4月14日

私の家の隣には荒れた畑がある。これは昔この家の大家が趣味でやっていた跡で、彼はかなり前に亡くなってしまったのでなにもされない。趣味という言葉はなにかと萎縮するようなニュアンスがあるが、この荒地はかなりの大きさを誇っており、大家の趣味に対して熱さがあったのだろうと思う。今ではたまに子供たちが走り回り、争う、平和の戦場になっていてそれを傍観するのが好きだった。でもその趣味もやろうとは思わない。

先日、そこで子供が何人か集まっていた。彼らは荒地の中央あたりで固まり、地面を見つめている。どうやら話をしているのだが、その内容があまりに気持ちが悪い。一人がミスを犯すとそれに対して
「死ね!クソが!てめえなんて!」と罵倒の嵐だ。実際子供がこんなことを言うのはなにも不自然なことではない。そんなことはわかっていてもなぜか私は泣いてしまった。その言葉の中に子供な大人を感じた。あまりに場違いで異質だ。彼らの中の無邪気さを超えた怖さが満ち満ちている。あまりにそのことはショックであった。その日から、カーテンの外を眺めたことはない。

やかんの中で水がはじけていく。時間をかけて水は壊れて、なおり、また壊れる。その破壊と同時に起きる熱エネルギーは湯気へと変わる。最近のやかんは便利で沸騰すると鳴いてくれる。朝なのに暗い部屋で私はおそるおそる走る。二、三度本の山でこけつつ、熱くなった取っ手を感じて離す。その時にあまりにイラッときて、なぜ時代は不便を信仰していくんだと憤慨してしまった。

カーテンの外からは猫が狩りをする声がこだまする。

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