管長日記「生まれついたのは仏心のみ」考察20241001

盤珪禅師のことについて。最近セミナーで講義して、あらためて基礎的なことを話したもの。

構成
1.記載のきっかけ、セミナーの講義
2.日本臨済禅の始まり、仮名法語の略歴、公案への態度
3.説法「それがしは生れ附て、平生短気にござりまして」の解釈

■2.仮名の文書について
老師は盤珪禅師の語録の特徴として、仮名書きをあげる。
「日本の聖一国師にしても、夢窓国師という方も、或いは大燈国師という方も、仮名法語というものを残されていますが、やはり中心は漢文の語録で、仮名法語は少しくだけたものとしてしか説かれていません。
そうした中でようやく、江戸時代の盤珪禅師に到って日本の言葉で説かれるようになりました。
公案というものは、主に漢文の語録を参照しますので、漢文を使います。
しかし盤珪禅師は、中国の言葉で問答するような公案は不要である、日本には日本の言葉があり、それで十分説いて示すことができる、というお考えでした。」

特に、仮名書きばかりだということが特徴だろう。
白隠禅師も仮名書きの書を多く出しているが、『槐安國語』など漢文も多く、文書としては従来の禅の手段による。

なお、現在でも、禅は漢文、読み下しは重要と考えられているように感じる。漢文という形式的なことではなく、禅の思想がそもそも中国語に基づくものだからではなかろうか。鎌倉時代、道元禅師の『正法眼蔵』も、漢文を直接利用するところもあるが、仮名書きである。その時代、『方丈記』や『徒然草』もあり、平安時代の前から仮名文があり、とくに和歌で、心理は表現されている。道元禅師は、現地でたとえば典座とも問答して気づかされることが多かったように、どう考えても中国語の才能が豊かであり、その思考、禅の考え方を書いているから、仮名書きとはいえ、いわゆる古文を読む以上の難しさが在るのだと思う。
となると、盤珪禅師は、古文的な日本語で仏教を語った、という見方になるかもしれない。

■3.説法について
横田南嶺『盤珪語録を読む 不生禅とは何か』春秋社の第一講にかかれている。
テキストは『盤珪仏智弘済禅師御指聞書』で岩波『盤珪禅師語録』を参考にした、とある。『盤珪仏智弘済禅師御指聞書』は宝暦8(1758)の〈大坂〉浅野/弥兵衞(あさの/やへえ)のものが、国書データベースに写真でDB化されている。

■鈴木大拙による解釈について
たまたま、鈴木大拙解説、古田紹欽校訂『盤珪禅師説法』大東出版社のpdfがあった。そこに鈴木大拙が不生禅の特徴を論じている。看話禅、默照禅との違いを検討し、やはり、道元禅師との対比も入れて語っている。以下の様にまとめられる。

鈴木大拙は、「生死は不生の場での生死であるというのが盤珪の主張である」と説く。「無分別の分別、分別の無分別 ― 生死そのままの不生と云う義が成立する」として、盤珪のことばを引用する。
「仏心は不生にして霊明なものに極りました、不生なる仏心―仏心は不生にして一切事がととのひまするわひの。したほどに皆不生で御座れ。不生でござれば、諸仏の得て居るといふ物でござるわひの。尊い事ではござらぬか。仏心のたつとひ事をしりますれば、迷ひたふても迷はれませぬわひの。是を決定すれば、今不生で居る所で、死で後不滅なものともいひませぬわひの。生ぜぬものの減する事はござらぬほどに、さうじやござらぬか。」
さらに、次のように不生禅の面目(本質、意図、といったこと)を引用して示す。
「惣じて身共は仏語祖語を引て、人に示しもしませぬ。只人人の身の上のひはんですむ事でござれば、すむに、また仏祖の語をひかうやうもござらぬ。身どもは仏法もいはず、又禅法もいはず、説ふやうもござらぬわひの。ふな人人今日の身の上の批判で相すんで、鱒の明く事なれば、仏法も禅法も、とかふやうもござらぬわひの。」

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