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連合赤軍関係者【随時更新】

まだ製作途中です(無能)
新しい情報がわかったらどんどん更新していきます。


革命左派

永田洋子(あさま山荘事件2日前に逮捕)

1972年2月17日 逮捕時

女性活動家。病院勤務の薬剤師であったが革命運動に専念するため退職。組織活動への熱意は人一倍で、ゲリラ闘争が唯一の正しい方針であると信じ、それに自分のすべてを捧げたいと考えており、しばしば他のメンバーに対し感情を爆発させる。保釈中の坂口弘から突然プロポーズされ、最初は断ったものの結局は受け入れる。坂口との間に子供を宿すも中絶し、それ以降活動を理由に出産を諦めるのはよくないと考えるようになる。1970年9月、精力的な活動が評価され、指導部の選挙で組織のリーダー(獄外)に選ばれる。
1970年12月18日の上赤塚交番襲撃事件の直後、坂口、吉野雅邦と共に非合法活動に移る。地味な容姿で、彼女を「鬼ババ」と呼ぶメンバーもいる。
その後の柴野君虐殺弾劾抗議追悼集会にも革命左派の合法部門の仲間を送り込むが、「集会で火炎瓶を投げろ」「日比谷公園の交番を燃やして、周囲の交通を遮断して戦争を起こせ」とかいう馬鹿みたいな命令を出した。もし実行すれば、当日は数千の機動隊が公園周辺に配備されるが故に、革命左派合法部門の約20名はすぐに逮捕されることが目に見えていた。それでも永田は実行させようとしたが、結果的には集会は穏便に終わった。

榛名ベースで結成した連合赤軍の指導部では森恒夫に次ぐ2番目の地位(副委員長?)となり、メンバーたちに厳しい態度をとる。厳しく追及される加藤能敬を見て「自分が同じような境遇になったら総括できる自信がない」と総括への不安を感じる一面もみられたが、1月中旬以降は寺岡恒一、山崎順の処刑や大槻節子、金子みちよへの徹底した総括要求を断行した。2月上旬、カンパ集めのため都内アジトへ潜伏した際に森と共産主義化を追求した末に彼と結婚、同時に坂口への離婚を宣言し、総括要求を突きつけた。その後、森とともに妙義ベースへ向かうが逃走済みのメンバーと合流できず、警官隊に包囲され、抵抗を試みるが呆気なく逮捕された。

坂口弘(浅間山荘籠城組)

革命左派の活動家。創始者である川島豪とは、同じ東京水産大学出身。工場で働いていたが、1969年9月の羽田空港での火炎瓶闘争に参加し逮捕、同年末保釈され、翌年2月に東京地裁で懲役7年を求刑される。その過程で永田にプロポーズし、結婚生活を始める。
東京水産大学出身のため手旗信号に習熟しており、1970年6月、獄中のリーダー・川島との接見に際し、川島の「俺を獄外に奪還せよ」という手旗信号指示を読み取る。その後同志達が次々と逮捕され、潜伏生活に疲弊する中、活動拠点を「山」に移すことを提案する。

連合赤軍指導部での序列は3番目。死すら厭わない過酷な総括要求に強い疑問を抱いているが言い出せないでいる。さらに寺岡恒一の処刑に消極的な態度だったことを森恒夫に問題視され、山崎順を追及する際に足にアイスピックを突き刺し、さらに処刑の際に最初に山崎の胸にアイスピックを突き刺した。迦葉山ベース建設中、山本順一が消極的な態度を見せ、「山崎の処刑に物理的に手を貸しただけ」と発言したため総括要求することを決め、彼を殴打束縛した。その森と永田がベースを離れてからはリーダーとなり残ったメンバーを指揮。その中で逆エビに縛られていた山田孝を「総括は完了した」として縄を解き解放するが、植垣康博らがふたたび束縛したため彼を助けることができず自責の念に駆られた。その振る舞いが北と永田に問題視され、永田から離婚および総括を要求される。妙義ベースに戻ったのち植垣主導で山越えを決行する。
山を越えて軽井沢に迷い込んだ後、警察のヘリコプターの偵察を掻い潜ってさつき山荘へ侵入。ここで身なりを整え休息をとるが、警官隊が迫ったため銃撃してなおも逃走を続け、あさま山荘へたどり着いた。
あさま山荘では人質を解放せず、徹底抗戦を決定。人質の身代わりになると志願しに山荘に近づいた民間人・田中保彦を銃撃、その後死に至らしめた。吉野雅邦、坂東國男、加藤倫教、加藤元久と共に機動隊に対して抵抗を続けたが、2月28日に機動隊によって制圧、逮捕された。その後死刑が確定するも、坂東が超法規的措置で出国したため、未だに執行されていない。



吉野雅邦(あさま山荘事件参加者)

1972年2月4日に死亡した金子みちよと

千代田区立麹町小・中学校、東京都立日比谷高校出身。小中学校では大泉康雄・津田和男らとともに学級新聞を刊行したりしていた。大泉は2003年に「あさま山荘銃撃戦の深層」を著している。
1967年10月8日、佐藤栄作首相のアジア諸国歴訪を阻止するための第一次羽田闘争に参加したが、機動隊の警報に乱打されて頭を13針も縫った。
第二次羽田闘争では、恋人・金子みちよ の勧めで穏健なベ平連の集会に参加した。しかし吉野は「参加者は自己満足で座り込んでいるだけ」だとして物足りなさを感じていた。

1969年9月4日午前8時頃、坂口弘・雪野建作らとともに「愛知揆一外相訪ソ訪米」に抗議して羽田空港の滑走路Cに侵入し、「毛沢東思想万歳」「反米愛国」の旗を振りながら火炎瓶を投げつけ、逮捕された。
1969年末に釈放され翌年2月東京地裁で懲役5年を求刑される。しばしば組織活動よりも同棲中の恋人・金子みちよとの関係を優先したことから党員資格停止処分を受けたこともある。しかし、かつて10.8(第一次羽田事件?)で頭を叩き割られた経験から「デモも集会もいくらやっても何も変わらなかった」と大衆運動やゲバ棒程度の実力闘争に絶望し、武装闘争路線が正しいと考えているため、組織への不満を漏らす金子をたしなめる。1971年末に金子が妊娠した際には活動を理由に中絶を求めたが、翌年夏に妊娠した際には「革命の子」として生み育ててゆくことに合意する。
1971年8月3日から4日未明にかけて早岐やす子を、8月10日に向山茂徳を、寺岡恒一・瀬木政児とともに殺害した(印旛沼事件)。この犯行の実行犯である吉野は、永田洋子に「大変な闘争をやり遂げた」と評価された。そしてこれが影響し、
革命左派と赤軍派が合体して連合赤軍ができた際には、七名の中央委員の一人に選ばれている。
革命左派時代に資金1万円を使い込んで、偶然知り合った女と一晩遊んだ過去を「自己批判すべきこと」として告白し、金子に離婚を切り出される。寺岡恒一の処刑の際には永田洋子とともに寺岡の問題点を列挙、一同に彼を批判するよう促した。その後、金子への追及が厳しくなると自ら彼女に対して離婚を宣言する。迦葉山ベースで猟師と遭遇したことで植垣康博とともに殲滅戦の計画を練るも事情を知った森恒夫から全否定された。金子への追及が苛烈を極め、お腹の赤ちゃんを取り出すことを提案された際には同意するが、金子はその後まもなく死亡。
あさま山荘では説得にやって来た母の「どうしても撃つというのなら私を撃ちなさい!」という絶叫に対し、苦悩の末に彼女が乗る装甲車に向かって発砲した。


金子みちよ(山岳ベース事件犠牲者)

吉野雅邦の恋人。大槻節子、杉崎ミサ子とは横浜国立大学の同級生。組織内では救援活動に従事しているが、これはもともとは逮捕された吉野個人の救援のつもりが組織全体の救援まで背負わされてしまったためである。自身や吉野を一時権利停止にした永田洋子や坂口弘ら指導部には不満があり、大衆運動より非合法のゲリラ闘争を重視する組織にも反対の立場である。吉野に「組織を辞めて2人で喫茶店でも開きたい」と告げたこともある。その後、指導部と共に北海道に逃れた吉野とは暫く離ればなれの生活を余儀なくされる。後に、共に「山」での活動に合流する。「山」での活動開始後も、吉野の旧友である大泉康雄と接触をもち、吉野の消息を伝える。
1971年11月21日、水道橋の後楽園球場の中にある喫茶店で、大泉に吉野からの手紙を渡した。そのときには既に自身の妊娠を把握していた。金子は大泉に「ねぇ、ヤス君、私達のしていること、どう思う?ばかげていることではないかしら………」と問うた。その後は友人等から支援の資金を集めたあと、母親に懇願して分厚い服や十万円を貰った。金子の母親・トシは「あのとき、赤ちゃんができているのに気がついていたら、わたしはみちよを引きずってでも、家の中に押し込めたのに………」と、事件後かなり経ってから述懐している。
榛名ベースで吉野との離婚を宣言をしたが、永田からは否定され、それまで吉野に付き合う形で活動してきたことへの総括を要求された。その後永田からの追及が厳しくなり、1月下旬に榛名ベースで縛られるが「今の私のままじゃダメだということですか?」と発言するなど、総括や追及に抗議する姿勢を崩さなかった。そのため追及は強まり、丸めた針金で顔を殴られ髪を切られるが「私は山にくるべき人間ではなかった」と発言した。迦葉山ベースでは森恒夫によってお腹の赤ちゃんを取り出す提案がされるが、実行の前に死亡した(1972年2月4日・享年24)。


寺岡恒一(山岳ベース事件犠牲者)

芝高等学校卒業。横浜国立大学工学部化学工学科生。1970年5月の米軍基地の敷地内でのダイナマイト爆破や、翌年2月17日の栃木県の銃砲店での銃器奪取などの作戦(真岡銃砲店襲撃事件)に参加するなど、実行部隊のリーダー格。いささか軽口らしく、会議中に金子みちよの妊娠中絶の噂を口にしたことから、永田洋子に自己批判を求められる。札幌潜伏後の1971年5月、自身を組織のリーダーとし、半合法の活動家を入軍させる組織の改組案を出すが、永田に闘争方針の展望の無さを批判され指導部の改組を取り下げる。6月、高妻と結婚。8月、早岐やす子と向山茂徳を処刑(印旛沼事件)。
連合赤軍指導部での序列は6番目。1972年1月1日に死亡した小嶋和子の死体を埋める際、被指導部メンバーに死体を殴るよう指示し、問題視される。遠山美枝子を逆エビに縛るときにも下品な発言をしたため、指導部はさらに問題視し、森恒夫は彼がベース調査に出かける際に総括を要求した。ベース調査から戻った後に指導部からの厳しい追及を受け、森から「反革命と言わざるをえず、死刑しかない」とされて処刑される(1972年1月18日・享年24)。
坂口弘たちがあさま山荘にて立てこもった際、メンバーのなかに寺岡が含まれていると推測され父親が駆けつけ説得を試みたため、一同は複雑な表情を浮かべた。
この世にいない者の親を呼ぶんだからなぁ」(誰の発言かは不明)


川島豪(1969年12月8日逮捕)

晩年の川島豪

革命左派のリーダー。1969年9月より愛知外相訪ソ訪米阻止闘争での火炎瓶の投擲、米軍基地への火炎瓶投擲やダイナマイト設置等の武装闘争を指示。同年12月8日、米軍基地爆破未遂容疑で逮捕。以降は獄中にいる。革命左派は川島奪還のために銃を求め、1971年2月17日に栃木県の塚田銃砲薬店を襲撃することとなる。


雪野建作(1971年8月に逮捕)

2022年6月

逮捕された川島豪の奪還作戦に必要な銃を求め、真岡銃砲店襲撃事件(1971.2.17)に参加した後、永田洋子らと行動を共にし5月下旬まで札幌に潜伏。楽観的で明るく、奪取した銃をお祝いとしてお酒と一緒に置いたりもした。札幌潜伏時にはこんな短歌を詠んでいる。
暗い夜に 蝦夷地を指して 落ちゆけり 連絡船は 吹雪にゆれつ
新聞に 手配を知りし 雪の朝 老いたる父母は 何思うらむ
潜み居る 古長屋にも 春は来ぬ 窓を埋」みし 雪も消えけり
永田と坂口弘が共産同赤軍派の森恒夫と「猟銃と現金の交換」について協議していた頃、雪野は寺岡恒一と「革命左派組織改組案」を作る。これは「最高指導者の永田に機関誌担当に降りてもらい、坂口を統一戦線の担当、寺岡を党と軍の代表にする」という一種の執行部批判のクーデターだった。しかし、計画は永田と坂口に切り崩されて失敗した。
その後は、真岡銃砲店襲撃で指名手配されていているにも関わらず、警察の目に付く可能性が一番高い、ノンセクト武闘派との折衝を任され、1971年8月に新宿で逮捕された。
その後は、現在に至るまで積極的に連合赤軍について証言している。


石井勝

石井(若林)功子の夫。1969年11月、神奈川県内の米軍基地にダイナマイトをしかけ、川島豪と共に指名手配になる。その後もダイナマイトをしかけ続けるが、12月に逮捕される。

佐藤保

神奈川県内の米軍基地に石井勝と共にダイナマイトをしかけるが、警備員に見つかり逮捕される。坂口弘は佐藤が非合法活動を行っていたことにショックを受ける。

有泉健一

1969年11月、石井勝と共にアメリカ領事館に爆弾を仕掛ける。未遂。

荒井功

革命左派の中心メンバーの一人。1969年12月、ダイナマイトを持っていたところを逮捕される。

河北三男

革命左派の創始者の一人で、最古参の活動家。最近の爆弾ゲリラ路線に危惧を抱いており、指導部を説得して方針を変えようとするが、支持を得ることができず、1969年12月、組織からの離脱を宣言。その6年後に病死する。

中島衝平(1971年2月17日逮捕)

東京水産大での坂口弘の学友で、一緒に白浜の漁業研修に参加していた。
1969年12月8日に逮捕された革命左派リーダー・川島豪奪還のために民間の銃砲店を襲撃するということに対し、中島は「人民のものは針1本、糸一筋もとらない」という毛沢東思想に反するとして反対。しかし坂口弘は「銃砲店は警察権力と一体化しているので、その末端機関とみなすべきだ」と押し切っている。
1970年12月下旬、「水谷弘」名義で茨城県下館市内のアパートの一室を借り、尾崎康夫・雪野建作・寺岡恒一・坂口弘・永田洋子・瀬木政児とともに、このアパートを拠点として周辺の銃砲店を物色する。
館林市内に「吉田邦雄」名義でこれまたアパートの一室を借り、「銃砲店の店員を縛りあげる訓練」などを行っていた。
1971年2月17日、栃木県真岡市の塚田銃砲薬店襲撃に実行犯のリーダーとして尾崎・雪野・寺岡・瀬木・坂口とともに参加し、猟銃を奪取した(真岡銃砲店襲撃事件)。
中島は尾崎康夫とともに盗難車で逃走中に警察の検問に遭遇。車のキーがささっていないことを警官に指摘されるとその場から車で逃亡したが午前4時頃に事故を起こす。その後ごみ捨て場に尾崎とともに隠れていたところを警察犬「アルフ」に見つかり逮捕された。
その後警察に自供した。

尾崎康夫(1971年2月17日逮捕)

連行される尾崎(中央)

党員資格停止中の吉野雅邦と神戸の調査を行う。1971年2月17日、川島豪奪還作戦のために必要な銃を求めて真岡銃砲店襲撃事件に参加。銃の奪取後は中島衝平とともに車で逃亡するが、検問に引っかかる。車のキーが刺されていなかったので盗難車であることがバレて、その場から逃亡。その後、商店に突っ込んで車を放棄し、中島とともにゴミ箱に隠れるも、警察犬に見つかり逮捕。結果として組織を危機に陥れることとなる。


尾崎充男(山岳ベース事件犠牲者)

1970年5月、寺岡恒一、加藤能敬らと共に都内の米軍基地にダイナマイトを仕掛け爆破させる。
1971年6月の時点では救対担当。榛名ベースに合流し、穂高ら救対メンバーを敵視。
その一方で交番から銃器を奪取する上赤塚交番襲撃事件(1970年12月18日)に参加せず、結果として柴野春彦が死亡したため問題視される。
12月29日、森恒夫から女性問題も含めて日和見主義的と批判され、それを克服するべく坂口弘を相手に格闘訓練を行う。坂口がほぼ一方的に殴り返され続ける形で決闘は終了。しかし、決闘終了後の
森「よくやった」
尾崎「おやじさん(森の愛称)ありがとう
というやりとりを見た永田は「すべてを取りしきっているのは自分だといわんばかり」の森の「鷹揚さ」とそれに「媚び」ている尾崎に苛立ち、「甘えるな」と尾崎を批判。
その後行われた指導部会議の最中、尾崎が遠山美枝子に「ちり紙をとって」と言ったのを聞いた森は「甘えている」と批判。「総括する態度ではない」として指導部全員で尾崎を殴り、立ったまま総括するよう命じ、食事も与えず、用便にも行かせないことにした。
12月30日、午前の指導部会議において前夜に尾崎の見張りをしていた吉野雅邦が「何度も横にならせてくださいと言うなど総括をする態度ではない」と報告。森は尾崎を縛ることを提起し、森と指導部は尾崎を殴り、立たせたまま縛った。
12月31日の夕方、メンバーが食事の準備をしている傍らで尾崎が「すいとん…すいとん…」とつぶやくのを聞いた森は尾崎を批判。森が「加藤能敬の(総括の)時は、顔面を狙ったが膨れ上がっただけで気絶しなかった。今度は腹部を中心に殴って気絶させよう」と尾崎の腹部を殴り気絶させることを提起するが、森たちに腹部に膝蹴りをされた尾崎は気絶しなかった。膝蹴りを中止した後、森は尾崎が気絶しないことを批判したが、その日の夜、尾崎の死が確認される。森はその場で全員に報告することはせず、山田孝と協議した結果、「共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北に繋がっていった」「本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない」とした。永田は全体会議で、尾崎の死を「総括できなかったところの敗北死」と説明した。山岳ベース事件最初の犠牲者。


加藤能敬(山岳ベース事件の犠牲者)

和光大学生。寺岡恒一、尾崎充男らと共に米軍基地にダイナマイトを仕掛ける。もともとは半合法部隊所属だったが、1971年6月、入軍。同年8月に早岐やす子・向山茂徳の処刑が検討された際には、「人民内部の矛盾を暴力で解決するのは間違い」と疑問を持つ。小嶋和子に告白したことがあり、その想いをずっと抱き続けている。
11月下旬に是政アジトで逮捕されるがその後釈放。12月中旬に指導部への批判文書をしたためて榛名ベースに向かったが、批判の内容がの連合赤軍結成を考慮していないものであったため取り下げる。拘留中の言動について総括を要求されているにもかかわらず小嶋とキスしたこともきっかけに、小嶋と共にメンバー全員から殴られ、縛り付けられた。この暴行中、小嶋姉妹など数々の女性メンバーとに関係を告白した。その後総括に集中する態度を見せたために緊縛が緩められたが、1月4日の午前中、森恒夫から厳しい追及を受けた直後に力尽きた。



柴野春彦(上赤塚交番襲撃事件参加者)

湘南高校出身、柔道部に所属。テレビのコントや落語が好きでユーモアにあふれ、相手を気遣うように話す好青年だった。一方、柔道の試合で格上相手にしぶとく食い下がり引き分けに持ち込んだり、体重別の試合のための無理な減量で体調を崩すなど、粘り強い性格と責任感の強さもあった。
ゲリラ闘争路線を熱烈に支持しており、警察に指名手配されたために大槻節子とともに都内のアパートに潜伏し、ほとんど外出しなかった。
川島豪の逮捕後の会議でリーダーに選ばれた永田に「リーダーとは最初に死刑になる人間」と冗談めかして予言した。
その後、川島奪還のための銃奪取作戦のキャップに「指名手配されていて公然活動ができない」「責任感が強い」といった理由で任命された。
1970年12月18日、銃奪取作戦に渡辺正則(横浜国立大学生)、佐藤隆信(神奈川県立川崎高等学校生)とともに参加。「車が故障したので友人の迎えを待つ」として交番に入り込み、高橋?という警官を袋叩きにする。しかし奥から出てきたもう一人の警官(阿部巡査長?)から銃弾を浴び死亡した(上赤塚交番襲撃事件)。他の二人も銃撃されて重傷を負った。

石井(若林)功子

石井勝の妻である女性活動家。ゲリラ闘争に使用するダイナマイトを入手し永田洋子に手渡す。体の弱い永田に厳しい言葉で接することもある。赤軍派の武装闘争を第三者的に批評した発言が、新リーダーになった永田から「ゲリラ闘争に対する理解が足りない」と咎められることになり、突然首都圏の指導部から外れ関西に赴くことを求められる。そして大阪での活動中に(直接関わっていない)銃器奪取事件の容疑で逮捕され、その際、アパートに隠し持っていたダイナマイトを押収されてしまう。

大槻節子(山岳ベース事件犠牲者)

かわいい

合法部門の女性活動家。渡辺正則の恋人でおとなしい性格。金子みちよ、高妻とは早稲田大学の同級生。組織の指示で恋人に去られた後の柴野春彦の生活を世話していた。交番襲撃作戦以前に、永田洋子から「今回の任務がすんだら渡辺と結婚したら」と勧められ当惑する。1970年12月18日の上赤塚交番襲撃事件で渡辺が逮捕されたことショックを受けるが、その後、向山茂徳と付き合い始める。しかし後述のとおり組織情報漏洩への危機感から向山「処刑」に加担する。
榛名ベースでは植垣康博と恋仲になるが、森恒夫と永田からは女性らしさを捨てきれていないと評価されており、総括するよう指示されている。寺岡恒一、山崎順の処刑後、永田からの追及が厳しくなり「なんで総括を要求されるのかわからない」と涙を流して困惑した。その後、北からの追及で山岳ベースから逃げ出した向山と会った際に彼と寝たことを告白。大きく問題視され縛られるが、森からは「総括しようとしている」と評価されている。しかし迦葉山ベースでは屋外に束縛され衰弱、さらに永田に因縁をつけられ、植垣らメンバーが殴打するため集結したが、その時には既に死亡していた(1972年1月30日)。

前澤虎義(逃亡)

2012年

軍事訓練で空手を教えていた筋力逞しい兵士で、連合赤軍の中では七人のCC(中央委員)に次ぐ8番目に位置していた。
三国工業に務めていたが、逮捕された革命左派リーダー・川島豪の奪還のために潜伏することになり、上司に慰留されるも会社を辞める。このことが、革命左派の資金不足に繋がっていく。
柴野春彦が上赤塚交番襲撃事件(1970年2月18日)で射殺されたあとは、柴野君虐殺弾劾抗議追悼集会に革命左派の代表者として参加した。
その後、早岐やす子が最初に「東京に戻りたい」と言い出した時には、早岐の処刑を検討する永田らに「闘争というのは自発的に戦うもので、自分が本当に国家権力を憎いと心から思えなければ戦えるものではない。逃げたいと思うような者を入れたのは自分たちの責任だから、それは自分で償わなければならない。もし、仮に、彼女が我々を敵に売るようになったとしても、そんなことで潰れるような組織はいずれ潰れるのだかららしかたないと諦めるべき」と反発するが、早岐に加えて向山茂徳の処刑も検討された際には、永田に説得される形で賛成した(1971年8月、印旛沼事件)。
榛名ベースではメンバーの暴力に加担。その一方で東京に行き救対メンバーから資金を受け取った後、自宅に帰るなど迷いが見られる。自宅で弟が持っていた大江健三郎の小説の一節「よろしい。僕は地獄へ行かう」が目に入り、山岳ベースへ戻ることを決意した。
山崎順の処刑(1972年1月18日、翌日死亡)に加担後、迦葉山ベースの建設に加わるが、山本順一、大槻節子、金子みちよが次々と命を落とす地獄絵図に耐えられなくなり、1972年2月7日、榛名ベース解体翌日に一同がバス停でバスを待つ間に逃走した。
1972年8月11日付の前澤辰義上申書には、暴力的総括の発端や、総括に対する前澤の考え北の変化が詳しく書かれている。

渡辺正則(上赤塚交番襲撃事件参加者)

佐藤隆信(上赤塚交番襲撃事件参加者)

渡辺は大槻節子の恋人で柴野と同じ横浜国立大学生。佐藤は神奈川県立川崎高等学校生。
渡辺・佐藤は、柴野春彦とともに3人で交番での銃器奪取作戦に参加(1970年12月18日)。警官の銃弾を浴びて負傷し逮捕される(上赤塚交番襲撃事件)。


杉崎ミサ子(1972年2月16日逮捕)

半合法部の活動家。金子みちよ、大槻節子とは横浜国立大学の同級生。1971年6月、寺岡恒一と結婚。
1971年8月10日、偶然にも向山茂徳の処刑に関わることになってしまった。
榛名ベースでは一人前の革命戦士になるため寺岡との離婚を宣言し、森恒夫から高く評価される。寺岡の処刑(1972年1月18日)では必死の形相で彼の心臓にアイスピックを突き刺した。
1972年2月16日、坂口弘・奥沢修一と共に迦葉山に向かったが、妙義山を出発したあとに警察の職務質問に遭った。坂口はどさくさに紛れて逃亡に成功したものの、杉崎と奥沢は車を包囲されて立て籠もり、インターナショナルを熱唱したり放尿するなどしたのち逮捕された。


瀬木政児(逃亡・逮捕)

1971年2月17日、逮捕された川島豪を奪還するための作戦に必要な銃を求めて真岡銃砲店襲撃事件に参加。永田らと共に5月下旬頃まで札幌に潜伏。指名手配写真が似ておらず、買い物を頼まされることが多かった。
1971年8月、早岐やす子と向山茂徳の処刑(印旛沼事件)にかかわるが、早岐の処刑後、組織をやめたいと言うようになる。数度の脱走未遂の末、松本志信と共に脱走、直後に名古屋で逮捕される(1971年10月23日)。
脱走後、彼の残したノートを見た永田は、彼の革命運動に対する積極的な態度を「欺瞞だ」と批判した。


松本志信

瀬木政児の彼女。瀬木が入軍して以来、二人の間の連絡はしばらく途絶えていたが、(早岐やす子処刑後の)瀬木と再会し、共に活動するか一緒に逃げようと言われ、共に活動することを選ぶ。「反米愛国路線はよくわからない」と話すが、すぐに変装としてパーマをかけるなど、活動には積極的。脱走しようとする瀬木を引き止めたこともあったが、最終的に瀬木と共に脱走する。しかし瀬木より先に「真岡銃砲店で猟銃を奪取した瀬木を匿った疑い」で逮捕された(1971年10月23日)。


山本順一(山岳ベース事件犠牲者)

京浜安保共闘中京支部の活動家。名古屋での交番調査の車を提供。
1971年12月中旬に突然榛名ベースにやって来た。仕事を辞めて坊主頭になり、妻子も同伴している。1972年1月中旬に森恒夫が用事で高崎へ向かう際運転役を務めたが、車を故障させたことで森が用事を果たせなかったため総括を要求される。しかし「森さんの指摘は間違っている」と反論した。
寺岡恒一の処刑後の全体集会で「スターリン主義がわかった。」と発言し、森から疑問視される。迦葉山ベース建設中に消極的な態度を取ったため坂口弘から「山崎順の処刑にどのように関わった?」と問われると「物理的に力を貸しただけ」と発言、一同から問題視される。翌日一日正座するよう命じられ「山にくるべきではなかった」と涙を流して悔やんだ。その晩、ベース建設メンバーから殴打され、逆エビに縛られる。森ら榛名に残っていたメンバーが迦葉山ベースに集結した際「ちくしょう!俺は気が違ったんだ!」と慟哭する。森の追及に対し舌を噛む素振りを示すなど抵抗の姿勢を最後まで崩さず、その晩死亡した(1972年1月30日)。

早岐やす子(印旛沼事件犠牲者)

白山にアジトを提供していた。活動歴は短い。ノンポリの医者の彼氏がいるが、結婚の意志は無い。組織内での痴漢問題の解決を条件に入軍入山。しかし、山岳ベースでの雑魚寝向山茂徳の脱走後、自分も山を降りたいと望むようになるが認められず、脱走未遂を起こす(その際も組織への配慮はしていた)。
その後、1971年7月15日の交番調査中に脱走。バイト先で山に行っていたと話したり、半合法部のメンバーに山での生活の不満をぶつけたりしたことで永田らの怒りを買った。
離脱後は喫茶店でアルバイトをしていた早岐だったが、1971年8月2日に大槻節子らに向島アジト(小林荘)に呼び出され、翌8月3日の午後四時から大槻らが買ってきた飲み始め、午後10時には眠りについた。
その後、瀬木政児が早岐を起こし「ちょっと話がある」と車で連れ出された。他には小嶋和子(運転手)や金子みちよが乗っていた。
しかし、アジトから数十メートルのところで金子と入れ替わりで寺岡恒一と吉野雅邦が乗り込んでくると、早岐は「騙された」と呟いたという。
印旛沼に車で連行され下車した後、寺岡や吉野雅邦らによって腹部を殴打・足蹴りされ、さらに紐を首に巻かれて両側から引っ張られ、処刑される(印旛沼事件)。着衣や携帯品は全て剥ぎ取られて土中に埋められた。内ゲバによって組織内で殺された最初の人物。

向山茂徳(印旛沼事件犠牲者)

個人の感想だが、明治・大正の天皇に似ていると思う

半合法部の活動家。岩田平治とは高校の同級生。「いちテロリストとして闘いたい」と活動に加わり、入軍入山。また、大槻節子との交際を始める。しかし、山を降りることを望むようになり、脱走。その後、公安と酒を飲んでスリルを味わっていることや、山のことをネタにした小説を書いていることを尋ねてきた大槻に話すが、そのことが大槻に向山処刑の決意をさせることになる。
1971年8月10日の向山の殺害は、当初は酒に睡眠薬を混ぜて眠らせ外に連れ出して殺害するはずであったが、向山が帰りを急いでウイスキーを飲もうとしないので、急遽計画を変更し、殴って気絶させて連れ出すべく、寺岡恒一・吉野雅邦・瀬木政児が回田荘に乗り込んで向山を襲撃した。本来は向山よ引き止め役で、殺害計画すら知らされていなかった金子みちよと杉崎ミサ子も加勢させられた。向山らタオルで首を絞められ殺害された。20歳没。遺体は早岐やす子と同じようにほぼ全裸の状態で印旛沼付近に埋められた(印旛沼事件)。早岐に続いて組織内で殺された二番目の人物となる。


中村愛子

半合法部の活動家。1970年11月に府中アジトで逮捕される。その際に居合わせた大槻節子を「関係ない人だ」と庇う。12月の暮れに榛名ベースに合流。永田に気に入られているらしく、厳しく追及されることなく、他のメンバーと共に問題があるメンバーの殴打に加わっている。山崎順から求愛された時には照れくさそうにしていたが、彼が1月中旬に厳しく追及された際には殴打に加わっている。迦葉山ベースから榛名へ移動する際、坂口に託された山本順一夫妻の赤ん坊を泣きながらあやしていたところを警官に保護された(1972年2月7日?)。


岩田平治(脱走)

2022年6月

半合法部の活動家。印旛沼事件で処刑された向山茂徳とは高校の同級生。遠山美枝子の入山の際、彼女の日記を預かる。榛名ベースでは、小嶋和子・加藤能敬・進藤隆三郎・尾崎充男への暴力に加担。
尾崎・進藤・小嶋の死後、1972年1月3日夜の会議で「柴野春彦の死は泰山より重い。尾崎・小嶋・進藤の死はブルジョワ的死であり、鴻毛より軽い。我々は同志柴野春彦のように生き抜かなければならない」と発言し、森恒夫は「岩田は俺の若い頃にそっくりだ」とご満悦だった。
しかし、小嶋和子(この時既に“敗北死”している)の妹である史子を榛名ベースに連れて行く任務がうまくいかず、一緒にいた伊藤和子に「俺は反革命に徹する」と逃亡を宣言して立ち去った。この時、組織から預かっていた資金は返している。
岩田の逃亡は、連合赤軍に榛名山ベースの放棄と迦葉山ベースへの移動を決断させた。

伊藤和子(軽井沢駅逮捕組)

半合法部の活動家。榛名ベースに合流しており、メンバーへの暴力には険しい顔をしながらも加担している。岩田平治の離脱後、独りでベースに帰還した際の山崎順の不用意な一言が、彼への追及を強める決定打となった。最後の山越え逃走にも参加したが、寺林真喜江や植垣康博・青砥幹夫(2名とも赤軍派)と共に軽井沢駅で逮捕された。

小嶋史子

小嶋和子の妹で名古屋の高校生活動家。加藤倫教とは高校の学連で知り合い、のち肉体関係を持つ。一方で、府中是政のアジトにて加藤能敬とも肉体関係を持った。加藤倫教・元久兄弟らと共に山岳ベースに合流する。
その後、是政アジトにて加藤能敬と共に逮捕された。すぐに釈放されたが、榛名ベースには合流していない。


寺林真喜江(軽井沢駅逮捕組)

名古屋の活動家。加藤倫教・加藤元久兄弟、小嶋史子と共に山岳ベースに合流。大槻節子が永田洋子から批判を受けた際にははじめは穏やかにアドバイスを送っていたが、追及が強まると同調して態度を硬化した。霧島の薪集めの際も厳しい態度で植垣康博とともに彼の振る舞いを監視し、批判的に森恒夫に報告した。山越え後の軽井沢駅で切符を買う際、ひどく汚れた姿だったため駅員に怪しまれ、出発を待っていたところを警察隊に囲まれ、逮捕された。

渡辺道夫

坂口弘らが1969年9月5日に羽田空港を襲撃し外相の訪ソを阻止しようとした事件と同日、寺岡恒一(+α?)とアメリカ大使館に火炎瓶を投擲した。
翌年1月31日、寺岡は懲役2年、執行猶予3年だったのに対し、渡辺は懲役2年の判決が下された。これは、「このまま外にいたらまた同じようなことを起こすだろうから、必ず息子を刑務所に入れて、“仲間”の元に戻らせないようにしたい」という渡辺の母の思いが強かった。

笠間ヨシ江

合法部門の活動家。上赤塚交番襲撃事件(1970.12.18)で警官に撃たれ死亡した柴野春彦を追悼する「柴野君虐殺弾劾抗議追悼集会」での暴動方針(永田洋子発案)に強く反対し、ポスター貼りの際に一人だけ検挙されなかったことから、坂口弘・寺岡恒一からスパイと疑われる。真岡銃砲店襲撃事件(1971.2.17)を前に、指導部により処刑が検討されるが、埋める場所・執行要員が確保できなかったことから代わりに組織との連絡を断たれることになる。後にスパイ疑惑は晴れるが、組織を離れる。
その後は、殆ど他に支援者がいなくなった坂口弘死刑確定囚の支援活動を影で支えている。



共産主義者同盟赤軍派



塩見孝也(1970年3月15日逮捕)

塩見の『生前葬』にて

共産同赤軍派の創始者。
1941年5月22日、大阪府大阪市に生まれる。その後、岡山・広島と転居。1962年に京都大学文学部に進学し、第二次共産主義者同盟(第二次ブント)の活動家となる。しかし、1969年にさらぎ徳二ら関東派と対立し、「受動的ではなく能動的な階級闘争」が必要だとして、同年7月に関西ブントを中心に共産主義者同盟赤軍派を結成。「労働者国家(キューバ等)を根拠地として軍事訓練を行い、革命軍を各地に送って世界共産主義革命をすべき」だとする国際根拠地論、「ブルジョワジーは既に破局段階に陥っているにも関わらず、機動隊の武装や軍隊の力で革命勢力を弾圧し、延命を図っている。侵略戦争のためのファシズムを準備している。この過渡期世界で、われわれが軍を持ち前段階蜂起を果たせば、それは本格的な蜂起の起爆剤となり、世界同時革命への道が拓かれる」という前段階蜂起論を提唱した。
1970年9月、暴力革命の前段階として東京・大阪で警察署や交番を襲撃させた(東京戦争・大阪戦争)。
国際根拠地論に基づき、航空機をハイジャックし国外に移動する「フェニックス作戦」を計画するも、実行直前の1970年3月15日に東京都豊島区駒込で逮捕された。田宮高麿ら残されたメンバーは、同月31日に日本航空の旅客機をハイジャックして北朝鮮に逃亡した(よど号事件)。


田宮高麿(よど号グループ)

通称・まろ

1943年1月29日生まれ。岩手県出身。大阪府立四條畷高等学校卒業。大阪市立大学第二部(夜間部)で学生運動に参加。ブント内の組織である「共産主義青年同盟(通称キム)」の常任委員長となる。その後、ブントから分裂した赤軍派で政治局員・軍事委員長を務めた。1970年3月31日に仲間8人とともによど号をハイジャックして北朝鮮に亡命。犯行声明の最終章には、
『我々は明日、羽田を発たんととしている。我々は、かつて如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が、内から湧き上ってきたことを知らない。我々は、この歴史的任務を遂行しうることを誇りに思う。我々は、日本の諸同志に心から感謝する。この歴史的任務を我々に与えてくれたことを。我々は、我々に与えられたこの歴史的任務を、最後まで貫徹するだろう。日本の同志諸君! プロレタリア人民諸君!全ての政治犯を奪回せよ!前段階武装蜂起を貫徹せよ!前段階武装蜂起⇄世界革命万歳!共産主義者同盟赤軍派万歳!そして最後に確認しよう。我々は、明日のジョーである。1970年3月30日午後10時30分 田宮高麿』
とあった。
1995年11月30日に平壌で死亡したとされ、当局は死因を心臓麻痺と発表している


森恒夫(1972年2月17日逮捕)

逮捕時

連合赤軍のリーダー。
少年時代は「泣き虫のお母さんっ子」で、大阪府立北野高校時代は剣道部の主将を務めていたが、「影の薄い目立たない存在」だったという。大阪市立大学中国語学科在学中に学生運動に飛び込む。当初は構造改革派のフロントに所属していたが、後に共産主義者同盟関西派の田宮高麿と出会い、以降田宮の忠臣になった。
1965年11月、日韓条約批准阻止デモに参加し逮捕され、刑事に自供。
1969年6月、内ゲバで監禁されて自己批判を迫られたときは、相手に従って自己批判し、泣いて詫びたために釈放されたという(自己批判を拒んだ同志の藤本敏夫はリンチを受け死亡)。
1969年の7月6日の明大和泉校舎での関東派襲撃事件では直前で敵前逃亡し大阪に戻る。そのあとしばらくして森はすべての任務を放り出して仲間の前に姿を見せなくなっている。
その後は事実上赤軍派を離脱しており、「加藤さん」という女性と婚約して後に子供をもうけている。

以上のような行動が問題視され、大菩薩峠事件(1969年11月5日)で壊滅状態になった赤軍派で森の復帰話が出た際には田宮からは「森は度胸がない」と酷評されるも、議長であった塩見孝也の強い意向もあったことで復帰を許され、赤軍派に参加。
1969年から1970年にかけて、赤軍派幹部を含む活動家が逮捕、あるいは海外の「国際根拠地」に移動すると、三里塚闘争で黙々と拠点作りをしていた森の名を挙げられ、塩見により森は政治局員に昇進。その後、塩見や高原浩之が逮捕されると国内赤軍派の獄外メンバーの事実上のリーダーとなり、M作戦(金融機関強盗)などを指揮したが、1971年3月に捜査当局から銀行強盗を指揮した罪で指名手配された。その後、京浜安保共闘(革命左派)との連携を指導した。しかし森は当初から革命左派メンバーに対して高圧的で、革命左派の瀬木政児の離脱問題や是政アジトでの大量逮捕など、革命左派を追及する材料を用意していた。
同年11月4日に革命左派のメンバー9名が新倉ベースに到着。しかし、革命左派メンバーと先に合流した植垣康博から「革命左派が水筒を持ってきていない」ことをトランシーバーで連絡されると、進藤隆三郎・青砥幹夫に指示して、革命左派を責めさせた。しかしその後、革命左派の永田洋子が反撃に出る。赤軍派の遠山美枝子(高原浩之政治局員の妻)の「指輪・化粧・長い髪」を批判され、「赤軍派は山を甘く見ている」とまで言われてしまう。これが後の「総括」「共産主義化」に繋がる。
その後合同軍事訓練が始まる。最終日の12月7日、森は軍事訓練総括の演説を行っていくうちに、自分の生い立ち、ブント時代の総括へと話が脱線していき、やがて突然黙り込むと、身を震わせながら嗚咽し涙を流した。この涙は、「合同軍事訓練の実現と他派との一体化を将したという満足感」によるものと思われる。
加藤能敬と小嶋和子の問題を追及し正座の強要や食事制限、遂には「総括を深化させるために同志を殴って気絶させる必要がある。気絶から意識が戻った時には革命戦士となり、共産主義についての理論を受け入れる」と独自の理論を展開し、総括=暴力の基準を作った。
寺岡恒一を追及した際には、彼の行動が反革命と言わざるをえないとして死刑に処し、さらに死刑に動揺した山崎順を追及。彼が逃げようとしていたことを打ち明けると、同じく死刑を言い渡して殺害。
その後は永田に同調するかたちで大槻節子と金子みちよを追及。2人の総括が進んでいないと判断して柱に縛り付けた。迦葉山ベースでは山本順一へ厳しい追及を課した後、カンパ集めのため東京アジトへ潜伏。そこで山本の死を悲しそうに告げた坂口弘を問題視し、総括を要求。また自らの「共産主義化」の追求のため妻と離婚し、永田と結婚することを決定した。
2月17日、警察の包囲網が迫るなか妙義ベースへと向かうが、逃走済みのメンバーと合流できず、警官隊に包囲される。「もう生きてみんなには会えないな」と弱気な発言をしつつも、必死の形相で警官に襲いかかる。警官1名を負傷させたが、格闘の末永田とともに逮捕された。
1973年元日、初公判を前に東京拘置所の独房で首を吊った状態で発見された。発見時まだ心臓はかすかに動いており、ただちに蘇生措置が講じられたが間もなく心停止し、死亡した。28歳没。塩見孝也と坂東國男宛に遺書が残されており、発見された遺書には「自己の責任の重さに絶望…自らに死刑を下す」と綴られていた。

望月祐史(1969年7月25日、内ゲバで死亡)

左翼史上初の内ゲバの犠牲者となってしまった。

同志社大生、共産同赤軍派の活動家。共産同の内部対立の過程で、1969年7月6日に共産同中央委員会の会議のために幹部が寝泊まりしていた明治大学和泉校舎を仲間とともに襲撃し、仏徳二議長に自己批判を強要してリンチを敢行(1969年4月28日に武装デモを行って破防法が適用されていた仏徳二は置き去りにされ、機動隊が逮捕)。
しかし翌日、報復的に、『叛旗派』に結集する中大のグループ100~150人が、赤軍派が拠点としていた東京医科歯科大を襲撃。望月は塩見孝也・花園紀男・Aとともに捕縛されてリンチを受ける。
7月25日の明け方、4人は建物の四階から消防用のホースを垂らして脱出。しかし、望月は手を滑らせて転落し重傷。「リンチにより右手が機能しなくなっていた」ことが原因の一つとして考えられる。急性硬膜下血腫、頭蓋骨骨折を負った望月は、65日間生死を彷徨ったのち、9月28日に息を引き取った。新左翼運動史上、初めての内ゲバによる死者だった。
望月は脱出する日の朝、仲間に「塩見さんさえ逃せれば良い」「殺されはしないだろうから一緒に残っても良い」と言われるが、「政治というのは、一度決めたらやるもんだよ」と返答。淡々として、諭すようで穏やかな表情だったという。

高原浩之(1970年6月7日に逮捕)

共産同赤軍派の幹部。京大。赤軍派創設時の7人の政治局員の一人。
1970年6月7日、妻の遠山美枝子とデートしているところを逮捕される。しかも高原はメンバーのアジトや支援者の住居録まで持っていた。赤軍派が他派から「世界同時革命などと大ボラを吹くわりには、合法ボケしたお粗末な組織」と呼ばれる一因にもなってしまった。


八木健彦(大菩薩峠事件で逮捕)

共産同赤軍派の幹部。京大。赤軍派の政治局員副議長を務めるが、1969年11月5日、軍事訓練のために大菩薩峠の「福ちゃん荘」にいたところを、凶器準備集合罪の現行犯により機動隊員に逮捕された。

上野勝輝(大菩薩峠事件で逮捕)

共産同赤軍派の幹部(政治局員)。京大医学部。1969年11月5日、軍事訓練のために大菩薩峠の「福ちゃん荘」にいたところを、凶器準備集合罪の現行犯により機動隊員に逮捕された。

堂山道生(1969年末に逮捕)

共産同赤軍派の幹部(政治局員・組織委員長)。同志社大学生。1969年9月30日の東京戦争壊活動防止法違反により、同年10月中旬に逮捕された。
1970年5月に保釈され、塩見孝也逮捕(3月15日)・よど号事件(3月31日)で田宮高麿らが国外脱出したあとの赤軍派で指導的な地位につくが、12月に「森恒夫は信用できない。あんな奴と一緒にはやっていけない」といった趣旨の書き置きを残して、赤軍派を離脱した。
2021年に78歳で亡くなっている。


花園紀男(1969年末に逮捕)

共産同赤軍派の活動家。薩摩隼人で赤軍派創設時における7人の政治局員のひとり。関西の大学出身者が多い赤軍派では珍しく東京の早稲田大学の雄弁会出身。ブント(共産同)時代に防衛庁突入を指揮して「軍事の花園」と言われた赤軍派きっての武闘派。
1969年11月上旬、前年10月21日の国際反戦デーでの爆発物取締罰則により逮捕された。


川島宏

赤軍派の活動家。東大医学部生。1969年11月5日の大菩薩峠事件に前後して赤軍派の幹部が大量逮捕されると、翌年3月4日、あの(皆さんご存知)森恒夫とともに政治局員に抜擢された。その後は、田宮高麿ら国際根拠地を目指す国際委員会と対を成す、国内での組織再建を目指す国内委員会に属した。


植垣康博(軽井沢駅逮捕組)

弘前大学理学部の全共闘活動家。全共闘学生活動家。静岡県出身。1969年夏、大学バリケードストライキと本部棟占拠に参加するが、参加学生は少なく方向性も定まらず、全共闘内ではストの自主解除まで検討される。そんな最中、大学を訪れた赤軍派の梅内恒夫にオルグされ赤軍派への参加を決意、大学を退却し上京する。しかし、赤軍派から指示らしい指示は与えられず、同年10月21日の国際反戦デーでは赤軍派と関係なく新宿での投石戦により検挙、以後1年あまりにわたって投獄される。
1970年末にようやく保釈されたのち、ほどなくして上京し赤軍派での活動を再開する。潜伏先のアジトでは赤軍派の女性活動家4名と寝起きし、雑魚寝で悶々とした夜を過ごす。また収入も途絶え、貧乏生活を余儀なくされているが、半ばそのような生活を楽しんでいるように見える。革命左派との初めての合同集会で司会を担当。その後「組織再編」に伴って非合法部入りし、坂東國男の指揮する部隊の下でG作戦に従事しながら東日本各地を転々とするようになる。赤軍派の非合法部隊に爆弾の製造方法を教えに行った際、金子みちよと永田洋子に痴漢行為をして問題視される。新倉ベースでの合同軍事演習で大槻節子と仲良くなり、寝ている彼女にキスをするなどしたがこの時点では咎められず、大槻も気にする様子はなかった。
榛名ベース合流後は、大槻と恋仲になる。森恒夫からは大槻のことばかり気にしていて問題だと思われている。寺岡恒一の処刑に積極的に関わり、新たな山岳ベース建設の中心人物として森からは信頼されつつあった。しかし恋仲である大槻が縛られる事態となり、から総括を要求されてしまう。翌日は自ら正座をしていたが、ベース建設に加わるよう促された。森らが合流した際、大槻に新倉ベースでキスをしたことを咎められ、大槻への殴打に無理矢理同意させられるが、大槻は既に事切れていた。迦葉山ベースの放棄など目まぐるしく状況が変わるなか、妙義山を越えて山越えを決行することを提案。坂口弘から先導を頼まれた際には陽気に同意した。
靴底が剥がれ凍傷が悪化するなか山越えに成功するが、地図に記載されていなかった軽井沢レイクタウンに迷い込む。軽井沢駅から小諸までの脱出を試みたものの、身なりがひどく汚れていたために車内で警察隊の詰問を受ける。このとき行き先を適当に答えたことで怪しまれ、逃走や拳銃の奪取を試みるが失敗、逮捕された。1972年2月19日。


青砥幹夫(軽井沢駅逮捕組)

2022年の某紙の取材時。当時、植垣・青砥とともに活動していた安彦良和(ガンダムの生みの親の一人)も、同じく取材を受けていた。

1947年生まれ、福島県出身。植垣康博と同じ大学の活動家。1969年9月に弘前大本部をバリケード封鎖したが、その後植垣を彼を赤軍派の梅内に紹介した。明治公園爆弾事件で機動隊に爆弾を投げた。榛名ベース合流後は森から度々注意を受けるものの、暴力を振るわれる事態には至っていない。
山崎順が総括を要求され、彼の髪を切り優しく話しかけるがこのことを山崎が「逃がしてくれると思った」と喋った際には激怒、彼を殴打しナイフで処刑に加わっている。しかし彼の埋葬の際には人目を忍んで合掌し、本心ではなかったかのような態度をとった。
榛名ベースで留守役をした際、猟銃をこめかみに当て自殺を考えるが思い直した。
医学部出身のため、金子の腹から赤子を取り出す計画を打ち明けられ、容態を確認した。金子の死後、赤子の様子を改めて確認したがすでに冷たくなっていたため、赤子の摘出は断念された。その後は主に植垣と行動を共にし、1972年2月19日、植垣・小嶋和子・寺林真喜江とともに軽井沢駅で植垣らとともに逮捕された。


玉振佐代子

都内のアジトで植垣康博と同居していた4女性のうちの一人。恋人と別れたばかりで、植垣に好意を持つ。アジトではガリ版切りと電話中継という地味な任務に従事し、倦怠感を抱いている。「組織再編」後に三里塚闘争(第一次強制代執行)に参加した後、M作戦従軍に旅立つ直前の植垣と肉体関係を持つ。その後、赤軍派の川崎アジトに他のメンバーといたところを警察に襲撃されるが、お湯を沸かしていたヤカンを投げつけ脱出。バンドホテルに潜伏していた植垣らと再び合流するが、程なく逮捕される。革命左派の中村愛子らは玉振に憧れる様子を見せていた。


坂東國男(あさま山荘事件参加者)

赤軍派の代表の一人として革命左派との合同会議に出席。弾圧を逃れるための変装として眉毛を剃っている。部隊を指揮してM作戦を実行する。
榛名ベース合流後は指導部に加わり、序列は4番目。メンバーへの厳しい追及にも冷徹に加わっている。森恒夫から赤軍派時代に彼の側近となって活動していたためかなり信頼されており、度々「坂東がいれば大丈夫」「やっぱり坂東は信頼できる。」と言われる。寺岡恒一と日光方面の山岳調査に向かった際、「総括というものがよくわからない」と迷いを打ち明けられる。寺岡の総括要求時、彼の腕にナイフを突き刺して追及したことを森は高く評価した。迦葉山ベース建設中には、坂口弘とともに山本順一を追及、殴打し、大槻節子のことを気にかける植垣康博に厳しい態度をとるようになった。森と永田洋子が都内アジトに潜伏している最中には坂口とは対照的に山田孝に厳しい態度をとった。
坂口らとともにあさま山荘に籠城した際には料理の腕を披露したほか菓子のつまみ食いを吉野雅邦に見つかり抗議されたため、坂口に促されて自己批判した。狙撃で警察隊を負傷させたほか、強行突入の際には機動隊員を狙撃した。


遠山美枝子(山岳ベース事件犠牲者)

明治大学生で重信房子(後の日本赤軍最高指導者)の友人。赤軍派の政治局員・高原浩之の妻。ロングヘアが印象的な美人
1970年6月7日、高原とデート中に高原が逮捕される。
1971年11月4日に革命左派のメンバー9名が新倉ベースに到着。そこで森恒夫が「革命左派が水筒を持ってきていない」ことを批判してきた。革命左派リーダーの永田洋子も黙っておらず、遠山の「指輪・化粧・長い髪」を批判し、「私達は苦労して山を守ってきたのに、赤軍派は山を甘く見ている」とまで言われてしまう。これが後の「総括」「共産主義化」に繋がってしまう。
山に合流した遠山は「権力が及ばないところで軍事訓練が出来る」ということに勇み立っていたという。
その後、革命左派メンバーから激しく糾弾され、それに応じた他の赤軍派メンバーからも厳しく自己批判を求められる。
榛名ベース合流後、厳しい追及を受け「死にたくない」と涙を流して訴えた。小嶋和子の遺体を埋めることで総括するよう求められるが、結局総括できていないと判断されてしまう。森恒夫に「総括を深化させるために、自分で自分の顔を殴れ」と命令され自己殴打し、束縛された。さらに、これまでの異性経歴を告白するよう強要された挙句「破廉恥だ」と罵られて殴打される。1972年1月7日深夜に死亡。


穂積満

植垣康博らと共に愛知県での金融機関の調査を行う。後に植垣らと共に坂東隊に移る。車の運転ができ、1971年3月22日の仙台市泉市でのM作戦に運転手として参加する(標的は振興相互銀行黒松支店)。1971年5月15日の横浜市立南吉田小学校襲撃にも参加するが、同月に中央軍最強とうたわれた大阪部隊(大西一夫隊・新谷富男隊)に移ることになり、翌月逮捕される。


進藤隆三郎(山岳ベース事件犠牲者)

⁉️赤軍派の不良⁉️

福島県郡山の生まれで、秋田高校を卒業後、日仏学院でフランス語を学び、東大安田講堂事件(1969年1月)に参加して逮捕。新宿でフーテン生活を送った後に山谷(労務者の居住区)で梶大介らと活動するようになり、1971年1月、横浜寿町で赤軍派中央軍の大西一夫(同志社大学)や、植垣康博(弘前大学理学部)と知り合って、坂東國男隊の横浜遠征(3月・M作戦)から共産主義者同盟赤軍派のシンパとして活動し始めた。
植垣によれば、進藤は「赤軍派の一員という意識はまるでなく、協力してやっているんだと思っていた、森氏に対しても平気で口答えしていた」そうで、「不良」というレッテルを張られていた。自分の意見を口に出し、指導部の権威に畏れいろうとしない彼の自由な気質は、森にとって受け入れ難いものだった。
榛名ベース合流後、同じく問題視されていた遠山美枝子や行方正時の中で最初に追及を受け「縛ってくれ。僕はその中で総括する」と誠意を見せたが受け入れられず、森の独断によって殴打が決定。
進藤は、自分の弁明中に森が「山谷物語を聞いてるんじゃない」と遮ろうとするや、「でも、自分が階級闘争に関わったのは山谷だから」と話を続けようとしたりするなどして歯向かっていた。その後、腹部が緑色になるほど殴られ続けた。殴打の最中、進藤は「革命戦士になるために、なんでこんなことが必要なんだ!!」と激しく抗議するが、同調する者はいなかった。
その後外に縛られ、1971年12月31日(or翌日の元旦)に死去。享年22。死因は、胸腹部打撲による肝臓破裂に基づく失血。


持原好子

進藤隆三郎が引っかけてきた彼女。そのまま進藤と共に植垣康博らと行動することになる。特に学生運動や世界同時革命などの思想も無く、進藤さんが好きだから活動に参加していた、元芸者で人妻。左翼運動とは無関係だった人物で、玉振佐代子からは不安視されている。植垣も当初は不安視していたが、間もなく楽観的に見るようになる。植垣らは持原を部隊から外し合法生活を送れるようにしようとするが、本人はそのことに不満に思っていた。
銀行襲撃の下調べでミスをしたために作戦から外され、次第に荒んだ様子を見せ始める。森恒夫はそのような持原(と進藤隆三郎?)の処刑を坂東國男に指示するが、坂東と植垣の判断で組織からの追放となる。進藤への想いは強いようで、進藤と共に組織についていこうとし、最後には進藤と共に組織をやめようとしたが、結局かなわなかった。1月中旬、高崎で逮捕されたというニュースがラジオで流れ、これが連合赤軍のベース移動のきっかけとなった。



山崎順(山岳ベース事件犠牲者)

1969年の東大入試が中止されていなければ、山崎は問題なく東大に合格した筈。しかし彼は早稲田に行く羽目になり…………

早稲田大学の部隊に所属。合法の免許証を持っているため、植垣康博らと行動を共にすることになる。坂東國男の部隊に所属。運転技術はかなり高く、横浜でのM作戦を大成功に導いた。一方で、8月に兵站部の女性と性関係を持ったことが問題視されており、本人もこれは総括すべき問題と認識している。榛名ベースには植垣と同じく1972年1月2日に合流。既に榛名ベースにいたメンバーが過酷な総括に立ち向かっているのを見て圧倒され、自分たちの総括が遅れていることを自覚する。森恒夫からはメンバーの指示を仰ぐことで総括を深めるよう言われている。赤軍派が使用していた井川ベースの解体を中村愛子(革命左派)とともに担当。帰還後に彼女と結婚したいことを打ち明けた。
1972年1月18日の寺岡処刑後の全体会議で、「殲滅戦がリアルに分かった、敵が見えてきた」と発言。しかし森が「それはおかしい、お前は、どうしてCC(中央委員)から身を隠すように座っているのか、処刑の時、皆の後ろでウロウロしていたが、あれはどうしてだ」と、寺岡の死刑に動揺していたことを北から追及されると、山崎は「寺岡の問題が自分と似ており殺されると思った」と発言してしまい、批判された。
その後、上京していた前澤虎義が帰ってきたため会議は中断し、その後、赤軍派のM作戦で共に坂東隊として戦った坂東国男と植垣康博が森に代わって山崎に総括要求した。坂東らの質問は、ほとんどM作戦についてで、それを山崎氏が認めて自己批判することで一件落着とする、いわば「八百長」であった。坂東と植垣はなんとかして山崎を助けようとしていたのだと考えられている。
翌1月19日午前、中央委員会で森は、再び山崎を批判した。山崎は、前夜の坂東らとの問答で気が楽になったのか明るい表情で、それが気に入らない森は、「総括する態度ではない」と言い始め、中村との結婚宣言についてもイチャモンをつけ、「山崎は計算ずくで動く」と決めつけている。指導部メンバーからの追及の最中に伊藤和子(革命左派)が帰還するが、同行していた岩田平治(同じく革命左派)がいないのを見て「逃げたな」とつぶやいてしまい、森に正座を命じられ見張りをつけられてしまう。森は岩田を高評価していた。
直後、持原好子(死んだ進藤隆三郎の彼女)が逮捕されたことで拠点を移動することになった。山崎は処刑が検討され、最後のチャンスとして指導部は彼に対し偽の死刑宣告をしたうえで総括を要求。このとき、山崎は偽の死刑宣告を前に「わかりました、先の7人のように醜い顔をしないで死んでいきたい」と言い涙を流したため、森は「革命戦士として生き抜くには、総括すべきだ」と諭される。しかし、寺林真喜江(革命左派)が「(山崎は)総括する態度ではない、問題だ」と森に告げ口したため、再び問題視される。
坂口弘にアイスピックで足を刺されるなど厳しい追及が始まり、森たちに「逃げようと考えたか」と追及されると「逃げようと思った」と答えた。そして逃げてどうするつもりだったかと聞かれると、「警察に駆け込むつもりだった」「週刊誌に赤軍派のネタを売って暮らすつもりだった」ことを半ば強制的に白状させられた。このとき山崎は、なかったことまで喋ってしまっていた(虚偽自白)。山崎氏は、メンバー各人の評価を言わされたときには、「坂東さんとバロン(植垣)は、田舎紳士の馬鹿者や」「青砥君は、深刻そうな顔で総括しようとして総括できないでいる馬鹿者や」「森さんは、お人よしだけど恐かった」「坂口さん、永田さんは、お人よしの馬鹿者や」「山本(順一)さんは、運転が下手でどうでもよかった(山崎氏も運転役だった)等と挑発的なことを言っています。
続いて女性メンバーの評価になり、「大槻さんは、ポチャポチャして僕好みだから、とり入って二号にしようと思った」といい、「(彼女と恋仲の)植垣はどうなるんだ?」という問いには、「バロン(植垣)は田舎紳士だから簡単に取り返せると思った」と語った。寺岡の時と同様、聞いていたメンバーたちは、「笑いこそすれ怒りをもつことはなかった」「山崎の人物評価が見事で的確だった」ようである。
やりとりは長時間続いたが、山崎が耐えきれずに「殺してくれ」というと、森は「死刑だ」と宣告。しかし、青砥幹乙、植垣康博、森恒夫がリレー形式で山崎を突き刺すも失敗した。坂口弘、吉野雅邦、前澤虎義、山本順一、寺林真喜江ら革命左派出身者の手で縄で絞め殺された。

「え!と思うくらい頭が良かった」(植垣康博)
「頭がよく、目つきがきつく、強情で戦闘的、非常に好男子で女によくもてた、運転は非常にうまかった」(青砥幹夫)
「ドイツ帰りの遊び人」(1971年9月、小学校時代にドイツ在住だった山崎を森がこう評した)


行方正時(山岳ベース事件犠牲者)

行方(なめかた)が最初読めませんでした

岡山大学生。かつて東大闘争にかかわっていた。革命左派の非合法部隊との連絡役を務めている。山岳アジトの景観を気に入っているような発言をするなどのんびりした性格であり、森恒夫から自分の消極的な態度について総括をするよう言われる。
1972年1月3日、尾崎充男・進藤隆三郎・小嶋和子が死去したあとの会議で、行方の「これで、すっきりした」という発言が揚げ足を取られてしまう。
榛名ベース合流後は改めて総括が遅れていると判断される。森は、同じ赤軍派出身の行方・進藤隆三郎・遠山美枝子の三人を最初から不適合者とみなしていた。行方は「僕はどんなことをしてでも総括しなければならないと思っている」と鬼気迫る態度を見せたが、森からの追及に上手く答えられず、束縛される。その後の追及で逃げようと考えていたことを告白したため、肩と太ももを激しく殴打された。1月9日の深夜に死亡。享年22。見張り役の大槻節子は他のメンバーを起こさなかった。
行方の死後に会議が開かれなかったため、 森も行方の死について総括しなかった。他のメンバーも行方の死を「予定調和」のように受け取り、行方の人格とともに完全に葬り去ってしまった。

山田孝(山岳ベース事件犠牲者)

1944年、年東京都大森区(現在の大田区の一部)に生まれ、山口県立西高校を経て京大法学部を卒業。大学院で政治学を学び、関西ブントでは京都府委員長を務めた。赤軍派の分裂後は議長の塩見孝也の秘書的な役割で、「典型的なインテリゲンチャという印象」(坂口弘談)だったという。その頃は森恒夫より格上であった。
赤軍派結成時の政治局員である八木健彦によると、山田は「組織活動の一つ一つを非常に細かく点検、検証することを細部に渡ってきちっとやっていく」人だったといい、そんな彼が赤軍派に参加したのを知って、「えっという感じがした」という。言ってることはやたら勇ましいが、何事もアバウトなブントの中で、特にいい加減と言われた赤軍派には、おおよそ行きそうもないタイプだったらしい。
1970年のよど号事件の後に山田は逮捕される。出所後の5月にてる子という人物と結婚し、子供を授かっている。その後、赤軍派に戻っていった。
1971年12月の連合赤軍結成後は、中央委員での序列は5番目。その後、総括の援助として殴打することに疑問があったらしく、1972年の元旦?に、「死は平凡なものだ、死を突きつけても革命戦士になれない、考えてほしい」と森に意見した。
加藤能敬や小嶋らの遺体を別の場所に埋葬する時、人影を見たと誤認、不要な警戒心を示したことで寺岡恒一から問題視され、後に追及の材料となってしまうことが示唆されている。
1月27日、奥沢修一(慶大)とともに車を修理するため高崎市に出かけた。その際に時間つぶしで銭湯に行ったことを森に咎められる。
1月31日、CC会議にて「自分一人で行くのならかまわなかったが、奥沢君を連れて行ったのは指導という面からまずかった」と答え、その返答に納得しない森が「そんな傲慢なこといっていいのかー」と言い返すと、それまで対等に話していた山田は、しだいに慎重な口ぶりに変わっていった(坂口談)という。
2月2日、CCの決定で雪の上に座らされる。
CC(中央委員)を解任される。総括できる可能性は0.1%しかないと断ぜられたうえで、2月3日に薪拾いを命じられた。しかし結局総括したとみなされず、官僚主義の総括が全くできていないとして殴打の末縛られた。森は「山田が赤軍派に入ったのはすぐに幹部になれると思ったからだ」と批判した。
2月4日、森と永田洋子が東京アジトへ向かった。6日に山本保子(山本順一の妻)が脱走すると、アジトに残された坂口は「保子さんが警官隊と一緒に赤ん坊を取り返しに来るのではないか」と恐れた。坂口は「警官隊が来るかもしれない。君はどうする?」と山田に問うと、山田は「闘う。手製爆弾を使わせてくれ。警官と一緒に自爆する」と答えた後に、「銃を持って戦います!」と言い直した(連合赤軍、特に京浜安保共闘的には殲滅戦は爆弾ではなく銃でやるべきという意識があった)。「銃を持って闘います!」と宣言した。これで総括したとみなされ、四肢が凍傷で動かせない状態ながらも束縛をほどかれた。
2月10日、妙義山ベースに到着。しかし次第に衰弱し、12日に「総括しろだって!」「畜生!」「何が総括だ!」という言葉を吐き捨てて絶命した。山岳ベース事件の最後の死者。


梅内恒夫(行方不明)

“爆弾の教祖”

1947年、青森県に生まれる。青森県立八戸高等学校卒業後、福島県立医科大学に入学。在学中に共産主義者同盟(第二次)に加盟し、赤軍派の結成と同時に赤軍派のメンバーとなる。後に連合赤軍メンバーとなる植垣康博を赤軍派にオルグしたりしている。
大菩薩峠事件(1969年11月5日)に関連し、よど号事件(1970年3月31日)で使用された爆弾を製造したことから指名手配されていた。当時、「爆弾の教祖」として警察が最重要指名手配した。
赤軍派でM作戦(銀行強盗)をやろうとすると、梅内は尻込みするので「ビビリスト」という異名もあった。
大菩薩峠事件・重信房子のパレスチナ渡航・塩見孝也の逮捕・よど号事件など、赤軍派幹部の相次ぐ逮捕や国外逃亡の中で森恒夫が台頭してくると、梅内は1971年の2月頃に森と「党か、ゲリラか」という論争をしていた。あくまで党を重視する森の路線に対して、梅内が離れていった。
1972年5月10日付の『映画批評』に「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」と題する手記を寄稿。赤軍派の(主に森の)路線を批判する長大な文章であった。太田竜(革共同創始者の一人)が反応するも、梅内からの返事はなかった。
その後、梅内は現在に至るまで行方不明のままである。


小西隆裕(よど号グループ)

1944年7月28日生まれ。赤軍派の活動家。東京都立小石川高等学校から東京大学理科三類に進学。一時野球部に在籍し捕手としてプレーしていたが、後に退部して東大全共闘、医学部共闘会議議長となる。1969年に赤軍派が起こした東京戦争で警視庁本富士警察署火炎瓶投擲事件に関与。1970年によど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。よど号グループではリーダー田宮高麿に次ぐサブリーダー格であった。

岡本武(よど号グループ)

1945年7月17日生まれで熊本県出身。後にテルアビブ空港乱射事件を起こす岡本公三の兄。父親は小学校校長。熊本県立熊本高等学校卒業。京都大学農学部中退。東大安田講堂事件にも参加。1970年3月31日に仲間8人とともによど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。平壌郊外の日本人村で他のよど号犯とともに暮らす。
1988年に妻とともに土砂崩れで事故死したとされる。

田中義三(よど号グループ)

青森県三沢市出身。7歳の頃に母親の出身地である熊本県に移住。熊本県立済々黌高等学校を卒業後、明治大学(夜間学部・政経学部Ⅱ部)に入学。1960年代末の学生運動に参加し、社会主義学生同盟に加盟。1969年に赤軍派に属し、同年の東京戦争で警視庁本富士警察署火炎瓶投擲事件に関与。
1970年3月31日に仲間8人とともによど号をハイジャックした。よど号犯の中では最初に操縦室に入って機長に日本刀(後に模造品と判明)を突き付けている。4月3日に山村新治郎運輸政務次官との人質交換において、犯人代表として一時的に韓国の金浦国際空港に降りている。
その後、1996年にカンボジアで逮捕されタイに移送。2000年に日本に引き渡され、2003年に懲役12年が確定。
2007年1月1日に58歳で死去。

魚本公博(よど号グループ)

旧姓は安部。1948年3月、大分県別府市石垣に高校教師の子として生まれる。おじがフィリピンで戦死しており、進駐軍の暴力的行為にも反感があったことから、子供時代は反米愛国少年だった。関西大学に入学。佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争で学生運動を知り、共産主義者同盟系の学生グループを経て赤軍派となり、東大安田講堂事件に参加。
1970年3月31日によど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。当初、警察の指紋照合による9人のメンバーの割り出しでは「梅内恒夫」と間違って発表されたが、10日後に「安部公博」と訂正された。

若林盛亮(よど号グループ)

同志社大学経済学部、当時23歳、ロックバンド「裸のラリーズ」元メンバー)
滋賀県草津市生まれ。滋賀県立膳所高等学校を経て同志社大学経済学部に入学。在学中、1970年3月31日によど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。1976年に結婚し、妻である若林佐喜子と平壌に在住している。
2023年現在も警察庁により指名手配されていると同時に国際刑事警察機構より国際指名手配されている。

赤木志郎(よど号グループ)

1947年11月4日生まれ。大阪市立大学に入学。同大学には田宮高麿や森恒夫がいた。1970年に田宮らとともによど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。1976年に結婚。その後は平壌に在住している。北朝鮮在住時に納豆を食べすぎて入院したことがある。
現在も警察庁により指名手配されていると同時に国際刑事警察機構より国際指名手配されている。

吉田金太郎(よど号グループ)

赤軍派の活動家。京都市立堀川高等学校卒業。高校時代、まだ創刊したばかりの「新左翼」紙(現在の「人民新聞」)の事務所によく制帽・制服姿で訪れ、手伝いをしていたという。高校卒業後、日立造船で工員として働くが、労働組合活動へ傾倒し、ブント系反戦青年委員会に参加。1970年3月31日(当時20歳時に仲間8人とともによど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。学生運動がきっかけで参加した者が多いよど号メンバーの中では唯一の労働者出身である。
1985年8月末、吉田の実家に吉田が難病のため面会に平壌までこられないかというよど号グループからの手紙が届く。9月4日、平壌市内の病院で急性肝萎縮症のため亡くなり、翌5日によど号メンバーにより葬儀が営まれた。しかし、その死には数多くの疑問が残る。

柴田泰弘(よど号グループ)

赤軍派の活動家。1953年生まれ。1969年に神戸市立須磨高等学校に入学。その頃同校チュチェ研究同好会に所属。赤軍派に参加し、大菩薩峠事件に関与した。1970年3月31日に仲間8人とともによど号ハイジャック事件を起こした際には、グループ最年少で高校入学してから約1年の16歳の少年であった。北朝鮮に亡命後、1977年5月4日に八尾恵(1955年、兵庫県尼崎市生まれ)と結婚した。八尾によれば、彼女自身は観光を兼ねた社会体制見学のため、1977年2月に短期滞在の予定で北京経由で北朝鮮に入国したが、自身の意に反して2カ月以上軟禁状態に置かれて思想教育がなされ、柴田との結婚は強制させられたものであった。彼女自身は、柴田との結婚をまったく望んでいなかったが独裁政治の下での命令は絶対であり、拒むことができなかったという。
1985年に密かに日本に帰国し、若者や高校生を集めて勉強会を開き、一部を北朝鮮に送っていた。しかし1988年に逮捕。よど号グループ初の逮捕者であった。
2011年6月23日、大阪府大阪市浪速区の自宅アパートの布団で死亡しているのをアパートの管理人と大阪府警察浪速署員が発見した。外傷はなく、病死とみられる。58歳没。


金廣志(入山せず)

地獄に足を踏み入れずに済んだ。

赤軍派の活動家。キム・カンジ。1972年1月の半ばごろ(暴力的総括要求の真っ只中)に入山を希望するも、山田孝から、「今は来ない方がいい」と言われ、命を助けられたという。後に学習塾の講師を勤めたりしている。連合赤軍について語るシンポジウムにて、司会を務めている姿を確認できる。イタリアの現地在住の人物とのオンライン通話が不調になると「お前の国が貧乏なのは知ってるから」と発言するなど、人を茶化すような発言が多々あって面白い。


上原敦男

明大二部現代思想研究会所属。1969年の東大安田講堂事件の2日目、安田講堂の天辺で最後に逮捕された内の一人が上原なのだという。その後、赤軍派議長・塩見孝也の逮捕(1970年3月15日)直後の会議で、旅客機をハイジャックして北朝鮮に亡命するフェニックス作戦(俗に言うよど号事件)に対し、慎重論を唱えた。


共産主義者同盟赤軍派・M作戦の部隊

★大西隊
大西一夫(同志社大)
松浦純一(関西大)
近藤有司(高卒)

★新谷隊
新谷富男(同志社大)
城崎勉(徳島大)
藤沼貞吉(茨城大)
林慶照(高校生)

★松田隊
・松田久(茨城大)
後に日本赤軍へ。
・鈴木裕(弘前大)
・石原元(東京水産大)

★坂東隊
・坂東国男(京大)
→あさま山荘事件参加、1972年2月28日逮捕。
・植垣康博(弘前大理学部)
→1972年2月19日のあさま山荘事件直前、軽井沢駅で逮捕。
・穂積満(弘前大)
1971年5月に大阪部隊(大西隊・新谷隊)に移動するが、翌月逮捕。
・山崎順(早大)
→山岳ベース事件犠牲者。
・進藤隆三郎(日仏学院)
→山岳ベース事件犠牲者。


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