歴史探検隊中国歴史旅ノート⑭ 青銅器博物院で周原出土青銅器を見て

画像1 歴史探検隊中国歴史旅ノート「敦煌と太白山」⑭ 青銅器博物院で周原出土青銅器を見て平成30年10月21日(日)記録者:笠原成玄隊員 中国歴史の旅も7日目の朝、西方巡りを終えてややお疲れの探検隊一行は、蘭州西駅を8時40分発の高速鉄道和諧号で懐かしの宝鶏市へ向かいます。   朝食は弁当で、 パン、ソーセージ、ゆで卵、ヨーグルトにミルクの詰め合わせを車中完食。2時間で宝鶏南駅に着きました。
画像2 黄河の支流渭水を跨いで展開する宝鶏市、古代名は陳倉。筆者は3度目の訪問です。車窓の町はまた一段と開発が進んで高層住宅群も目立つ、市内最高のビルは200mの高さで昨年出来たと言う。ノッポの街路灯が延々と連なる区間を通っていると妙な異次元を感じる。※右から亀山、小柳津、熊田、武藤隊員
画像3 昼食は市内の「宝鶏宴会中心」でゆったりと1時間取って、午後1時、石鼓山の丘に聳える宝鶏市青銅器博物院に到着。 周辺の植栽は以前より豊かになった感じで、ポプラ、銀杏、マロニエ、特に目に付くのは「槐」だった、槐はマメ科の落葉高木で中国原産のニセアカシアの一種とのこと、大気汚染に強いので車道端によく見られる。※仲良く食事をする薮下夫妻。
画像4 高さ40mの城壁の様な博物院の脇を回って正面に出ると、「任周方」前博物院館長や職員のお出迎え。再会の任氏と藪下隊長の熱烈な抱擁シーンとなった。両氏は旧交三〇年の仲なのだ。
画像5 氏の先導でセキュリティ検査を受け入館するや、応接広間にて任氏の歓迎スピーチを受ける。30年余前の任氏、馬氏らの3か月の岐阜滞在の話題になり、鵜飼鑑賞の思い出やら、「任さんとミホちゃん?」のエピソードになって場が和む。 任氏は甲骨文字が専門で北京大学考古学専攻卒、40年前から現在も発掘に携わっておられる。隊長がここで、「馬さんも定年になる、二人で岐阜へお越しください!」 と提言、任氏は「是非そうしたい!」と返されて満場の拍手。
画像6 その席で、任氏は自らの思いを込めた水墨画と漢詩を披露された。詩の筆記を託された山本仁吉隊員から写しを提供いただいたので、原文と馬さん訳をそのまま紹介します。 風は大丈夫、雪も同じ、いくら吹いても積もっても、平気です 雪の中に、自分の姿を現す また木の回り、石と友達です 古代から、松を鑑賞する人は、素晴らしい心のある人です
画像7 宝鶏市青銅器博物院は8年前の開館、青銅器の収蔵では世界一を誇る。   この地は西南北を山に囲まれた歴史河川「渭水」のほとり、古代より戦略、交通の要衝であり、一帯の周原黄土層からは周秦時代の青銅器の出土がおびただしく「青銅器の古里」と呼ばれている。
画像8 この地は西南北を山に囲まれた歴史河川「渭水」のほとり、古代より戦略、交通の要衝であり、一帯の周原黄土層からは周秦時代の青銅器の出土がおびただしく「青銅器の古里」と呼ばれている。  その特徴は、(1)時代が極めて古く、主に紀元前11世紀~同8世紀の遺物である、(2)出土品数が非常に多い (3)青銅器の種類が豊富、その上、出土品は中国の最高技術をして精緻で際立つ造形美を呈していること、更に歴史的価値は青銅器に刻まれている銘文にこそあると言う。  凛々しいガイド「潘宇」嬢の案内で展示コーナーを回ります。
画像9 周代から秦代まで1500余点の収蔵品、その一部とは言え、次々と続く解説に記録も追いつかない。  中でも代表格4点の複製品はハンズオン展示されてるので実感がある。  最大の器物と言われる台付の方形大皿はタテ100㎝・ヨコ160㎝と巨大で動物を供える祭祀用具と言う。
画像10 「五祀衛鼎」(両手付洗面器?)には西周中後期の土地契約の銘文があり資料価値高しとされる。  口径85㎝周代の三足鼎には「酒量を減らす様に」などと刻まれて当時の世相も偲ばれる。 展示品はいわゆる青銅器色をしているが、その殆どはかって金鍍金が施されていたとか、また鼎は三足が主で安定しているが初周期ものには四足もあるとのこと。
画像11 博物院随一の目玉はやはり国宝「可尊」、勇壮かつ精緻な造形に加え刻まれた銘文は周の武王,成王の史実を記していて価値が高い。
画像12 また「中国」なる文字の初登場が確認されるのも注目点とされる。
画像13 取っ手付きの一対の酒器は、現在中国でも4個しかない希少品と言う、残念ながら名称は記録出来ず。  潘嬢について秦代のコーナーに入る。 秦国発祥の地は天水である、犬丘から宝鶏、そして咸陽へと展進して行く秦代になると、青銅器の品質低下と造形の粗雑化が見られるとのこと。   十三代景公の墳墓「秦公一号大墓」の部分レプリカの前で解説を聞く。埋葬時の陪葬者は160人と多い。  後の始皇帝はそれまでの膨大な陪葬死の故習を廃して人力を富国強兵と墳墓造営に向けたので、青銅器の品質にこだわりは及ばない。
画像14 ガイド嬢の案内も終わり、隊長から記念品を手渡して退館する。にわか知識一杯で博物院の外に出るとやおら展望が広がる、曇天にして視界壮大、来館者の点在遠景に至る、という趣きである。日曜日だから家族連れが目立った。  中国旅の都度立ち寄る馴染みの地だが、来る毎に変わる景観に月日の流れが偲ばれる夕刻四時、博物院を後にする。
画像15 これから一行は宝鶏市文化人と交流の予定。  4時半、一行のバスが着いたのはとある住宅群の一角、車窓から良く見る高層住宅の団地で、足を踏み入れるのは初めてだ。日本のそれと異なり各棟が非常に高い、十何階なんだろー。  青年の出迎えを受けて小さなエレベータに乗り込み8階で降りると、そこ
画像16 白く輝く石張りのフロアが印象的で5、6部屋もあろうか、氏の版画作品や工具が整然としてあり、刷り込みの部屋では夫人が実演をして見せる。邰氏は製作中の木版彫りの披露、彫刻刀は自作で握り方が独特だった  氏は明代から続く伝統工芸家の20代目と言い、肩書の一つに、中国工芸美術大師とあり全土に13ヵ所の活動拠点があるとか。版画では人間国宝の様な人なのか、役者絵、正月絵の大家なのだと。  中国の旅で、土地の個人宅に入れる機会は中々ない、ここではその生活の一端に触れた思いがした。
画像17 この日の宿は宝鶏では馴染みの「高新君悦酒店」、見上げる様なファサードに、正面に広がる展望が印象的なホテルである。平成24年、当時の細江市長一行と同宿だった寒い冬の日が思い出される。※平成24年に宝鶏市を訪問された細江市長(故人)
画像18 時にはもう晩餐の席に着いていた。 大テーブルが3か所、主卓中央に薮下隊長、その左右に宝鶏市の書画協会会長、外事弁公室の馬さん、元市政府友好協会会長、任周方氏等、他賓客の居並ぶ交流晩餐会となった。  主賓テーブルでは、隊長持参の記念品贈呈からその返礼にと交流ムードが高まって行く中、先方各氏への記念品贈呈が始まる。隊長指名の婦人隊員から交代で手渡していきます。
画像19 晩餐では出た料理の食材の話題によくなるが、この時も大皿の魚名を巡って隊員から女店員も巻き込む騒ぎ。鯉でもない草魚でもない、ましてや鯰などと。唯一の婦人賓客(名を聞きそびれたが、我が女子隊とは違って優雅な方、婦人への記念品役に当ったのはラッキー)とその連れの氏もこれに参加。結局、鯰の一種と言うことに収まる。
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画像25 任周方さんの書画
画像26 その名「   (スォビャンギョ)」と聞けば信憑性あり、「散々魚」との後出しも。西鳳酒も効いてきてどうでも良くなった。和気あいあいの交流会は9時半まで続き宿に戻ったのは10時過ぎとなった。 どんな旅であれ、訪れた土地の人と触れ合ってこそ旅の実感が湧く、通り一遍の見学旅行とは異なる。

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