中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」⑥「晋祠博物館で唐叔虞を偲ぶ」

画像1 中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」⑥「晋祠博物館で唐叔虞を偲ぶ」記録者熊田正雄隊員六回目の岐阜市歴史探検隊の中国歴史旅。前回は、周時代の都周原を訪れましたが、今回は、次の時代、春秋時代の晋の都太原を訪れることになりました。十月二三日、わたしたちは西安から高速鉄道に乗り太原南駅で降りました。  太原という町は、黄土高原の東部、太原盆地の北端に位置し、北、西、東の三方を山に囲まれています。山西省最大の河川である汾河が、北から南へ約一〇〇㌔にわたり市域を貫き、平均海抜は約八〇〇m程で、総人口三百五十万人。
画像2 太原市は中華人民共和国山西省の省都。市域は中国の古都の一つで二千五百年の歴史があります。 また、洛陽周辺と北京周辺を結ぶ重要な街道が汾河沿いの盆地を通るため、交通の要衝でもありました。北方の遊牧族にとっては、太原は中原を攻めるための拠点であり、漢民族にとっては、北方の守りの要衝でもありました。
画像3 なぜ春秋時代というのか疑問に思っていましたが、中国の王朝は、古代より王朝の歴史を記録する習慣があり、また、各地の諸侯たちも自国の史書を残しています。魯の国で作られた史書を「春秋」といい、儒教の孔子はその「春秋」の編集にあたっていました。  春秋の中で特に名を知られているのが「春秋三伝」と呼ばれる三冊で、「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」「春秋左氏伝」です。  ようやくのことでそこに記載されている時代を春秋時代と呼ぶことを理解することができました。
画像4 中国では、前七百七十年周の東遷から、前四百三年晋の大夫韓、魏、趙の三氏が独立に至る約三百六十年間を春秋時代といい、それ以降を戦国時代といいます。韓、魏、趙三家のことを以後三晋と呼びます。  太原南駅でガイド(中国語でターヨー)の鄧暁燕さんが、我々をにこやかに出迎えてくれました。  バスに乗り、市内から南西へ二五キロのところに位置する「晋祠博物館」」につきました。左が鄧さん、右は馬さん小平
画像5 ここは北魏(西暦四百~五百五十年)の代に最初の晋王である唐叔虞を祀った祠があり、そのほかにも中国の伝統的な庭園や唐宋代に遡る多くの建物が存在する面積一平方キロ程度の博物館です。  唐叔虞という人物は、西周」(紀元前千年頃)の「武王」の次男です。兄の成王が戯れに「唐を封じよう」と述べたのが史官に記録され、正式に唐に封じられました。姓は姫、唐叔の子爕のときに、国号を「晋」と改め、晋侯となりました。
画像6 晋侯を祀る祠廟がこの「晋祠」であり、これを中心とした博物館です。  国宝になっている建物や立像も数多くあり、ことわざに「晋祠に行かずして太原に行ったとは言えない」とあるくらい重要な場所です。  駐車場から少し歩いて博物館に入る。入ってすぐの文昌院で記念写真を撮り、水鏡台の前で説明を受けたました。
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画像8 水鏡台から入り、金人台で説明を受けました。金人台には、四体の宋の時代の鉄武士像があり、九百年たった今でも依然として凜として佇立しています。屋外にありながらさび一つ無いので不思議にさえ思えました。
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画像11 晋祠には「晋祠三宝」と「晋祠三絶」がある。  晋祠三宝とは、聖母殿、魚沼飛梁、献殿のことです。  聖母殿  晋祠で最古最大といわれる建物で内部には主像が一体、色彩塑像が四十三体(女官像四体、宦官像五体、侍女像三十三体)が完璧に残されている。宦官の中の小さい像二体は明代に補修されているが、他は北宋時代のものです。
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画像13 魚沼飛梁  水たまりのことを中国古代からの言い方で丸いものを「池」、四角いものを「沼」といいます。ここは四角いので魚沼といいます。橋は十字型をしていて、上から見下ろすと大きな鳥が翼を広げて飛びそうに見えるところから飛梁といます。北宋時代のもので中国の一番最初の立体交差橋です。  献殿  聖母殿の横にある建物で
画像14 次に晋祠三絶について。  臥竜柏  聖母殿の前に周柏と呼ばれる古木があります。樹齢」約三千年で?、高さ一八メートル、直径約二メートル。南方向に大きく傾いていました。
画像15 難老泉  水は切れ間なく湧き出し、晋祠の水源になっています。泉の水は常温で常に一七度、冬でも凍らない。清らかな水は底まで見えます。  侍女像  聖母殿の中にあり宋時代のものです。当時の人間と等身大の大きさといいます。顔の表情、手の持ち物、服装など今も当時の色彩をとどめています。
画像16 この晋祠において一番中心となる唐叔虞の祠は、博物館の一番奥にあります。  その他 書について  重要なものの一つについては、よくわかりませんでしたが、晋祠の石碑は三〇〇個余りあるといいます。唐大宗李世民の自作した「晋祠之銘井序」の碑が最も素晴らしいとのことでした。  多くの建造物を急いで廻わりました。今日はまだ一つ天龍山石窟の見学が残っているので出口に急ぎました。時刻は四時近くになっていました。

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