チェリまほはすごい話

待ちに待った2022年の春が来た。
楽しみに待ち続けた映画を観て、きもちを抱え切れなくなったので、文字で書き残してみることにした。

※以下、少しだけ映画のネタバレを含みます


***


春といえば、別れと出会いの季節だ。
生きていく中で、なにかしらの分岐点となる大切な出会いはいくつもあると思う。

人との出会い、物との出会い、環境との出会い、価値観との出会い……

対象が実体を持っていることもあれば、実体のないものだってある。
それは目に見えなくても抱きしめたくなるほど愛おしく感じられるものだったり、目の前に存在しているのに決して触れられないものだったりもする。

いつどこで何に出会うかなんて、だれにもわからない。
だから、何気なく過ごしている毎日のなかで、何か心を大きく動かされるものに出会えた時の喜びは、いつもうまく言葉で表すことができない。



去年の3月、私はドラマチェリまほというコンテンツに出会った。



すごくどうでもいい個人的な話だけれど、私は連続ドラマが好きで、毎シーズンとりあえずひととおり録画して見るドラマを決めるタイプの人間だ。
番組表を見ていて、地方局の深夜帯にチェリまほのタイトルを見つけたのは、本当にたまたまだった。

そういえば、SNSで漫画が流れてきたときに読んで、好きだと思って、その時更新されていた話を全部読んだことがあったな。
ドラマ化するんだ。知らなかった。
俳優さんも知らない名前ばかりだけど、見てみるか。
そう思ってとりあえず録画して、その後しばらく録画リストに放置していたくらい、本当に片手間で録画した。
東京ではすでに年末に全話放送が終わっていて、ファンがすごく増えたから地方局で見られるようになったことなんて、露ほども知らずに。

それが今では一番長く録画リストに全話居座っているのだから、不思議な話だと思う。
そして今後このレコーダーが壊れるその日まで、消えることはない。

冬のドラマが終わって、春のドラマが始まる前にレコーダーを整理しようと思って、1話を見た。
体温が少し上がるのが分かった。
ここしばらく激しく熱中するものがなくわりと落ち着いていたオタクの血が騒ぐのが分かった。

久しぶりの感覚だった。

2話を見て、終盤に放り込まれたあまりに純粋な切なさに、冗談でなく鳥肌が立って、血が沸き立って号泣した。
撮りためていた分を一気に見て、未放送分は配信サイトで最後まで見た。
1話を見てからたった5日目のことだった。

見終わったらどうにも自分では抱えきれないほどの莫大な感情がそこに生まれていて、とにかくずっとしんどかった。
よく日常生活を送れたと思う。行き過ぎた萌えはマジでひとを殺す。

このやばいものを、まだ知らない人たちにどうにか見てもらって、私を助けてほしいと本気で思っていた。
何で救われると思ったのか、今でも分からないけれど。
何度も何度も全話を繰り返し再生しながら、今まで色々な好きを共有してきた友人たちに手あたり次第勧めていたら、1人と言わず好きになってくれた。
同じ熱量でハマってくれた人もいて、それでもずっとしんどかった。やっぱり救われてないじゃん…

それくらい、このドラマには私の大好きがあまりにたくさん詰まっていて、体も心も頭もずっと混乱していたんだと思う。

今までにも鳥肌が立つくらい熱中したものはあったけれど、1年間全く同じものを繰り返し見続けても少しも飽きなくて、新鮮に毎回同じ場面で心を動かし、同じ場面で萌えたり泣いたり笑ったりしているなんてことは、人生で初めてだ。
漫画でも、アニメでも、ドラマでも、映画でも、多くても3回見れば熱はおさまって、あれ、あの時はなんであんなに狂ったように熱中していたんだろうなんて思うのが常だったのに。

ドラマにはまってから原作も全部読んだ。原作も大好きになった。
ドラマと原作は確かに別物だったのに、それでも同じ名前のどちらのキャラも確かにその人物であることに間違いなくて、どちらも変わらず大好きだった。この感覚も、新鮮だった。
実写化とは必ずしも原作に忠実であることがすべてではなく、根幹にある大事な部分が通じていれば、違和感なく立派に同じタイトルを語れることも、私はこの作品で初めて思い知った。


出会ってから、学ぶこと、気づくことの連続である。


生身の人間が演じるドラマという形の作品を深く知ることで、今まで趣味として、ひとつのエンタテインメントとして楽しんでいた"色々な形の好き"について、自然とフィクションの世界からはみ出して考えるようになっていた気がする。

そんなこんなでチェリまほが私の日常に当たり前に組み込まれたまま迎えた去年11月、突然公式が動き出した。
映画化の発表。擦り切れるほど見て反芻したドラマの2人の見たことない映像が、おそらく1時間以上の長さで大きなスクリーンで見られる。
ただただ嬉しくて、公開日がすごくすごく待ち遠しかった。
ダイジェストに少し新規撮り下ろしが入っただけでも十分楽しめる自信があった。だって、ドラマももう何回見たかわからないのに、まだまだ楽しめていたから。

追加キャストが出て、ダイジェストじゃないと知って崩れ落ち、予告が出て海を見て死に、もう年明けからずっと情緒はおかしかったけれど、ずっと楽しかった。本当に楽しかった。

全部は無理だったけれど、主演2人や監督やプロデューサーのインタビューが載る雑誌もいくつか読んだ。
たくさんの記事を浴びる中でずっと感じ取って受け取って、心に染みていったのは、作品に関わった人たちのただただ優しくて、あまりに大きな愛情だった。

漫画の実写化はともすれば、原作を愛する人から批判を受けることもある印象が強い。
私が目にしていないだけかもしれないけれど、この作品に関してその意見を見たことがない。というか、どちらかを好きになって、もう一方も好きになる人が圧倒的に多かったように思う。
原作者の先生が誰よりも一番ドラマ化を喜んでいたことも大きいと思う。
そして、主演2人の芝居があまりに役そのものであり、かなり深いところまで理解し、相手の役も深いところまで探ってくれていたこともすごく大きいと思う。この恋がマイノリティだという発言を少なくとも私は彼らから聞いたことがない。

作品のことはもちろん好きだけれど、私はなによりも、作品を心から愛してくれているこの作品のスタッフさんとキャスト陣が大好きだ。
愛がぶわぶわと温度になって、温度なんて実体を持たないはずなのに、映像から確実に滲みだしているのが見える。

そして、そうやって丁寧にフィクションを作りながらも、キャラクターたちの生きる世界を考えるときに、現実世界のことを忘れないこの人たちのことを考えると、胸がぎゅっとなる。
あえて変えた藤崎さんのキャラ設定については、今の日本においてはマイノリティと呼ばざるを得ない愛を描いたこの作品に彼女が自然と溶け込むことで、きっと救われた人だっていたはずだとすら思う。
コメディだけど決して茶化さない。皆真剣で、まっすぐで、純粋で、酷く優しくて、誰もが誰かに救われて、傷つかない。
何かに対してこうあるべきだ!なんて決まりはひとつもないんだって、押しつけがましくなく皆が気づくきっかけをそっと目の前に置いてくれるみたいな、その優しさが私にはどうにも堪らない。


チェリまほはいつだって私にきっかけをくれる。


楽しみ過ぎて緊張しすぎながら公開日に1度目を見たら、約100分にいろんなものがぎゅっと詰め込まれ過ぎていて、終わったあと体と頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
萌えも幸せもはち切れんばかりにあった。でも、切なさも苦しさも、それから、ドラマよりももっとリアルが溶け込んでいて、茫然としてしまった。
原作を読んで、ある程度展開はわかっていたはずなのに。
映画にも私の好きがあまりにたくさん詰まっていて、さらに一度では掴み切れないものまでぎゅうぎゅうに押し込められていて、私の体も心も頭も、再びめちゃくちゃになって、なんならドラマよりさらに混乱してしまったんだと思う。

チェリまほの魅力の一つは”余白”であると私は思っている。

例えば、あえて言わないセリフだったり、表情だけで気持ちを察したり、距離やしぐさやその他諸々、気づいた人だけ受け取ることができればいいんだと言わんばかりにちりばめられている。
映像から伏線を探したり、いろんなことを考察したりするのが大好きな私は、それがすごく楽しい。
そういう、かっちり固めていない余白を想像することが、この映画ではより多く求められていたように思う。

今彼らがおかれている世界はどんな世界なんだろうか。
ハッピーエンド、でいいんだろうか。
彼らのこの先の幸せな未来を確信していいんだろうか。
数回見てそう考えていた時に、はっとした。
ちがう。
”信じていいのか”なんて他人事じゃなくて、そう確信できるように、目の前に本当にある現実を、今こうして作品を通して何かを感じた私が、変えていかなきゃいけないんじゃないか。


チェリまほはすごい。


せっかく映画になったからと、ただ幸せな2人を描いて、観た人が笑って萌えて、めでたしめでたしって思えるものを作ることだってできたはずなのだ。
その方が、もしかしたら万人受けして話題になったかもしれない。
でも、そうしない。
原作から重要な話を丁寧に抜き取って、1本の映画としてもしっかり楽しめるものでありながら、
観た人に何かを考える"きっかけ"を与えてくれる映画にしてくれた。

決して意見を押し付けたり強く主張するわけではないけれど、そういえば、こういうどうにもならないことがあるんだよねなんて、軽い世間話みたいな感じで語りかけられた気がした。

自分がまだ同性愛というものを、心の底からノーマルだと認識できていないことを、恥ずかしながらやっと自覚した。
それは長年エンターテインメントの一部として楽しんできてしまったからで、自分でも気づかないうちにずっとどこか他人事だったからだ。
嫌悪しないことと、変に意識せず世の中になじんでいるのとは全くの別物だ。


人が生きていく中で大切なことを考える"きっかけ"を、また、チェリまほがくれた。



だから今はラストシーンを見ながら毎度願ってしまう。
この2人がいつまでもこうやって肩を寄せ合って歩いていけますように。
何にも傷つくことなく、幸せを感じられますように。
そして、私もそんな社会がある未来の一員でいたいし、そんな未来にはきっとどこかで2人も笑顔で生きているはず。

そんなことを考えながら、でもやっぱり、黒沢と安達にただ会いたくて、
公開されている間は多分この先何度も劇場に足を運ぶと思う。

主題歌を何度も聞いて涙を流すと思う。

だって、とにもかくにも、チェリまほは私にとって最高のエンターテインメントだから。
それで、思いっきり楽しんだあとで、それをちょっぴり現実に対する考え方にも落とし込めたらめちゃくちゃいいんだと思う。

そうやって難しく考えすぎず、でも知らんぷりは決してしないみたいな、そんな生き方なら私にもできるような気がする。

チェリまほみたいに優しくてあったかくて、誰かに寄り添えて、誰かの力になれたら、最高だな。すぐでなくてもいいから、私もいつかそうなりたい。

ちっぽけな私にも、そんな大層なことを考えられる思考という名の宝物をくれたんだから、


だからやっぱりチェリまほはすごいのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?