管長日記「死を恐れる心から」解釈20241112
花園大学の「禅とこころ」講義と致知出版社「後継者育成塾」講演の2本立て、内容的には3つだが、それぞれ記憶に残るところがあった。どの話も、以前に関連した話があったのだが、新しいところ、見解があって、嬉しく思う。
花園大学の講義は11月5日の午後ではなかろうか。致知出版社の方は7日か。
昨日、日曜説教の動画が上がっていた。なんともお元気だ。
構成:
1.花園大学の「禅とこころ」講義
2.致知出版社「後継者育成塾」講演:廣瀬順子さんの話
3.致知出版社「後継者育成塾」講演:天台小止観
鈴木正三、盤珪永琢の幼少の頃の死に関する話は、聞いたことがあったのかもしれないが、記憶になかった。個性ではなく、「深さ」に現れるようだ。
山喜房仏書林の『天台小止観の訳注研究』は早速検索したが、Amazonで中古品\68,000だった。諦めた。
■1.花園大学の「禅とこころ」講義
「鈴木正三と、盤珪禅師と白隠禅師であります。この三人に共通しているところは、幼少より死について深く考えていたということです。」
共通点を見出された。しかし、この観点では、あまりに多くの、禅に限らず、偉大な僧侶の共通点になってしまうのではなかろうか。
「鈴木正三は、四歳の時に同年の子供の死に会い、長く死についての疑問が続くようになったのです。十七歳で『宝物集』(仏教説話集)を読み、雪山童子の話を知って感動します。真実を求めるためには自らの身命をも惜しまぬ気持ちを起こしたのでした。」
「盤珪禅師は二、三歳の頃より、死ぬということが嫌いで、泣いた時でも人が死んだまねをしてみせるか、人の死んだことを言って聞かせると泣き止んだというのです。」
これは、聞いたことがあるような気がするのだが、、、
「白隠禅師は、五歳の時、ひとりで海に出かけて、そこに浮かんでいる雲を眺めて世の無常を感じて大声で泣いてしまったというのです。」
そうだったのか!
「十一歳の時に、母に連れられて昌源寺にお参りに行き、伊豆窪金(雲金)の日厳上人が、地獄の説相を説くのを聴かれました。
上人の弁舌は実に巧みで、熱鉄や釜の上で身を焼き苦しめられる焦熱地獄や、身が裂けて真っ赤になる紅蓮地獄の苦しみを目の前に見えるかのように話しました。
~そこで地獄から逃れるにはどうしたらよいか、母に聞くと、天神様を拝むとよいと教わって一心に天神様を拝んだのでした。」
この話は最近も出たものだ。
「死を恐れる心は無常を覩る心であり菩提心に通じます。菩提心とはこの無常を観る心なのであります。この心がもとになって道を求めます。そしてそれぞれに死の問題を解決してゆかれました。」
私には、この菩提心の因はわかりやすい。いや、わかっていないのだろうが、納得しやすい。道元『正法眼蔵』「發菩提心」によれば「質多心」と「感応道交」は、菩提心の内「度衆生心」にかかわる。なお、必要不可欠であることは勿論である。
盤珪禅師は、不生の仏心に気がつかれました。
白隠禅師は、二十四歳の時に高田の英巌寺で坐禅していて悟りを開いたのでした。
「ある夜、お霊屋で坐禅して、恍惚としているうちに明け方になった。そのとき、遠くの寺の鐘の音が聞こえて来た。かすかな音が耳に入ったとき、たちまち根塵が徹底的に剥げ落ちた。さながら耳元で大きな鐘を撃ったようである。ここにおいて、豁然として大悟して、大声で叫んだ、
「わっはっはっ。岩頭和尚はまめ息災であったわやい。岩頭和尚はまめ息災であったわやい」と。」
この2つのことから、老子は、
「そしてそれぞれの祖師は、その死ぬことのない仏心を人々に説いてゆかれたのです。」
と導いた。これは上手い。
■2.致知出版社「後継者育成塾」講演:廣瀬順子さんの話
パリパラリンピック柔道金で、11月5日に花園大学で老師と対談している。
「楽しむということの大切さをお話しました。何にしても楽しんで学ぶことは大事であります。
もっとも楽をしようというのではありません。
廣瀬さんの柔道の練習にしても、パラリンピックの金メダルを目指して練習するのですから、楽なはずはありません。過酷にみえる練習でもその中に喜びや楽しみを見いだしてゆくのです。
少しでも何か自分に変化があると楽しいものです。些細なことでも出来なかったことが出来るようになるのを見つけると楽しいものです。そのように楽しみを見つけてゆく心が大事です。」
「楽亦在其中矣」の書を渡したということだった。「不義而富且貴」なのだ。
「論語」述而第七15
子曰、飯疏食飲水、曲肱而枕之。楽亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲。
子曰わく、疏食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみも亦其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し。
■3.致知出版社「後継者育成塾」講演:天台小止観
天台小止観をもとに心を調える方法
「息がととのうのに、四つの有り様がある。
一は風の有り様であり、二は喘の有り様であり、三は気の有り様であり、四は息の有り様である。
最初の「風・喘・気」の三つは、息がととのわない有り様であり、最後の一つの「息」は、息がととのう有り様である。
「風」の有り様は、どのようなことであるのか。
それは、坐禅の最中、鼻から出入りする呼吸に、声が立つのを感知することである。
「喘」の有り様は、どのようなことであるのか。
それは、坐禅の最中、呼吸に声は立たないが、出入息が詰まって滞るのが、喘の有り様である。
「気」の有り様は、どのようなことであるのか。
それは、坐禅の最中、声も立たないし、息が滞ることもないが、出入息が細やかでないのが、気の有り様であると呼んでいる。
「息」の有り様は、声も立たず、滞ることもなく、粗くもなく、出息も入息もあるのでもなく、ないのでもなく長く続き、身体を確り保ち、穏やかで、心に深い喜びを抱くことである。
これが息の有り様である。
「風」の状態を続ければ心は乱れ、「喘」の状態を続ければ心は滞り、「気」の状態を続ければ心は疲れるが、「息」の状態を続ければ心は安定する。
またつぎに、坐禅の最中に、呼吸が日常生活の風・喘・気の三つの有り様であれば、心はととのわない。
その状態で、心を働かせる者があれば、風・喘・気の三つの呼吸の有り様は、思いともなり悩みともなる。
従って、心もまた、集中し安定することは難しい。
もし心をととのえようと願うならば、三つの方法によらなければならない。
一は、心を下に置いて安定することである。
二は、身体をゆったりとすることである。
三は、大気が毛穴に満ちわたり、毛穴を出入りして通い、妨げることがないと思うことである。
この思う心が細やかなものであれば、息はあるかなしかの微かなものとなる。
このように息がととのえば、諸々の思いや悩みが生じる余地はない。修行者の心は一点に集中し、安定し易くなるものである。」(『天台小止観の訳注研究』山喜房仏書林)
まず、止観の観だという。
なお天台小止觀は「修習止觀坐禪法要」という1巻である。
文献の題目、著者は「修習止觀坐禪法要(一曰童蒙止觀,亦名小止觀) 天台山修禪寺沙門智顗述」である。
全体は「具緣第一 訶欲第二 棄蓋第三 調和第四 方便第五 正修第六 善發第七 覺魔第八 治病第九 證果第十」に分けられる。
その、調和第四に呼吸の話がある。
冒頭は「夫行者初學坐禪,欲修十方三世佛法者,應當先發大誓願,度脫一切眾生,願求無上佛道。其心堅固,猶如金剛,精進勇猛,不惜身命」とあって、度脫一切眾生の發大誓願がある。
そして、一、調食、二、調睡眠、三、調身,四、調息,五、調心と説明される。
今日の話は「四、調息」である。
四、初入禪調息法者,息有四種相:一、風,二、喘,三、氣,四、息。前三為不調相,後一為調相。云何為風相?坐時則鼻中息出入覺有聲,是風也。云何喘相?坐時息雖無聲,而出入結滯不通,是喘相也。云何氣相?坐時息雖無聲,亦不結滯,而出入不細,是氣相也。云何息相?不聲不結不麁,出入綿綿,若存若亡,資神安隱,情抱悅豫,此是息相也。守風則散,守喘則結,守氣則勞,守息即定。坐時有風、喘、氣三相,是名不調;而用心者,復為心患,心亦難定。若欲調之,當依三法:一者、下著安心,二者、寬放身體,三者、想氣遍毛孔出入通同無障。若細其心,令息微微然。息調則眾患不生,其心易定。是名行者初入定時調息方法。舉要言之:不澁不滑,是調息相也。
なお、その直前に坐禅作法の説明がある。
「祖師方は死を恐れる心から道を求めて、こういう地道な修行を通して、あるときの縁にふれて生じることも滅することもない仏心に目覚められたのであります。」
そうだと思う。しかし、鈴木正三、盤珪永琢、白隠慧鶴いずれも悟った後の、教化に力を入れている印象が強い。禅が権力構造から外れて、民衆化した江戸時代の特徴かもしれないが、このあたりの度衆生心の菩提心についても是非知りたい。
(自分で調べろ、ということかな。とはいえ、この日記は有難いナレッジソースである。)
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