RKS47ノート三輪南1「播隆上人名号碑」

画像1 RKS47ノート三輪南1「播隆上人」 令和5年12月14日  ヤブ 次の石碑見てください ズボ これも石碑 ヤブ 溝口というところに、長良川のそばにお墓があるんです。そのお墓の入り口にあるんですけれども、これも南無阿弥陀仏と書いてあるんです  ズボ 書いてありますね ヤブ さあこれは誰でしょうか ズボ 字が硬い。なんか四角ばってる感じはしますね
画像2 ヤブ これは実は、槍ヶ岳への開山って分かりますか?始めて登った人 ズボ 分からない。あっ!槍ヶ岳の映画になった人ですか?名前は分からない  ヤブ そう、播隆上人、映画になりましたよね   ズボ 映画になりましたよね 確かね  ヤブ その人もやはり南無阿弥陀仏と書を残してるんですよ ズボ もう一回アップしてみましょう その方が岐阜へみえた訳ですね ヤブ やっぱり通過しとるんでしょうね。その人が書を残していてそれを元にして石碑にしてある  ズボ なるほどね
画像3 ヤブ 播隆さんの石碑は三輪南には1つしかないんですけれども、芥見の旧街道沿いに確 か1つありました。天保3年の建立です。 ズボ ブーさんが、これからは不意に立っている石碑にも目がいってしまいそうです。そうでしょう、僕の古墳と一緒ですよ。山見たら古墳に見えるんですから、今度は石碑ですよ、石碑見たら目がいくようになる
画像4 ※前人未踏の3,180メートルの高峰―――。僧・播隆が初めて槍ヶ岳を望見したのは、文政6年(1823)6月のこと。飛騨山脈の霊峰・笠ヶ岳登山を試みた彼は、ひときわ高くそびえる槍ヶ岳を眺め、その霊感に打たれ魅せられた。  天明6年、越中に生まれた播隆は、生涯のほとんどを一介の苦行僧として過ごした。混濁の世俗を捨て仏門に入 ったはずの彼だが見たものは、やはり俗界同様のみにくい 風潮がみなぎる宗門の内情であった。深山幽谷での修行に入った播隆は、やがて槍ヶ岳開山の悲願を抱くに至る。
画像5 岐阜県岐阜市柳沢町9にある卍播隆山正道院、境内左側に播隆上人の供養塔があります。
画像6 ※前人未踏の3,180メートルの高峰。僧・播隆が初めて槍ヶ岳を望見したのは、文政6年(1823)6月のこと。飛騨山脈の霊峰・笠ヶ岳登山を試みた彼は、ひときわ高くそびえる槍ヶ岳を眺め、その霊感に打たれ魅せられた。  天明6年、越中に生まれた播隆は、生涯のほとんどを一介の苦行僧として過ごした。混濁の世俗を捨て仏門に入 ったはずの彼だが見たものは、やはり俗界同様のみにくい 風潮がみなぎる宗門の内情であった。深山幽谷での修行に入った播隆は、やがて槍ヶ岳開山の悲願を抱くに至る。

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