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XXVIV. 科学と非科学

南方熊楠(1867-1941)、寺田寅彦(1878-1935)、三木成夫(1925-1987)、他にもいるが、この3人の科学者が特に好きだ。鋭く澄んだ感覚で物事を捉え、常人には突飛とも思われる事をあれこれ想い実行し、そして科学の手続きに則って自らの仮説を検証、確認、証明、或いは否定していく。その純粋さが際立つ。彼らの感覚は清く澄んでいて、彼らが掴んだものは確かにこの世の理に触れていた。

研究職という職種があり、その職位の者は広く科学者として括られている。科学の手続きに則った作業と作文が仕事だ。実験と論文執筆のことだ。丁寧に時間や手間を惜しまなければ、成果の数はそうそう増えない。一方、作業と作文が目的になった時、生産性を上げようと思えばそれも可能だ。感覚を使わずに、手間と時間がかからぬ形で論文を量産する。ある程度科学の手続きを理解しそれに従っていればいくらでも成果数が増える。科学者としての評価が与えられる。それらは、研究と呼ばれてはいるが、後々まで生き残り、後続に良き示唆を与えられる仕事は少ないだろう。

また、科学雑誌に掲載されている論文の中にも、必要な手続きを踏まない、誠実性を欠いた仕事がないわけではない。故意か否かはともかく、重大な齟齬を含む仕事は歴然として存在する。

既存の科学の手続きが不向きな分野がある。それは人の心や脳をはじめ多細胞生物個体の現象を扱う領域だ。この領域の個人差、個体差が大きすぎる現象は、他の領域の研究と比べ、統計的な議論や広く一般化できる結論を導くことが難しい。それらの分野においては、一般化の証明とは異なる科学的手続きが求められるかもしれない。

既存の科学は全てを解明できてはない。そして、未だ解明されない現象に切り込み、磨いた感覚で想像力を広げ、綿密な手続きに則り、手続き以上に自分が納得できるだけの検証を積みながら、此の世の理を導き出そうとする努力は続く。只々、真実が知りたいという欲求のために。

科学が未だ説明できないこと、または、科学が説明していることの反証を、非科学で行う流れがある。オカルト、スピリチュアル、何とでも呼ばれている。此の世の不思議を潰し去ろうとする安易な説明。それは分かりやすく簡単で、そして簡略単純化が嘘を含んでいる。往々にして、それらは現代の科学を批判しているが、上に述べたように科学と一口に言っても様々だ。鋭い感覚で丁寧に進められた仕事も、感覚を使わず作文作業にだけ精を出している仕事も、やり方も結果も間違っている仕事も、様々だ。非科学に否定されるまでもなく、科学の誤りは後の科学によって淘汰される。

純粋な科学は、オカルトやスピリチュアルよりも遥かに澄んだ精神性や五感を必要とする崇高なもので、この世の神秘を美しく語る。解りやすく納得したいだけのチープな欲求を満たすためのスピリチュアルやオカルトは、スニャータ調香とは相容れない。







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