歴史探検隊中国歴史旅ノート「敦煌と太白山」③ 青銅器の里「周原博物館」を訪ねる(平成30年10月15日)

画像1 歴史探検隊中国歴史旅ノート「敦煌と太白山」③ 青銅器の里「周原博物館」を訪ねる(平成30年10月15日) 記録者:白木一利隊員  10月15日の早朝名鉄岐阜駅改札口に集合し、セントレア空港で中国東方航空MU292便に搭乗手続きし、上海浦東空港で乗り換え、その後西安咸陽国際空港に向かいました。 15時25分 西安咸陽国際空港に到着し、空港ロビーで懐かしい馬立群さんの出迎えを受けました。岐山県の賈さんと陳さんの掲げる「熱烈歓迎岐阜市訪中団」の横断幕が目に飛び込みました。※右側が白木さん、左は副隊長の堀田さん
画像2 15時46分 マイクロバスに乗り、馬さんの歓迎の挨拶。「今回の目的地の敦煌は、西のとても遠いところで中国人はあまり行かない場所ですが、私は3回目になります。私は、30年前に岐阜市制100周年記念の中国陝西省宝鶏市周原文物展にいきましたが、周原博物館は、昨年(平成29年)新しくなりました。」ということでした。
画像3 やがて、バスは国家5A級の景区法門寺、左手の靄の中に逆台形の南大門見え、バスが左側に回り込むにつれて手を高く掲げた合掌型のモニュメントが特徴的な本堂を見ることができました。  田舎道をしばらく行きますと「あれが岐山」という堀田副隊長の声、畑の中、霞む遠方に連なる山並みがみえました。大通りから細い並木道に入ると、「ここらでバスから降りて田舎道を歩いたのですが、陶器や瓦の破片を拾いました」という堀田さんの説明。
画像4 17時32分 やっと博物館に到着しました。閉館時間を過ぎていましたが、館長さんや職員さんに出迎えていただきました。  新しい博物館の建物は、周原遺跡で発掘された建物跡の形を参考にして作られているということでした。すでに開館時間を過ぎていましたから館内には他の見学者はいませんでした。
画像5 周原博物館は、昨年(2017年)完成しました。建物は周原遺跡で発掘された建物跡を復元するように設計されています。正面の建物が大堂で、東宮と西宮が王寝宮となります。奥の殿堂は明堂で王が政務を取った場所で、夏王朝の時は世堂(大きな部屋)と呼ばれ、殷王朝の時は、屋根に円形の覆いが重なり重屋と呼ばれ、周王室になるとそこから光を取り入れ、室内を明るくしたので明堂と呼ばれました。中央に大部屋があり、四方に部屋を持ち(四旁両狹)、周の王権の象徴とされました。
画像6 周原は、周族発祥の地です。その始祖は「棄」という名前で、夏王朝の遺民で農業の役人である稷(粟の一種)に推挙され、その子孫は代々世襲して先周族と呼ばれ、陝西省の関中西部を流れる漆水流域周原に拠点をもうけましたが、殷王朝の進出により度重なる移動を余儀なくされ、文王(周の方伯)の代に周辺の部族と連合して勢力を拡大し、息子の武王の代(紀元前一〇四六年)に牧野の戦いで一挙に殷を倒し、周王朝を起こし鎬京(西安市付近)に都を構えました。武王は、先王の後裔や功臣を各地に分封し王朝の安定を図りました。
画像7 周原は、関中平野の西部に位置し、東西100キロ、南北50キロ、武功県、扶風県、岐山県、鵬翔県、宝鶏市にまたがり、東は漆水、西は洟水、北は岐山山脈、南は渭水北岸に至ります。水系に恵まれた土地は肥沃で気候温暖、農業を尊ぶ周族には絶好の環境の地でした。
画像8 甲骨文字で「周」の字は小さく区画された方形の農地に似た形で、農業の発達した地域を指し、周族という命名は農耕に長じていたことを示しています。  壁面には周原の地でいかに勢力を伸ばし地盤をかため王朝を築いたのか歴代の西周王朝の「周武王発から12代幽王宮涅」までの系譜が掲げられていました。
画像9 展示の第1は青銅器です。周原一帯は宗廟や宮殿が置かれ、青銅器は周一族が残した重要な器物です。青銅器には、銘文が鋳込まれ、その内容は周王の冊命や諸侯の戦争賞揚、貢租、土地交換、訴訟判決など、周王朝の政治や経済、文化など周王朝を研究する重要な史料となっています。特に荘白村の穴蔵から膨大な青銅器が出土し、周人の強い祭祀の伝統と宗法意識を伝える証が確認されています。
画像10 史墻盤  扶風県荘白村出土 1976年  西周時代に流行した水を入れる器です。匜を用いて水を注ぎ、手や顔を洗いました。器の内側底に名文が284字見られ、諸先王と当時の天子の偉大な功績を叙述し、持ち主である史墻家の家族史が刻まれています。
画像11 折觥  扶風県荘白村出土 1976年  中国古代の酒器です。羊の首、角、大きな目、鼻、牙の獣面、身に40字の名文があります。王は、史官に作封した折に相侯を賜り望土を贈り、青銅器と奴隷を送りました。折はこのことを記念し亡父を偲ぶためにこの器を作りました。
画像12 興壺  扶風県荘白村出土 1976年  酒を入れた壺。蓋に銘文が16出土文字あります。興は周王の厚賜を拝領し亡父のためにこの器を作り記念としました。
画像13 商卣  岐山県京当郷賀家村出土 1976年  祭祀用の香酒を盛るための器。蓋の鈕は花の蕾状を呈し、全体に五種類の動物を飾っています。器物に複雑な模様や銘文を鋳込むことができたのは内范注入技術により鋳出された優品です。
画像14 刖刑奴隷小方鬲  扶風県法門郷荘白村出土 1976年  この鬲は、方形で下部に開閉できる門があり、そこから炭火を入れて食物を温めるようになり、門には足切りされた門番の奴隷の姿が飾られ名前がつきました。その造形は美しく青銅器芸術中の優品といえます。
画像15 折尊 扶風県法門郷荘白村出土 1976年  酒を入れる器です。細かく念の入った文様は豪華にして華麗です。折觥と同じ銘文が認められます。  西周の青銅器は、祖先や神を祀るという宗教的な意味から国を治めるため内部の階級や秩序を保つ政治的な意味を持つようになりました。
画像16 編鐘 西周後期には雅楽が盛んになり、編鐘は8点で一揃いになります。無斁や懐石という音律名が付けられ、五音階であったことがわかります。
画像17 車馬坑があり、一両二頭立の馬車が天井からつり下げてありました。  西周の陸路交通は、周道と呼ばれ、大型の馬車が通行可能な幅広い幹線道路が鎬京、洛邑、周原へ通じ、諸侯国や方国の地方道路と連絡して都へ通じる国道が走っていました。 西周の軍事抗争の中心は広大な関中や中原地域でした。戦争の規模が拡大し、一両二頭立ての戦車から性能のよくなった一両四頭立の戦車が軍隊の主力になりました。
画像18 石磬  特磬と編磬の二種類があります。編磬は、小さく1組16個でつるされ、特磬は大きく雅楽が終わるときに用いられ、編鐘と同じ打楽器です。  西周の玉器工芸は、制作技術が進んで極めて複雑な形や模様の製作が可能になりました。 四璜組玉佩 西周で等級身分を顕示した玉器で諸侯夫人が身
画像19 周原遺跡一体は、1976年から発掘調査が開始され建築物跡や土木構造物のほか考古学上重要な大量の甲骨文字や青銅器などが出土しました。一帯には西周期の宗廟もあり、発掘された文物は数万点にも及び、中でも青銅器と銘文が豊富で考古学的価値が高く「青銅器の里」呼ばれています。1982年には、国務院より「全国重点文物保護単位」に指定されました。※館長と対談する薮下隊長、通訳は馬さん。(記録者 白木一利さん))

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