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体癖論を学ぶ前に知っておくべき類型学の基礎と百田尚樹について

どうも百田尚樹の鉄砲玉カルトどす。

最近、ノートの記事を観てみると元精神科医の名越さんの体癖論に関する記事が多くあることが分かった。

しかし、そもそも心理学における類型学の基礎理解がないまま体癖論やMBTIの類いが心理療法に使えるといったいささか問題のある論考が散見されたので、学問的な基礎常識をここでは紹介する。

レベルをぐっと下げて解説するので安心して欲しい。

まずは心理学(人文領域、本質領域)と自然科学(脳科学含む)との違いから確認しよう。
両者の違いはそのまま精神医学と身体医学の差異と考えてもらってかまわない。

さて自然科学のテキストではニュートン力学、万有引力の法則があるが、これらテキストではコンテキスト(文脈)とテキスト(書かれた文字、シニフィアン)とが一致していると分かる。あるいはコンテキストはない。
つまりそこでのテキストの意味は客観的、一義的に規定できて曖昧さはない。これにより自然科学の理論は客観的普遍性を確立する。

したがってニュートンが殺人マシーンだったり百田尚樹のヘンズリサイボーグであっても、そのテキスト(ニュートン力学)とは関係がない。
つまり書き手であるニュートンの主観、主体はニュートンのテキストから排除されている。
これを精神分析では自然科学は〈大文字の物〉を排除しているという。

つぎに心理学のテキストを考えよう。するとアドラーでもフロイトでもユングでも、そのテキストを一義的、客観的に読解することが不可能だと即座に解るだろう。

書かれた意味には曖昧さが残り自然科学のテキストのようには読めない。
現代言語分析哲学の挫折もここにある。

テキストはそのテキストの意味を規定するテキストの外部(書き手の意図、主体)、すなわちコンテキスト(主体、欲望)の参照なしには確定しない。

ウィトゲンシュタインが語の意味とはその使用であるといったのもこのことを示している。

コンテキストは行間に相当するものでテキストからは決定的に欠落した一つの空隙である。
この空隙が翻ってテキストの連鎖を構成し体系的な文章の連接を実現する。

つまりテキストのもつ意味の欠落(曖昧さ)、空隙に書き手の主体(意図)が埋め込まれているわけだ。

したがって人文領域のテキスト読解においては、テキストの背後にある書き手=他者の欲望(文章意図)を欲望することが求められる。

ところでコンテキスト、すなわち主体とはなんであろうか?
もちろん心である。つまり心理学の対象。
したがって心理学とは心が心を対象とする自己言及をベースとする。

身体医学や自然科学が脱主体化された客体を対象とするのとは違うのである。ここに両者のテキストの差異の理由もある。

さて以上から次のことが帰結する。まず身体医学では整形外科医は自分が整形手術を受ける必要はないが、深層心理学ではセラピストも教育分析を受けねばならないということ。

つぎに深層心理学のテキストは、その本体をテキストでなくコンテキストに持つということ。
これはフロイト派の本義はフロイトのテキストにはなくコンテキストにあることを意味する。
それゆえコンテキストの読みに対応して派閥が増えることもある。

したがって深層心理学では折衷派は原則としてほぼない。フロイト派がユング派のテキストを参照したとしてもそれはフロイト派のコンテクストにおいてユングのテキストを解釈しているのであって、折衷しているのではない。

もし一つの重心を定めず複数の派のコンテクスト(パースペクティブ)をもっているセラピストがいれば、それは乖離性障害にも等しい状態であり、治療の妨げとなることも考えられる。

したがって深層心理学の理論は一つの主観であり世界をかくあらしめるところの主体なのであって客観的な治療分析のツールではない。

またコンテキストを代理表象するところのテキストはつど否定的に吟味され刷新されることになる。
このテキストの否定を介したコンテクストへの接近を弁証法と呼ぶ。これはユング派のヘーゲル弁証法にもラカン派の欲望の弁証法にも当てはまる。

深層心理学とは患者の自己理解を否定して、患者の無意識の主体を代表する症状を解釈することで患者の主体そのものを刷新、再解釈する営みであった。

これをフロイトは自我とはエス(無意識の主体)のあった所にあらねばならぬ、と言ったことはあまりに有名だろう。
ようするに人は無意識の主体に知を想定して、その知を分析解釈に頼って言語化し己の実存(目的)としてそれを引き受けるのが精神分析の本質というわけだ。

このことから深層心理学理論におけるコンテキスト(症状、欲望)とテキスト(言語による自己理解)の弁証法的運動が、分析治療と類同性があると解るだろう。理論そのものが主体とはこの意味においてである。このようなテキスト構造は自然科学ではありえない。

このような自己関係における弁証法構造をもった主体を深層心理学では近代主体(神経症)と呼ぶ。神経症が近代以前には存在しなかったのは、素朴に神話的(イマジネール)な世界に安住する主体構造には、このような弁証法的自己同一(矛盾的同一)が存在しないためである。

よく心と脳を混同して脳を科学的に分析すれば神経症でも精神病でもそのメカニズム、病因を明らかにできると勘違いをするバカが多いが、それは原理的にありえない。

心と脳は存在論的にカテゴリーが違うので脳をいくら物理学的に解析しても意識には到達しないからだ。つまり質量は測定できても重さ(クオリア)はいかなる物理的測定器によっても一義的には測定しえない。なので物質と意識との対応を客観的に記述することは原理的に不可能である。そもそも主体は空間的にある物質対象ではない。主体とは対象をかくあらしめるものである。

ところで脳(臓器)と心、この両者の混交こそが両者の分離を支える欲望を構成するところの幻想に起因するのであるが、それはラカン派の小難しい理屈になるので割愛しよう。

とりあえず、深層心理学の最低限の基礎常識を圧縮して解説したので本題にうつろう。本来は、このくらいは名越さんが弟子にしっかり解説してないといけないのだが、、、はっきりいうとここを理解してないと社会が良くないことになる。

では本題の心理学的類型学にうつろう。
まず類型学とは普遍的型に個々人の特殊単独的性格を分類することでなりたつ。

このとき分類は客観的(普遍的)ではありえない。すでに解説した通り心を分類する視点そのものが心であり主観だからだ。自然科学のように分類者の主観を分類から排除することはできないということ。

したがって類型学を実践しこれを自己理解の助けとしたり、あるいは世の中の人のために役立てようというのであれば、その類型学のパースペクティブを理解する必要がある。

さもなくば、そのように類型化するところの類型学(体癖論やタイプ論など)は客観化をきたす。
それは類型の絶対化、論理の教条主義化、個々人の主体の殺害に直結する。想像的な競合関係に陥るといってもよい。

人間の自己存在の変容可能性に寄与すべき心理学の論理がかえって人間を画一的なフレーム(類型)に閉じ込めてしまってはならないだろう。

さて心(性格)とは客体ではなく差異の体系であり関係である。たとえば寿司を食べて旨い!という。このとき旨いのは寿司か、私の主観かというのが問題となる。

旨いというのは、寿司の客観的性質ではない。寿司が嫌いな人には不味いからだ。さりとて主観(空想)でもない。外的な寿司なしに旨いとは言えないからだ。

つまり、寿司の性格(心)である旨いとは寿司と私との間柄の表現であり両者の関係に他ならない。

したがって類型学が類型化しているのは、分析対象ではなく分析対象と分析主体との間柄(相対的関係)である。

人間の性格には本来は区別はない。
理論(主観)によって勝手に性格に線引きをして区分けしてるだけである。

だから類型を客体化してしまうと自己存在を固定してしまう恐れがある。類型学を実践するなら必ずこのことを理解してないとおかしなことになる。

あいつはサイコパスだ!とか一方的に他人を鑑別して悪に同定し、心としての性格を実体化(脳などの物質化)してしまうことにもなる。

そうではない。私にとって彼はサイコパスのようだ!と言わねばならない。
この問題は政治における敵イメージの投影にもみられる。

右翼が左翼をパヨクと呼び、左翼が右翼をネトウヨと嘲笑う。このような不毛な政治分断の元凶こそが心と客体との混同、性格の客体化(類型化)にほかならない。

今日におけるHSPを筆頭としたスタティックでイマジネールな類型学の美蔓と政治的分断とは決して無関係ではない!

ユングのタイプ論の眼目もここにある。たとえばユングは直観型の人がタイプ論を使うのと感覚型が使うのとで類型化の記述がどのように変わるかにまで言及している。

つまりタイプ論はそれが普遍的類型を装いつつ客観ではなく主観であることが織り込まれているわけだ。
また細かい解説はしないがユングは後期ラカンと近いため鑑別診断を好まない。診断とは強迫神経症である!というようにクライエントの特殊単独的な絶対的固有性を捨象し、型にはめてしまうからユングは嫌ったのである。

これは70年代ラカンが脱エディプス(父の名の排除の一般化)を経てポスト鑑別診断へと移行し分析を脱言語化、脱意味化していったこととシンクロする。

類型学は普遍のディスクールであり、うかつに手を出すと非常に危険だといってもいい。少なくともラカンやユングはそのことをよく理解していた。

やっと類型学の基礎を無理やり圧縮して解説しおえたので、やっとこさ体癖論についてその特徴を確認してみよう。

最初に断っておくと僕は体癖論には詳しくない。
ただ体癖論は名越さんの動画で断片的に知っている程度である。

しかしその特徴を捉えるのに詳しくある必要はない。

重要なのは腸などの臓器や所作、骨格などの物理的要素と性格傾向とを対応させた類型学だということだけだからだ。
そこでどのような解釈を展開しているかは問題にならない。

すでに示したが心と身体(臓器)とではハイデガー的な意味での存在論的なカテゴリーが異なる。

したがって両者を結びつける論理は必ず物語に頼るほかない。
フロイトのエディプスコンプレックス、とりわけトーテムとタブーの説がフロイトによる神話と呼ばれるように、両者をつなぐ理はブラックボックス(差異)を空想イメージで埋める作業を免れない。

あくまで想像的な解釈だということ。
そのようなイメージはイメージであって実体ではない。これを実体化するとネトウヨとかパヨクというイメージを客体化して自己存在(においてある相手を敵として)固定し不毛な独断論的分断主義に陥るだろう。

イメージと実体との差異をユング派では心理学的差異と呼ぶ。この差異を混交することでイメージが実体化して分断が起きるのであった。

性格類型とはイメージに過ぎない、これを実体化するなということ。そして実体化しないためには類型学それ自体がどのようなパースペクティブであるかを考え理解しろということ。

だからこの記事がやっているのはメタ体癖論になる。つまり類型学の類型化。

まとめよう。
体癖論は心と身体をつなぎ、身体(臓器、歩き方など)によって心を分類し説明する。
このようなパースペクティブは脳科学と一致する。

つまり物質(原因)→性格(結果)の説話をとる。

他方、体癖論がもつ臓器=心という見立ては、ガルの骨相学のパラダイムと一致する。つまり深層心理学が近代に達成した身体医学と精神医学の分離、心理学的差異の確立よりも古い、プレモダンのパラダイムとして理解できる。

むしろこちらの見立てが優位だろう。

つまり神話(イメージ)はかつて客観的出来事(実体)とは区別されていなかった。

そして体癖論はその論理をイメージに頼り、これを実体化している側面がある。

名越さんを信奉する占い師のかたで、名越さんが相手の性格を当てるのが凄いということをブログで書いている人がいるが、このようなところに体癖論ないしは名越さんのイマジネールなパースペクティブがよく出ているように思う。

というのも性格には実体はない、客体的な像を持っていない。だからそもそも性格は当てるものではない。
性格を当てるというのは占い(プレモダン)の認識水準でしかいえない。
性格に客体的な像としての本体を想定し、名越さんの理論がこの本体に到達した、というのは認識論的に問題がある。性格に本体はない。

つまりイメージと客体の混交なしに、この占い師がいう意味での性格を当てるとかいう表現は出てこない。
そもそも心理学は手品ではないので性格を当てたりしない。

つど類型は主体的に構成されるものであり他者や世界の類型化によって主体は影響を受ける。
世界の類型化はこの意味でたゆまなき自己言及といえる。

すると類型化では、フィードバックが問題となる。じつはここに心理学のみならず人文学の特徴がある。
たとえば社会とは~の構造により規定され、人間の主体もその構造によって規定されているにすぎない!というレヴィストロース流の構造主義的パースペクティブは、そのパースペクティブに信をおく者と社会との関わりに作用する。

主体を社会から弾き出す社会理論は人間主体による社会への能動性を奪うのはいうまでもない。そしてこのような態度変更が社会のあり方(構造)へと回帰してゆく。

自然科学がリンゴの自由落下をいかに記述しようがリンゴの落下にはなんら影響しないが、心や社会といった人文的対象を記述(類型化)するとその記述が心や社会へ回帰して変えてしまうわけだ。

ここに人文学、類型学の本質がある。
よくこのことを理解しないで安直に~はサイコパス!とかHSP!だとか体癖論!タイプ論!とか言ってると、社会がどんどんバカになるということ。
とりわけHSPがその性格特性の説明に遺伝子を持ち出すのは、あまりに似非科学的、脳科学的な誤謬である。心は臓器や脳といった物質によってあり、その影響を受けるのは事実である。

しかし両者をつなぐメカニズムは存在論的差異によって根源的に欠落しており、両者の接続はイメージ物語に頼るほかない。そのイメージを客体化するな、ということ。

類型学には毒がある。言語的規範を無視したむき出しの現実としてある個々人は、すべて特殊単独的であって類型イメージに同定することはできない。
あくまでも主体的な解釈によって相対的に類型が構成されるに過ぎず。
また体癖論はイマジネール(神話的)な理論によって構成されているということ。

体癖論を悪いと言ってるのではない、そのパースペクティブに無理解のままふりかざすな、と言っているだけである。

MBTIの論理も安易に取り入れるべきではない。いかに現代社会の文脈において類型学が問題をきたしているかを考えろということ。

かのヘンズリボッキマシン百田尚樹総帥はこの程度の全てを熟知している。
どうやらこの勝負、百田総帥の勝ちのようだ。

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