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縄文土器の変遷 「縄文」から「集団表象」への変化

土器形式の進化

図 土器形式推移の年表  
これから大きく概観して次のような特徴が見える
関東圏を中心としてみている

時期     影響範囲
       狭い範囲    中間     広範囲
草創期                  隆起線文
                     爪形文
                     多縄文
早期             撚糸文
                     貝殻条痕文
前期     羽状縄文
       諸磯 浮島   北白川
中期     勝坂 阿玉台
       曽利 加曽利
後期                中津
                  堀之内

羽状縄文土器以後に列島内の土器文化の細分化が大きく進展した
それまでもあっただろう所の「集団表象」が
はっきりしてきたのだろう

図 土器の形
早期までは尖底土器、前期頃から平底土器となり形も多様化する

図 中期までの土器模様の変遷
草創期から前期前まで、列島全域で文様がほぼ共通していた

前期以後文様は地域性が強まっている
何故このような変化が出てきたのだろうか
列島のはずれ部分では違いが出てきてはいたが
撚糸文土器以降に地域性が出はじめていたように見える
特に羽状縄文土器以降その地域性が強まっていたように見える
前期までに生業の開発は略終了して
それ以後はそれまでの文化をベースにして、
中期は文化的発展段階に入ったものと云われている

図 貝塚の時期からの土器

図 諸磯式土器の文様造形
生業への農耕の採り入れによる土地への意識の変化
狩猟採集では、収穫物を育てるという様な意識は生まれていない
収穫物は取った人のもの、取ったグループのものと言う意識で有ったものと考える。
しかし農耕になると土地を耕し、種を播き、育てるという活動が始まるので
そこの収穫物はそれに関わったグループのものと言う意識と、
またその土地はそれを開発した人の利用するものという意識が働くようになったものと考える。

農耕開始時期
前期以後の年表

こうなるとグループ毎の「集団表象」が必要となる
グループの結束力が強く働くようになる狭い範囲
魚釣りという技術の撚糸文土器の時期に何故このように狭い範囲となったのか不思議
また魚網利用の羽状縄文土器の広がりがこれほど狭いのは何故か
こちらは網の材料である糸の生産技術が難しかったため
釣り糸とは異なり、それの生産に対応出来る地域は限られていたとの想像は出来る

図は各地の展示からお借りして一部補足しました

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