平賀源内と日本100名城 島原城
島原城
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島原城
(長崎県)
別名森岳城、高来城城郭構造連郭式平城天守構造独立式層塔型4重5階(1626年築 非現存)
独立式層塔型5重5階(1964年RC造復興)築城主松倉重政築城年寛永元年(1624年)主な城主松倉氏、松平(深溝)氏廃城年明治3年(1871年)遺構石垣、堀指定文化財長崎県指定史跡再建造物天守・丑寅櫓・巽櫓・西櫓(外観復元)位置
北緯32度47分21.18秒 東経130度22分2.15秒座標:
島原城
島原城(しまばらじょう)は、長崎県島原市城内にあった日本の城。別名は「森岳城」や「高来城」。城跡は長崎県指定史跡に指定されている。
概要[編集]
有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴である。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に袋の鼠状態になり、しかも廊下橋は防備上、矢玉が当たりにくくなるので、縄張の欠陥とも言える。同じ事例に、高松城の天守曲輪(本丸)がある。また、天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」のようになっていた。
江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた。火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、続く松倉勝家の代に領民の一揆を引き起こす一因となった。
明治以降は廃城処分となり建物などは撤去され、現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっている。
石垣と堀は江戸時代から残っている。堀では1950年代まで農家が栽培していたレンコンが根付いており、秋にレンコン掘り大会が開かれる[1]。
歴史・沿革[編集]
江戸時代[編集]
1616年(元和2年) - 有馬直純が日向国延岡藩に転封になり、代わって松倉重政が有馬氏の居城であった日野江城に入城する。
元和4年(1618年) - 日野江城は手狭であったので島原城の築城を開始する。
1637年~1638年(寛永14年~15年) - 初代重政、2代勝家の圧政により島原の乱が起こる。勝家は領内を騒乱に導いた責により斬首。松倉氏は改易となる。
近現代[編集]
1876年(明治9年) - 天守以下建造物が破却される。本丸は畑地となり、三の丸には島原中学(現・島原高校)など学校が建ち並んだ。
1980年(昭和55年) - 丑寅櫓、長塀復元。
2021年(令和3年)3月 - 『長崎県指定史跡島原城跡保存活用計画』を策定
遺構[編集]
建物[編集]
城内に再移築された建造物として、御馬見所(おんうまみしょ)がある。また、搦手門であった諫早門の門扉が城内の民具資料館丑寅櫓の中で展示されている。この他、雲仙市小浜町の歴史資料館に二の丸御門が、市内本光寺町の本光寺常盤歴史資料館に三の丸にあった御茶屋常磐御殿が、それぞれ移築され現存する。
天守。2017年1月
秋晴れと天守。2004年9月
雲仙方面を臨む。2017年1月
天守より西・雲仙方面を臨む。2014年3月
天守より東南・天草方面を臨む。2014年3月
天守より東・熊本方面を臨む。2014年3月
本丸・二の丸にある施設[編集]
西望記念館(巽の櫓)
民具資料館(丑寅の櫓)
観光復興記念館
御馬見所
島原文化会館
イベント[編集]
交通アクセス[編集]
周辺[編集]
脚注[編集]
[脚注の使い方]
^ 【あんぐる】島原城秋のレンコン掘り大会(長崎県島原市)『日本農業新聞』2019年11月18日(6面)同日閲覧
^ “「島原城跡を県文化財に指定 築城技術に評価」”. 西日本新聞. (2016年2月19日). オリジナルの2016年2月19日時点におけるアーカイブ。 2022年3月13日閲覧。
参考文献[編集]
西ヶ谷恭弘 編 『定本 日本城郭事典』秋田書店、2000年、424-426頁。ISBN 4-253-00375-3。
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、島原城に関連するカテゴリがあります。
外部リンク[編集]
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