管長日記「松を栽える」解釈20241009

臨済録の臨濟禅師が松を植えて、黄檗禅師の問いに、「一與山門作境致,二與後人作標榜。」と答える。黄檗禅師は臨済禅師に施してきた棒のことを言う。あとで仰山禅師が将来の事を予言した、という話。行録にある有名な話で、お寺に木を植えることもそうだが、学校や会社などに記念の木を植える習慣の由来にもなっているのではないだろうか。
日記の最後で老師は「かくして松の木は、黄檗、臨済の教えが継承されていく象徴となった」と閉める。

構成
1.開山忌の天気
2.臨済録「師栽松次、黃蘗問、深山裏栽許多,作什麼」

■1.開山忌の天気
開山忌は10/2-3に開催され、その内容は最近の管長日記にあった。準備は一週間以上も前からしているそうだ。

「円覚寺の開山忌は、いつの頃からか、「泣き開山」と呼ばれるほど、よく雨が降るのです。今年は、特に四年に一度の巡堂という行事を行います。巡堂は、外を回るので、お天気は気になるものです。」とあり、確かに最近よく雨が降り、10月上旬は雨がよく降るのだろう。

「開山堂のある正続院にもゆっくりと入ってゆきます。~正続院に植えた松の木が立派に育っていることに改めて気がつきました。正続院という開山様をお祀りしているところに住んで、もう三十数年になります。三十数年もいると枯れてしまう木もあり、そこに新しく植えた木もあるものです。いくつかの木を私も植えているのですが、松の木は二本植えたのでした。」
円覚寺にかかわらず、北鎌倉はかなり緑豊かである。円覚寺を歩いていると、多くの木があるが、北鎌倉の環境に溶け込んでおり、特に意識されない。境内の、特に建物付近はすべて植樹したものなのだろう。街中でそこにあるくらいの木を見るなら、かなり立派な木に感じるだろう。

■2.臨済録「師栽松次、黃蘗問、深山裏栽許多,作什麼」
引用のところ、臨濟録原文は行録の項二である。
《鎮州臨濟慧照禪師語錄》卷1:
師栽松次,黃蘗問:「深山裏栽許多,作什麼?」師云:「一與山門作境致,二與後人作標榜。」道了,將钁頭打地三下。黃蘗云:「雖然如是,子已喫吾三十棒了也。」師又以钁頭打地三下,作噓噓聲。黃蘗云:「吾宗到汝大興於世。」後溈山舉此語問仰山:「黃蘗當時秖囑臨濟一人,更有人在?」仰山云:「有,秖是年代深遠,不欲舉似和尚。」溈山云:「雖然如是,吾亦要知,汝但舉看。」仰山云:「一人指南吳越令行,遇大風即止(讖風穴和尚也)。」師侍立德山次,山云:「今日困。」師云:「這老漢寐語作什麼?」山便打,師掀倒繩床,山便休。

この日記では、その前半の、臨濟と黄檗の対話を採り上げる。
「師が松を植えていると、黄檗が問うた、
「こんな山奥にそんなに松を植えてどうするつもりか。」
師「一つは寺の境内に風致を添えたいと思い、もう一つは後世の人の目じるしにしたいのです」、そう言って鍬で地面を三度たたいた。
黄檗「それにしても、そなたはもうとっくにわしの三十棒を食らったぞ。」
師はまた鍬で地面を三度たたき、ひゅうと長嘯した。
黄檗「わが宗はそなたの代に大いに興隆するであろう。」」

・景徳伝灯録の杉のこと
《景德傳燈錄》卷12: 懷讓禪師第四世 前洪州黃蘗山希運禪師法嗣
師與黃蘗栽杉。黃蘗曰。深山裏栽許多樹作麼。師曰。與後人作古記。乃將鍬拍地兩下。黃蘗拈起拄杖曰。汝喫我棒了也。師作噓噓聲。

・『論語』に「子の曰わく、歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るることを知る。」
「子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也。」
岩波『論語』では子罕第九の項二九(p.128)
岩波文庫の『論語』には、金谷治先生が、「気候が寒くなってから、はじめて松や柏(ひのき)が散らないで残ることがわかる。(人も危難の時にはじめて真価が分かる)」

これは松柏之操とも通じる。仏典、語録の引用はそんなに多くなく、実は中国より日本で好まれる、高名な禅僧が使っている。SATで次の検索結果となった。
1.唐護法沙門法琳別傳卷中 ( 彦琮) (1)
 長吟慚魂弔影耳是知哺糟歠醨者則 松柏之操 彌貞淈泥揚波者則蓮桂之芳逾潔至
2.特賜興禪大燈高照正燈國師語録卷中 ( 宗峯妙超, 性智) (1)
 促鐘鼓之響祝來日新年之吉壽萬歳 松柏之操 龍寶山頂人未必不點頭只是&MT
3.槐安國語卷四 ( 白隱慧鶴) (1)
 促鐘鼓之響祝來日新年之吉壽萬歳 松柏之操 ○十洲三島鶴乾坤四海五湖龍世界
4.永平元禪師清規卷下 ( 道元) (1)
 之操行古今之無比倫也桃李之色・ 松柏之操 朔風未破霜雪何侵學道之廉勤應知

唐護法沙門法琳別傳 史傳部類唐 彥琮撰は作品時間:640~649と古い文献である。

「「松は冬も凋まぬ貞潔の象徴として、法統の連続不断を暗示する。」とは『臨済録訳注』にある衣川賢次先生の解説であります」という通りだろう。

・「山田無文老師の提唱を拝読してみましょう。禅文化研究所の『臨済録』から引用します。」
書籍p.394からの引用。
ただ、字面でとらえてはいけない、という解釈である。
「「一つには山門の与に境致と作し、二つには後人の与に標榜と作さん」ということにもとらわれてはおらんぞ、というところである。
そこに、臨済の完成された人格が表現されているのである。
何もかもでき上がって、しかもそのでき上がったところさえも超えていく。
人間として完成された人格がそこに表現されておるのである。」

黄檗禅師「まア、一つしっかりやってくれ。わが禅宗は、おまえの代になったらますます世の中に発展して行くだろう」、というところに、行録の項一から、この項二の繋がりが見える。

■仰山禅師の予言めいたこと
風穴和尚、つまり 風穴延沼(897-973)のことが記載される。
臨濟義玄―興化存獎―南院慧顒―風穴延沼

これは三聖慧然の原文にあるはずはなく、後世で加えられたのだろう。
実際に、歴史書記載では、風穴禅師以降、宋代まで、成長、拡大していった。

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