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新左翼事件まとめ(制作途中)

時系列順に、事件の名前と概要を書いています。制作途中です。


羽田事件

1967年10月8日と11月12日に、佐藤栄作首相の外国訪問阻止を図った新左翼と東京国際空港(羽田空港)を防衛する機動隊が衝突した事件である。新左翼側はこの事件を羽田闘争と呼び、特に10月8日の第一次羽田闘争を10.8(ジッパチ)と称して特別視している。10・8では、京大生の山崎博昭が死亡している


エンタープライズ寄港阻止佐世保闘争事件

1968年1月17日から1月21日にかけて、学生を中心とするデモ隊が長崎県佐世保市で米海軍原子力空母であるエンタープライズの佐世保基地への寄港を実力で阻止しようとして事前に許可を取ることなくデモを行なって佐世保基地に侵入し、基地周辺で警戒中だった警察官らと衝突した。
この頃は学生に同情する人々も多かった。

新宿騒乱事件(国際反戦デー)

国際反戦デーであった1968年10月21日、中核派・ML派・第四インターの活動家は、明治公園及び日比谷野外音楽堂で集会を行った後、ゲバルト棒などで武装しながら、続々と約2,000人が新宿駅に集結し、各所で機動隊と衝突した。駅構内では電車のシートを引っ剥がして炎上させたり、停車中の車両に投石したりした。
これだけ被害が拡大したのは、野次馬のせいでもある。

10.21国際反戦デー闘争

1969年10月21日、国際反戦デーにあたるこの日、新左翼各派は前年の国際反戦デー闘争(新宿騒乱)に続き大規模な街頭闘争を計画、新宿を中心に各地で機動隊と衝突した。また、新宿以外でも日本生産性本部やNHK放送センター、日本工業倶楽部に火炎瓶を持った学生らが乱入、占拠したほか、本所警察署に火炎瓶が投げ付けられる事件も発生した。しかし、前年の国際反戦デー(新宿騒乱事件)で苦汁を舐めた警察は、学生を各個撃破することに専念し、野次馬と合流させず、そもそも商店街などで自警団を作らせて活動家達を逮捕しようと目論んだ。この作戦は成功し、大した盛り上がりにならなかった。
この事件での逮捕者は1594人に上り、過去最大であった。ただしこの記録は翌月の佐藤首相訪米阻止闘争で塗り替えられることになる。

大菩薩峠事件

1969年11月5日、山梨県甲府市の福ちゃん荘にて軍事訓練を行っていた共産主義者同盟赤軍派のメンバー53名が逮捕された。「武装した活動家が大型ダンプカーに分乗して首相官邸や警視庁を襲撃し、人質を取って獄中の活動家を解放する」という作戦が立てられていた。この事件で赤軍派の幹部(政治局員)も約半分(花園紀男?・上野勝輝・堂山道生・八木健彦が逮捕され、大打撃を受けた。

よど号ハイジャック事件

1970年3月31日、共産主義者同盟赤軍派の田宮高麿ら9人がよど号をハイジャックして北朝鮮に亡命。


上赤塚交番襲撃事件

1970年12月18日、革命左派メンバー3名が拳銃奪取のために上赤塚交番を襲撃。警官1名がタコ殴りにされるも、もう一人の警官が発砲し襲撃犯の柴野春彦が死亡した。残り二人も重傷を負って逮捕された。

真岡銃砲店襲撃事件

1971年2月17日、上赤塚交番襲撃に失敗した革命左派が、猟銃を奪取するために真岡銃砲店を襲撃。猟銃の奪取には成功したが実行犯のうち2名が逮捕され、革命左派指導部と残りの実行犯は指名手配された。

印旛沼事件

1971年8月3日と8月10日、革命左派の非合法部から脱走した早岐やす子・向山茂徳の二人が殺害された。

‌朝霞自衛官殺害事件

1971年8月21日、京大パルチザンを結成した滝田修(竹本信弘)の影響を受けていた『赤衛軍』が、陸上自衛隊朝霞駐屯地で警衛任務中の自衛官一名を殺害。銃を奪おうとしていたが、暗がりに飛んでいった為発見できなかった。


東峰十字路事件

1971年9月16日、新東京国際空港(現・成田国際空港)建設予定地内の空港反対派が所有する土地に対して千葉県が第二次行政代執行を行った。その後方警備に派遣されていた神奈川県警察特別機動隊260人が、共産同叛旗派・プロ学同・日中派・社青同解放派・フロント(社会主義同盟)・労学連・人民連帯・宇都宮大全共闘などの過激派学生集団により構成されたゲリラ部隊約700人に襲撃され、警官3名が死亡した。



関西大学構内内ゲバ殺人事件

1971年12月4日午前3時、革マル派の「突撃隊」が阪急電鉄で関西大学千里山キャンパスに向かい、「突撃隊」が警備する中で構内でステッカー貼りを敢行した。午前6時、中核派はこれを発見し、ただちに革マル派のメンバーを襲撃した。しかし革マル派の「突撃隊」が応戦したため、数的劣勢な中核派は退却した。中核派メンバー2名が逃げ遅れて革マル派に捕まり、鉄パイプで撲殺された。中核派メンバーのSとTが逃げ遅れて革マル派に捕まり、鉄パイプで撲殺された。

‌山岳ベース事件

1971年12月末から1972年2月まで、連合赤軍(革命左派と共産同赤軍派が合流して結成)において「総括援助」と称した暴力や処刑が行われ、12名が死亡。

‌あさま山荘事件

1972年2月19日から28日まで、連合赤軍残党の5名が浅間山荘管理人の妻を人質にして籠城。警察側(+民間人)は3名が死亡し、27人が負傷。

‌川口大三郎事件

1972年11月8日、革マル派が早稲田大学第一文学部の川口大三郎を中核派シンパと誤認して殺害。早稲田大学構内リンチ殺人事件とも。

中核派書記長内ゲバ殺人事件

1975年3月14日、埼玉県川口市にて中核派書記長の本多延嘉が革マル派活動家約15名に自宅で殺害された。


川崎市女子職員内ゲバ殺人事件

1975年3月27日、東京教育大学文学部出身で演劇サークルを通して革マル派に参加していた川崎市役所職員の女性が、中核派の男3人に鉄パイプで滅多打ちにされて殺害された。『前進』は、中核派書記長の本多延嘉が革マル派によって殺害された事件の報復だと表明。


ひめゆりの塔事件

白銀病院に潜入した沖縄解放同盟準備会のメンバー2名が同病院から警備車両にガラス瓶やスパナ、石などを投擲し破損したり(白銀病院事件)、ひめゆりの壕に潜伏していた共産主義者同盟戦旗派(西田派)と沖解同(準)のメンバー計2名が、皇太子の足元に向けて火炎瓶を投擲し献花台を炎上させた。

水本事件

1977年1月6日、1974年11月27日から行方不明になっていた革マル派全学連メンバーの水本潔の水死体が発見。革マル派と中核派がお互いを妨害し合う

‌革労協書記長内ゲバ殺人事件

1977年2月11日、革マル派が革労協(社青同解放派)書記長の笠原正義を鉄パイプで殴り殺した。

‌浦和車両放火内ゲバ殺人事件

1977年4月15日、革マル派の藤原隆義他4名が乗るワゴン車を革労協のトラックが包囲したのち放火し、革マル派4名が死亡。

芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件

1977年5月9日、火炎瓶・角材・棍棒で武装した共産同系の極左暴力集団とみられる約50人が、柏署員6人(31歳の巡査部長と20代の巡査ら5名)が警戒する芝山町長宅前の臨時派出所を襲撃。巡査部長が亡くなった。

‌革労協元幹部内ゲバ殺人事件

1989年6月25日、革労協の狭間嘉明派(過激派)と永井啓之派(穏健派)の対立により革労協を除名されていた永井が、狭間派に車で拉致され茨城県牛久市のトンネル内で撲殺死体となって発見された。


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