。とっつきにくいというか」
「俺に対してもあんな感じだよ。でも、悪い人じゃないんだよ。誰にとっても分かりやすい優しさではないんだよ」やはり田中は笑顔だ。にこにこしている。
「じゃ、お疲れ様」と何が入っているのか分からないほど膨らんだかばんを肩に担いでバックヤードを出て行った。お疲れ様でしたと返す間もないほど、颯爽としていた。
 バックヤードを出ると、店長のいらっしゃいませという言葉が店内に響いた。僕もつられて、いらっしゃいませとできるかぎり大きな声で叫んだ。
 ドリンクコーナーには確かに田中が言ったようにダンボールが置いたままになっていた。ダンボール箱には大量の清涼飲料水が詰め込まれていて、売り場に目をやると、その商品はほとんど置かれていなかった。不足を補うことはものの10分で終わってしまった。その間にもひっきりなしにお客さんは現れ、補ったものが欠けていく。
 バックヤードに戻り、店長に出しておいてと言われた大量のダンボールを眺める。どれから出そうか。とりあえず手近にあったお菓子類を品出しすることにした。
 お菓子が置いているコーナーに行くと、スーツを着たサラリーマンでレジが混雑していた。ダンボールを床に置き、目線を上げると、レジにいる店長と目が合った。店長の目が何かを訴えかけているような気がしたが、勘違いだと思い直し、気にしないことにした。屈んでダンボール箱を開けようとしたとき、佐藤さんと僕を呼ぶ声がした。レジの方を窺うと店長が手招きしているので、向かうと店長は右の方をじっと見ている。店長の視線の先にはおばあさんがいた。ちょっと行ってあげてとだけ言うと店長はまた次のお客さんのレジ接客に戻ってしまった。おいおい、ちょっと行ってあげてってどうすればいいんだよ。
 レジ前にはお客さんが列をなしているので、店の奥を大回りして入り口付近にいるおばあさんに近づいたときに店長の意図を察した。おばあさんはコピー機の前にいた。コピー機の操作の仕方がわからないのかもしれない。それにしてもどうして店長はあれだけお客さんがいっぱいいるのにそれがわかったのだろう。
「いらっしゃいませ」勇気を振り絞って声をかけた。
「あっちょうど良かった。コピーの仕方がわからなくて。店員さん、忙しそうだし」おばあさんはほっとした表情を見せた。
 おばあさんは「これをコピーしたくて」と原稿を押さえる大きな蓋を押し上げた。健康保険証のようだが、明らかに置く場所を間違えていた。
「これ、置く場所はこちらですね」健康保険証の位置を直しながら言った。
「ああほんとに。ありがとうございます。これでうまくいくかしら」
「この後の操作の仕方はわかりますか?」操作盤に目をやると、どうやらお金は入れてあるようだ。
「教えていただいてもいいですか?」おばあさんは申し訳なさそうだった
 構いませんよと言いながらも、そういやコンビニでコピーなんてしたのはいつぶりだろうかと思った。
「ご丁寧にありがとうございました」
「いえ、とんでもないです。仕事なんで」
 今日はたまたま夕方の5時まで僕と店長の2人だけだったため、店長はひたすらレジをを、僕はひたすら品出しを行った。コンビニはお昼休みの時間までに大量の商品が入荷される。入荷された商品の品出しを一人でやったため、仕事が終わる頃にはぐったりと疲れてしまった。
 帰るとき、店長とたまたま一緒になった。店長は店の前に停めてあるぼろぼろの自転車の鍵を開けるところだった。よく見ると、自転車のかごにはたばこの空き箱や空き缶がいくつか入っていた。悪戯で入れられたのであれば、捨てればいいのにどうして捨てないのだろう。
「そんなにじろじろ見られると恥ずかしいよ」
「あっすみません」僕の目線に気づいたようだ。
「じゃ、お疲れ様」
「あの…」
「何?」店長はペダルを漕ぐ足をとめて、僕の方を振り向いた。何の表情も読み取れなかった。
「今日の午前中なんですけど、おばあさんがコピー機の前で困ってるのになんで気づいたんですか?お客さん、いっぱいいたのに…」
「ああ、あれか」店長はなんとでもないよといった調子でつぶやいた。
「あのお客さん、いつもコピー機の使い方を訊いてくるから、後ろ姿でわかったの。ただそれだけ」
「えっ」言葉にもならない言葉しか出なかった。 
 じゃっと言って店長はぎいぎいと呻ぎ声をあげる自転車とともに曲がり角へと消えていった。僕は密かに店長のあの何気ない気遣いに感動していたのに拍子抜けしてしまった。
 拍子抜けしたまま僕は家に帰り着き、拍子抜けしたまま夜ご飯を食べ、その日はぐっすり寝てしまった。
 早起きすることには昔から何の苦痛もなかった。なぜなら僕は小学生のときから毎日6時には起きていた。することと言えば、ゲーム以外にないのだけれど。というよりもむしろそのために起きていた。だから、コンビニで働くようになってから必然的に朝早く起きなければならなくなったが、苦痛もなかった。
 僕が働いているコンビニまでは歩いて10分ほどだったので、毎日7時40分頃には家を出ていた。10月も半ばになってくるとさすがに朝方は肌寒い。こんな時間にも関わらずサラリーマン風の男性たち数人とすれ違った。僕の住む住宅街から大通りに出て数分の地下鉄の駅に向かっているのだろう。
 僕は住宅街をスマートフォンに目を落としながら、とぼとぼと歩く。次の曲がり角を曲がって少し歩くと大通りに出る。大通りの信号を渡ってまた少し行くと、僕の働くコンビニだった。
 僕は完全にスマートフォンに視界を奪われていた。歩きながらでもスマートフォンを見なければならないほどの重要な情報なんてそこにはなかった。むしろスマートフォンを見ていたからこそ危険は近くまでやって来ていた。曲がり角を曲がろうとしたとき、突然、何かにぶつかった、気がした。とにもかくにも何が起こったのか瞬時にわからなかった。ふと我に返ると、目の前で女の子が尻もちをついていた。どうやら曲がり角で走ってきた女の子とぶつかってしまったらしい。僕のスマートフォンは地面で無残な姿になり下がっていた。
 声をかけようとしたとき、彼女は僕の方をきっと睨み、かばんを引っ掴んで走り去って行った。
 
 それが僕と藤原莉彩との出会いだった。

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