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父の戦争体験~なんでも心の持ちようというお話し

過去ブログ記事の移行です 2022年8月17日掲載

今は亡き父から学生の頃聞いた、第二次世界大戦の体験談。
何十年も前ですが覚えている範囲で記しておきます。

世間では暗く悲惨な戦争体験がクローズアップされますが、戦争中でも明るく前向きで過ごした父の話しは、“なんでも心の持ちよう”ということを教えてくれました!

父は27歳くらいで志願して、南方のインドネシア諸島セラム島という、すでに日本が占領した小さな島の統治に軍属の将校少尉として赴きました。
軍属は前線で戦うのではありません。

父は10代から県庁や裁判所の書記をしたりと長年公務員をしていたので、(会社なら係長とか部長とか?)それが少尉という位になったそうです。将校の一番下の位ですが…
真っ白な海軍服を着て刀を下げている写真を見たことがあります。

けれども志願せず赤紙で召集されたら、そして二十歳そこそこで下っ端だったら公務員でももっと待遇は悪かったらしいです。

大型船で何ヶ月もかかり、同じ船にあの森光子さんが慰問団の一員として乗っておられて、船でも歌など歌っておられたそうです!

父は船内でインドネシア語を覚えたといいます。(家でたまにインドネシア語の歌を歌っていました♪)
役人のお仕事をしに行くのですが、島民にとっては敵であり抵抗に合うかもしれません、戦いには行かないけれど命の危険はあるわけです…

〜島の暮らし エピソード〜

小さな島ですが中国人やアラブ人も住んでいて、父は現地の役所で彼らとも仲良くやっていました。
なかでも中国人のコックさんの料理は絶品だったそうです。

当時の現地の人は素朴で原始的な暮らしをしている人も多く、何か事件というと痴話喧嘩くらいで、仲裁に入ったり村役場の人のようなことをしていたといいます。

しかし、一緒に行った者の中には性格の悪い人もいて、威張って現地の人をいじめることもあったようです…

父は彼らと楽しく交流しようとイベントを開催しました。そこで脚本を書いて劇をしてもらったそうです。
ある時は幽霊の出る面白いお話しで、彼らに幽霊を表現してもらったら、両手を前に伸ばしてブラブラして向かってくる、というちょっと滑稽な姿だったそうです(笑)

また、森には“ケ”がいるから夜は入らないように、といわれたけど…“ケ”は“カ”のことだと。なんか似てますね笑
しかし父はどこかで刺されてマラリアにかかってしまいます。
お薬もあったのですが、定期的に高熱が出て、それは戦後も数年続いたようです。

熱が出た時現地ではマッサージをして下げるということで、父のところにはオカマぽい人が“トア〜ン”と高い声でやって来てとても上手にマッサージしてくれて、すぐ熱が下がったそうです。

“トアン”は旦那さんという意味で、父は優しいので島民にとても好かれて、“トアンアラー”と尊敬されていたそうです!
日本でいう“〇〇さんカミ〜”的な感覚?(笑)

食べ物エピソード「ドリアン」、最初は臭くてとても食べられなかったのが、いつのまにか大好きになりベッドの下に沢山ストックしていたそうです(笑)
後日談、日本に帰ってからも超臭い体臭が何年も抜けなかったそうです(爆)

その他見たことない果物や野菜、ココナッツ、テンペなど現地の食を堪能したそうです。
そもそも戦争の原因の一つが香辛料などの産物を巡っての争いともいわれているので、インドネシアなど南方はえらい迷惑を受けたのですね…

また、不思議な形の虫や鳥など南の島特有のカラフルな生き物にも驚嘆していました。現在では図鑑やネットですぐ観られますが当時の日本では知るよしもありません。

占領下の小さな島ではもう戦いは無縁のようですが、時たま空爆があったそうで、人が亡くなったりしたそうです…

日本の戦況はだんだん悪くなっていきました、父は覚悟を決めて志願したので日本に帰れないかも知れない、運命を天に任せるしかない。と腹を括っていました。

終戦敗北が知らされた時、あの威張っていた人はブルブル震えて泣いていたそうです、引き上げる時いつのまにかいなくなり、現地の人たちに捕まって多分ころされたのだろうと…

父は皆に惜しまれて去りました。

話しを聞いて、人はほんとにどんな環境、時代でも心の持ちよう、優しさ心の繋がりなんだと思いました。

父の一行は日本に帰るまでに、オーストラリア軍に捕まり捕虜収容所に入れられました。
収容所といえば恐ろしく悲惨な暮らしと思うけれど、自由に外出できないだけで、将校はちゃんと個室を与えられ普通に暮らせたそうです。

父は『わしは運がええんや!』といつも豪語してましたが、まさにです。
収容所の食事は将校に限らず豊かで、彼らの常食である乳製品や肉などオーストラリアの栄養豊富な、美味しい食材を食べて太って帰ったそうです(笑)その頃日本では餓死するほどの状況だったのに…

また、イタリア兵も抑留されていましたが彼らはやはりラテン的、陽気で楽しそうにキャッチボールしたりして遊んでいたそうです。(敵国のスポーツですが彼らは平気!日本は禁止されてましたね…)
収容所自体がそんなに厳しいものでなく、シベリアなどと比べると、暖かい気候でのんびりした感じだったみたいです。

…オーストラリア人自体のんびりした人が多いからかな(笑)(旅行に行った時思いました)

〜無事帰国〜

日本の家族は終戦になっても父が帰ってこなかったので、南方で亡くなったと思い葬式をしようかと準備していたところに帰って来たそうです!
真っ黒に日焼けして別人みたいで、日本人にしては彫りが深いのでアラブ人のようだったそうです、それに臭いし(笑)

マラリア熱が時たま出るものの、元気で職場に復帰しました。
日本には占領軍がいて、父の役所にもアメリカの将校が来ました、皆んな鬼畜米英と刷り込まれているので嫌がっていたけれど、父は欧米の将校を収容所で知っているので率先して対応に当たったのです。

将校はとてもハンサムな映画スターのようで、礼儀正しいジェントルマンだったと。移動の車はキャデラック!
欧米の将校は主に俗にいう、育ちがいい貴族階級や知識層だから。
(あのNHK朝ドラ2021「カムカムエブリバディ」で村雨さんが演じていた、ロバートのような感じなのかな?)

負けたからと卑下したり敵に恨みを持って抵抗するより、懐に入ること。いつの時代もそうなんだろうけど、敵であろうと1人の人間として接すると、悪い人じゃない。

そもそも父は西洋文学を戦前から愛読していて、トルストイの「戦争と平和」を読んで、戦争を体験観察するために志願したといいます。
上層部が引き起こした戦争に庶民は皆んな使われる、日本は天皇陛下のためと…
抜けられない状況の中でどう生きるか、どう考えとらえるか、それによって運も変わる。

あの威張っていた人のように、恨まれることしたらしっぺ返しを受ける。
日本も戦時中他国に酷いことをいっぱいした事実があります。

日本は完全に占領はされなかったけれど、アメリカナイズされてある意味豊かになり、また弊害もあり…
けれども日本人らしさ、天皇制度も健在、国の魂は面々と受け継がれています。

現在も戦争放棄しているので、志願兵(ウクライナなどに)は認められないそうですね。

このまま平和な国でありますように、心から願います。そして多くの犠牲になった方々に追悼の意を捧げます🙏✨

2022年8月終戦記念日


トップ画像は極楽の華といわれる「宝想華」(ほうそうげ) 2011年麻真梨作

父アラフォーくらい、海軍将校の姿の写真はお見合い写真で、母があの世に持って行きました。

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