推しが消えた日

知り合いのY氏からメールが届いた。
「今日はマルセさんの命日です」と。
それでいろいろ思い出したので書いてみる。


20世紀最後の日に祖父が亡くなった。
その知らせが届いた時、私はサンリオピューロランドにいた。大晦日で、ミレニアムな年越しのカウントダウンイベントが始まるのを今か今かと待ちわびていて非常に浮かれていた。
そんな時にかかってきた一本の電話。入院していた祖父が亡くなったというものだった。親戚一同が祖父の家に集まるから今すぐ来てくれと言われた。
正直、“なんでこのタイミング!?”と思った。カウントダウンで年越ししてからでいいじゃないかと。
イベントが終わってから向かうと言ったら、電話の向こうの家族に怒られた。
泣きながらピューロランドを後にした。

そこからは怒濤のように過ぎていった。
祖父が亡くなったことは悲しかったが、長い間入院していたし92歳の大往生だったので、それなりに納得もしていた。
年明けて新年早々にお葬式が行われた。ゆっくりお正月を味わうこともなく慌ただしく過ぎていった。
今、振り返るとそれで気が抜けてしまったのだと思う。

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芸人のマルセ太郎さんに出会ったのはこれよりも数年前のこと。
舞台の脚本や演出を手がけているY氏が関わっている舞台を見に行ったら、それがマルセさんの一人語り芸だったのだ。
当時マルセさんは60歳を越えていたが、テレビで見ることはほとんどない、いわゆる“売れてない芸人”だった。
だけど、初めて目にするその芸に魅了された。
猿や鳥の動きを真似したユーモラスな『形態模写』
「息子」や「泥の河」等の映画をまるまる一本一人で二時間近くかけて語る『スクリーンのない映画館』
古い昭和の匂いがする、ステージに夢中になっていった。
『スクリーンのない映画館』の中では黒澤明監督の「生きる」が特に好きだった。物語のラスト、箱馬(四角い箱)に腰かけたマルセさんがパントマイムでブランコの鎖を握って「命短し恋せよ乙女~」と「ゴンドラの唄」を口ずみながら体を揺すると、それだけで見えないはずのブランコが見え、マルセさんがブランコに揺られている姿がありありと浮かんできて鳥肌が立つほどだった。
そしてそれは、ガンを患っているこの映画の主人公と、ご自身もガンに侵されているマルセさんの姿をダブらせており、哀しくも美しいシーンとなっていた。

マルセさんは、ガンを公表しており、お客さんの前でも告知された時のことなどをユーモアたっぷりに語っては笑いを取っていた。
「マルセさんの芸は、今のうちにたくさん見ておくんだよ」
マルセさんを知るきっかけとなったY氏はよくそう言っていた。マルセさんのガンは末期なので、いつ亡くなってもおかしくないから、と。
ただ、マルセさんはいつ見てもお元気で、私はそれを実感として受け止めていなかったように思う。

20世紀が終わる頃、マルセさんは月イチでステージに立っていた。両国のシアターX(カイ)という劇場で月に一度その芸を披露し、それを私は毎月楽しみに通っていた。
マルセさんの21世紀最初のステージは、三ケ日が明けた頃から三日間行われたように記憶している。
その頃の私は祖父のお葬式も終わり、予定はあいていた。行けたはずだったのだ。
ただ、慌ただしかった年明けに疲れてしまい、マルセさんの舞台は毎月やっているから“来月でいいや”と思い行かなかったのだ。

そして、1月22日。訃報が届いた。
マルセ太郎さんが亡くなったと。
無茶苦茶後悔した。
なぜあの時行かなかったのか。マルセさんの病気の事を知りながら、なぜ“来月でいいや”と思えたのか。
なぜ、なぜ、なぜ、と繰り返しても時間は戻るはずもなく。

あれから20年以上がたつ。当時の悔しさを思い出すと今でも涙が出る。

“推しは推せる時に推せ”
この言葉をこれほどまでに身をもって経験している人間は私以外にいないだろう。
(などと、大きなことをいっておく。笑)

みんな!
“推しは推せる時に推せ”
だよ☆☆

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