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138億年の時間の中で☆第38話☆「世界が広がる」             

お店は買い物をするところ。学校は学ぶところ。公園は遊ぶところ。じゃあ、あーちは何のための場所なんだろう?
 
次男は小学校の数年間、学校へ行けなくなりました。読み書き計算的な勉強は次男にとっても私にとっても最優先項目ではなく、できたらラッキー程度の感覚でした。それなのにどうしても学校へ行って欲しいとジリジリした思いに囚われ大いに慌てふためき焦りまくった私がいました。だって・・・学校へいかないと、世界が広がらないでしょ。
 
長男の送迎生活が終わったのを機に、自宅内の長男のスペースを模様替えしました。絵本が読みやすくなるように、絵を描く道具が手に取りやすいように。この小さなスペースで彼の世界が広がっていくようにと願いながら。
 
そしてふと思う。「世界が広がる」とは何のことなんだろう??。(何のことかわかってないのに、そういった言葉が脳内に浮かんでくるのも随分不思議な現象ですね)
 
うまれたばかりの赤ちゃん。目が見えるようになり、首がすわるようになり、どんどん世界を広げていく。アレはなんだろう?と対象に近づく。触る。遊ぶ。止まらない探究活動。外へ。外へ。時々戻りながらも、また外へ。興味や好奇心(時々怖いもの見たさ)にしたがって、活動範囲を広げ、刺激をうけ、何かを、何らかの形で理解をする。その形は人それぞれで、数値やテストだけで測れるようなものではなくて。きっと、「個性」とか、「その人らしさ」とか、そういったものに繋がっていくのだとしたら。それが「世界を広げる」ということなのなら。いつもと違う人やモノに出会える場所は、とても大切だと思います。
 
私にとって、次男が学校へ行けないことが不安だったのは、次男の世界の広がりが停滞することだったんですね。極端かもしれないけれど、世界が広がるのであれば学校じゃなくっていいと思っていました。むしろ過度に緊張して通学するのは世界を狭める気がして、行かない方が良いかもよ、くらいに思っていました。
読み書きはできなくても、絵を眺めて、想像を広げていくことで、心がワクワク動くキッカケになればいい。この世界には色んな人がいて、色んな喜びや悲しみがあって、色んな出来事があることを知る、感じる。そうして世界を広げて欲しい。
 
その為に、家の外に出てほしいのです。絵本に触れて欲しいのです。
 
あーちのような「居場所」といわれる施設は、何のためにあるんだろう?
人と人が繋がる場所。生きづらさを抱える人達にとってのセーフティーネット。生きがいを見つける場所。いろんな意義と理由が挙げられるのだろうけど、我が息子たちにとっては、「世界を広げる」場所という意義を追加したいと思います。そして、世界を広げる為の好奇心を湧かせるためには、いつもと同じ人がいる安心感と、いつもいない人や異なった活動があることのバランスが肝になるんだろうな、きっと。
 
語彙が増えたな。会話のやり取りが上手くなったな。手先が器用になったな。不安を抱えることが減ってきたな。
目に見える成長の下には、目に見えない心の動きや、名前のつかない体験の積み重ねがあって、植物の種が発芽し、育っていくように、自然な現象の一つのように思えます。
 
通うようになって、6年目。色んな学生さんや大人達に見守られて、音楽を聴いたり、工作したり。ただただ、おしゃべりをしたり、おにごっこをしてみたり。気ままさが許される場所で、「目の前のあなたを信頼します」。そこから世界は広がり始めるのです。

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