歴史探検隊中国歴史旅ノート「敦煌と太白山」⑱ 空海が修行した青龍寺を訪問して

画像1 歴史探検隊中国歴史旅ノート「敦煌と太白山」⑱ 空海が修行した青龍寺を訪問して 平成30年10月23日((月)記録者:南城良子隊員 中国歴史旅の最終日の帰国直前、かつてからの念願であった青龍寺を拝観することができました。青龍寺(本四国八八ヶ所霊場の〇番霊場)とは、五八二年創建で、当初は霊感寺と呼ばれていました。六二一年一度廃寺となりましたが、六二六年再建され、名前も観音寺と改められました。
画像2 そして七一一年青龍寺と改称されました。唐中期には、惠果大師らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれました。八四五年会昌の廃仏により再び廃毀されました。しかし、八五二年いったん復興を果たし、護国寺と改められましたが、唐末五代の動乱によって、長安の都が急速に寂れ、そのため、以後三度姿を消すこととなりました。 一九八二年以来、西安人民政府が発掘調
画像3 空海(七七四年~八三五年、幼名は真魚、弘法大師の諡号は九二一年、醍醐天皇から賜った)は、八〇四年(三一歳)第一六次遣唐使の留学僧として、天台宗の最澄らと共に留学僧として、天台宗の最澄等と共に入唐しました。青龍寺で惠果大師に出会い、当時流行していた密教を習い、本来二〇年の予定であった唐での修行を二年弱で切り上げ帰国しました。青龍寺では空海以外にも、天台宗の円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)らも修行しました。
画像4 ここでの私は、御朱印をいただくことと、般若心経をあげることが、最大目標です。私はこれまでに三度本四国八八ヶ所霊場参りに行っています。だから弘法大師が修行された青龍寺に行き、是非お参りをしたかったのです。
画像5 山門を入るとお寺の境内では、太極拳をしている人、体操をしている人、ダンスをしている人、インラインスケートをしている人達で、とてもお寺の境内と思えない風景でした。
画像6 馬さんにお願いしてまず納経所を探しました。日本語で「納経所」と書いてあり、すぐに見つかりました。たぶん日本人観光客が多いんだなーと思いました。バスの中で事前に聞いておいた人数分だけの御朱印をいただきました。一枚五〇元(日本では三〇〇円)で、日本の三倍でした。御朱印をいただいた後、少し行ったとこでお参りをしている人がいました。戸は閉まっていましたが、そこでお参りをするのかと思い、般若心経をあげ、皆さんの旅の無事をお祈りしました。※中央が南城さん
画像7 すると誰かが「こっちだよ」との声。いってみると、そちらが本殿でした。境内には空海と惠果大師が会った時の像、惠果空海紀念堂記を書いた碑、四国別格二〇霊場が書いてある石灯籠、大きな鐘等、色々ありました。早速中に入り、先ほどと同じように般若心経をあげ、皆さんの旅の無事をお祈りしました。このお寺ですべきことをし終わった後は、晴れやかな気持ちで青龍寺を後にすることが出来ました。 合掌
画像8 空海の豆知識  讃岐うどんの原形となる麺(こねた生地を切った麺)を伝えた。それまで無かった「ん」の文字を 初めて使った。※日誌を担当した武藤晴彦隊員

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