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チェイサーゲームW考察

最終話終わりからの流れを考える

 チェイサーゲームW、第8話最終話は、視聴後から怒涛の展開が起った。何が起こったのかわかってなかったが、放映終了から1か月以上経ち、何が起こったか、何が問題だったのか、個人的に考えがまとまったものをアップする。


最終話終わりからの事態

 最終話終わり、レズビアン当事者から、ものすごい勢いの批判怒号がx上で吹き荒れた。批判メッセージはX上でプロフィールを公開しているチェイサーゲームWの監督や脚本家への熾烈な言葉(脅迫まがいのコメントも多く見た)で書き綴られていた。主にレズビアン当事者であり、日本語もあるが、多言語でのコメントも多く見られた。世界中のレズビアン当事者が怒りに震えていた。その事態を、製作者側(監督や脚本家)は回収できず、なかなか収まりがつかないところ、突如レズビアン当事者である物が、推測を出し、収拾をみることになった。

X上で吹き荒れた嵐の様子

 最終話に怒っていたのはレズビアン当事者であった。その後判明したのが、冬雨の立場に共感を得たであろう既婚者という立場でレズビアンであるというセクシュアリティを表明するマイノリティ当事者だった。
 レズビアン当事者と、既婚者でレズビアンを名乗る群(以下既婚レズビアンと表す)、既婚レズビアンを擁護する派、どちらでも構わない派、認めない派などに分かれていたと見える。
 最終話終了後、その層の区分けが見えていないなか、いろいろな意見が噴出し溢れかえりまとまりがない中、冬雨の立場を代弁するレズビアン当事者が現れ、それに製作者側(監督や脚本家)がイイネ!を押す形で隠れ蓑にするという形が見てとれた。その後製作者側は、現在まで制作の意図や狙いについて自身の言葉で表明する機会は見られていない。

嵐の中で何が起こっていたか?

  レズビアン当事者は、最終話について違和感ともやもやを抱いた人が一定数いた。知り合いに聞いた中では少なからずいた。私もその内の1人だ。
冬雨の描かれ方について、「レズビアンであり、男性をである貴方を愛していて、愛した結果子どもが産まれ、また関係性をやり直したい」と発言するキャラクターにした点。これが問題である。
 この問題についての詳細は後ほど詳しく述べる。問題はさておき、既婚レズビアン当事者は、ここに自身を投影したと思われる。レズビアン当事者は、冬雨はレズビアンであると思っているので、既婚レズビアンだと思ってはいない。ここの描写を曖昧にしたことによって、冬雨を糾弾する側、支持する側で真っ二つにレズビアン当事者が引き裂かれるという事態が起こった。それが、X上での大荒れ嵐状態につながった。

見えていないものを見せていくとは?

 監督は、見えていないものを見せていくドラマにしていくと伝える記事を見た。見えていないものとは?何を見せようとしていたか?

製作者側が見せたかったものとは?

 監督が見せようと試みたものは、冬雨に表したレズビアンという自身のセクシュアリティを自認しながら、世間体や周囲のプレッシャー、傷つきなどによって不本意に意思に沿わない結婚をしてしまう人間がいるという事実を伝えたかったのだろうと思う。

製作者側に見えていなかったものは?

 製作者側には、私含むレズビアン当事者、レズビアンとしてのアイデンティティを持ち、世間の圧力には疲弊しているがプライドを持って生きている存在が見えていなかったのではないかと思う。

製作者側の思惑の違い

 製作者側は、最終話最後になるまで、このドラマはレズビアンに向けて作っていてレズビアン当事者に届くようにと言っている。脚本家に至っては最終話以降もレズビアン当事者に届いてほしいと言っている。これを見る限り、製作者としてはレズビアン当事者に届く物語ができたと自負していたことが伺える。が、現実は、レズビアン当事者に嵐を巻き起こす雑な作りで誤解を引き起こす可能性のある危うい物語を投じたと言える。

嵐の中で起こった問題

 非当事者からの突然の物語の投入により、レズビアン当事者と既婚レズビアンという存在があることが徐々に見えてくる中で、対立構造になって見えてしまうという非常に困難な事態が起こった。それについて考える。

レズビアンという表現は誰のもの?

 既婚レズビアンはレズビアンであるのかないのかという問題に発展しかねない流れが予想外に生まれてしまい、当事者達を混乱に陥れた。
 レズビアンは女性を愛する女性であり、男性と結婚できる人をレズビアンと呼ばないでほしいというような流れが生まれた。それが既婚レズビアンの存在を否定しているかのように響いてしまうように見え、問題を複雑にしていた。
 レズビアンという表象は、誰が使っていいのか?いや、違う、問題はそこじゃない。

セクシュアリティの名づけは人権の問題である

 マイノリティはマジョリティの中では見えない存在である。自分を異性愛者だとわざわざ名乗るヘテロセクシュアルはいない。黙っていたらセクシュアリティは異性愛者であると当然想定されている。その傲慢さ・横暴さに気づいているヘテロセクシュアルはほとんどいない。暴力的な無意識の圧力があるが、マジョリティは気づいてはいない。マイノリティは、名乗らなければ存在が可視化されない。マイノリティも当然そこにいるものだとほとんどの人間が自然にわかっている状態にならない限り、私は私のアイデンティティを表明し続けなければならない。そこを間違えて表明されたら困るのだ。
人権の問題なのだ。レズビアンでも男性を愛することができるよね、では魂がしぼんでしまうのだ。わかるかな?

レズビアンという名前を当事者に戻してもらう

 レズビアン当事者が希望したのは、レズビアンというアイデンティティの表現の仕方を間違って利用しないでほしい、誤解を与える表現をしないでほしい、ということである。そこに、既婚レズビアンを批判する意味は一切ない。
 チェイサーゲームWはすばらしくがんばってくれたレズビアンドラマだが、セクシュアリティの捉え方に誤解を与える表現を利用したという点で、一切を台無しにするくらいのダメージを与えていると言える。

製作者の意図をさらに深読みしてみる

 製作者は、レズビアンカップルの描写には最高の技術を発揮できたと思う。しかし、レズビアン当事者としては、ここは?はてなと思うポイントがいくつかあった。そこを述べる。

レズビアン当事者の成長過程が見えない

 物語の流れとして、第4話で、冬雨の本当の気持ちがわかり、樹との関係を修復することになったが、その後、最終話に至るまで2人の間の関係性の変化は見えていない。最終話で、突然の涙の別れがあったが、それまでに樹や冬雨の心情を描写するシーンは挿入されていなかった。冬雨の至っては、夫とやり直したいと言い、樹にはバレてもいいと言い、職場では突然のカミングアウトと奇妙な行動を繰り返すが、それらを説明できる理由が全く見えない。

アウティングをするキャラクターにおとがめがない

青山はアウティングするキャラクターとして描かれているが、その事態の悪質さについて深く描かれていない。当事者にはアウティングは生死に関わる重大事案であるにも関わらず、アウティング行為が物語のスパイス的な位置で取り入れられている。それは、呂部長についても同じことが言える。フィクションといえど、事態の重大さを軽視している点で看過できない。

カミングアウトの扱いが軽すぎる

 スーパークローゼットのキャラクターにも関わらず、突然のカミングアウトが出現するが、イベントとしてありえなすぎて困惑した。アウティングもカミングアウトも当事者にとっては非常に慎重にならざるをえないテーマだが、ドラマ内での扱いはありえない。「きのう何食べた?」という同じくテレビ東京がやっているBLでは、カミングアウトをし受け入れてもらうまでの過程はゆうに20年かかっている。カミングアウトはそんなに簡単に表せるイベントではない。

セクシュアリティについての理解が不足していた?

 全体として、マイノリティが生きている事実への表現があまりにも軽薄すぎる。その扱い方は、ギミックとして、ドラマを盛り上げるスパイスとして、カミングアウトやアウティングを使ったようにも見える。現実に不利益を被り行きづらさを感じている対象に対しての態度としては不誠実にも見える。

マジョリティがマイノリティを描くことの限界?

 これは推測でしかないことを書く。マジョリティがマイノリティを描く上で、特権意識が無意識に出てしまうことがあるかと思う。レズビアン当事者に物語をお届けしたい!という強いメッセージには、かわいそうな当事者を救ってあげたいという同情的な意図、憐憫からくるメサイアコンプレックス(救世主思想)のようなものがあったのではないか?と推測する。彼らの見せようと思っていたものが既婚レズビアンつらいよね、こういうのはよくないよねというメッセージであったのであれば説明のつくところもあると思われる。設定を中国にしたのもその方がより環境的な部分の抑圧が大きく悲劇になるし、パワハラも圧力を受けることが辛いことにつながっている。

改めてチェイサーゲームWの良い所を振り返る

チェイサーゲームWの良い所は、たくさんある。ここで振り返ってみる。

樹と冬雨のケミストリーが最高!

 樹と冬雨が圧倒的に素晴らしい。これはまったく文句がない。最高にかわいい2人である。2人が愛し合っていた恋人であることはだれわかるしわかる。同性同士であることに何の違和感もない。ビジュアルも美しくレズビアンの希望や期待をたくさん叶えさせてくれる。また、年齢が成人女性であり、仕事をし、社会人であるという設定も良い。思春期の揺れ動く一過性のものではないことを証明してkる2人である。

主演2人が最高!

 中の人である樹である菅井友香さんと冬雨である中村ゆりかさんが大変かわいい。とてもかわいい。人柄が素敵で、SNSで見せてくれる姿も癒やしでしかない。仲が良く関係性が良いことが見える。ハピネスありがとう。

キスシーン最高!

 レズビアンで互いに愛しあっている人のキスシーンであんなに美しいものがみれたのは本当に稀有だと思う。綺麗で美しい。あと、そういう行為をちゃんとしたよねという事後の描写もちゃんと入っていて、ただのお飾りでないセックスもちゃんとする2人ですという描写がきちんと入っていたのも良かった。性的な描写は当事者以外はアレルギーのある人も多くいる問題があるだろうので、そこをあえて流す姿勢はほんとにありがとうと思う。

樹と冬雨のラブラブな関係性を映すシーンも最高☆

 エンディングや過去回想シーンなど、樹と冬雨のラブラブ時代の描写が愛にあふれている。最高。パラハラ上司の初期冬雨たんはそれだけの描写だとかなりイヤなやつになり果てたところを、回想シーンや妄想?シーンをはさむことによって、レズビアンの萌えを咲かせまくっていた。NGシーンの表出もオタクにはすばらしい刺激だった。

いつふゆ最高☆

 ので、2人の関係性だけに焦点を当てていればすてきなレズビアンドラマだった。これは間違いない。そう、いつふゆ最高だ☆

その他気になること

その他いくつか気になることがあるので書いてみる。

物足りない?

 青山をだしに使って冬雨に嘘を言う時「物足りない」が出てきたけれども、樹はたぶんだけどネコ(性的役割な意味で受け身のほう)じゃない。青山じゃないとダメっていう意味で言わせているのであれば、物足りないが性的な意味も持つとして文脈を考えるとおかしいなと。それはヘテロセクシュアル男子目線すぎなくない?オヤジ目線で気持ち悪いほうで考えてます。ごめんなさいー(陳謝)。

生理的に無理かと思う

 冬雨と結ばれて眠るベッド、夫のではないよね?気持ち悪いよ?大丈夫だよね?女性目線でいうとありえないから。あと、月ちゃんどうしたの?不倫で起こしちゃダメだよ。子どもは第一優先事項だよ。気になってドラマが楽しめない。こういうところの描写はもっと細やかに気を遣ってほしい。

ジェンダーの差?

 正直、上の2点に関しては、性別男性がやったかなと思っている。女性がみると嫌悪感があると思うのだが。偏っているかもしれないが。

監修は?

 LGBTQ監修がドラマとしてはあったようが何を指摘したのだろう?これは本当にただ素朴に疑問。レズビアン当事者としては、計り知れないダメージを追う事象がドラマ内に入っていて、全体的な製作者の意図にも無意図的な圧を感じるのだが。何も思わなかったのか。指摘したが軽く流されたのか。聞いてみたいところではある。

説明責任はないの?構造の問題は?

 製作者側がいくつかあったであろうドラマ制作にあたっての設定やその意図などについて、自身の見解を述べるチャンスがあったはずだが、今のところ見えていない。述べる気があるのかどうかもわからない。批判もあって、紛糾し、糾弾もされたとコメントもあるが、それに対する説明はどこからも発せられなかった。代わりに当事者が代弁した。それはありがたかったけど、製作者の意図は不明のままだ。イイネ!を押せば説明責任を果たさなくていいのだろうか。本当に?マジョリティが説明しないのはなぜ?意図があったこと、もし齟齬があったのであれば本来こういう意図があったといえばよくないかな。傷つける意図はなかった、見えていなかったものはこれと言うことができないか。そこには構造の問題が見えるけど。私はこういう態度にも怒ったと思っている。問題を振り返り、誠意をもってその時のことをお話するのはプロなら当然すべきと思っている。未熟さゆえ、勉強不足からくる無知ゆえ誰かを意図せず傷つけてしまうことは人間だから誰でも起こると思うけど。その後の対応の差で本当に相手を大事に思っているかどうかが見えるのではと思うけど。このあたりは人によって差が大きいかもしれない。この部分にどういう気持ちでいるのかで、本当に次のシーズンを気楽に待っていいのかどうかをジャッジしたいと思う。

本編後の流れ

まさかのファンミ開催☆

 いつふゆのファンミ開催☆本邦初かな?ありがとうございます。回鍋肉チンジャオロースーパシフィックセンキュー♪

日本と中国の扱いの差

 その後、公式様は毎日共有してくれました。ありがとうございます。そして、中国雑誌怒涛の情報ラッシュ。止まらない止まらない。謝謝。本当にありがとう。
 ただ、日本では取り扱いが薄かった気がする。テレビ東京の情報番組に番宣で菅井様が出られたときのはれものぽい空気はなかなかきまづかった。まだまだレズビアンドラマをナチュラルに受け入れてもらう土壌は途上の地にある現実もあるかなと感じた次第。

まとめ

 いつふゆは最高☆だった。それは間違いない。愛し合っている女性同士2人という表出はずっと待ち望んでいた。性的な意味でも惹かれあっているのが自然で問題がないという呈示もありがとうだった。本当に残念だったのは、最後の最後で、レズビアンという表象の扱い方の雑さが露呈したところである。本当に残念極まりない。これはマジョリティである製作者の限界かなとも思う。製作者が出来事を振り返り、扱う事象についてもっと深く考え丁寧に作ってもらえればもっと安心して観られるドラマになるはずだと思っている。今のところ萌えはあると思うけど、セクシュアリティについて安全安心に傷つかずに見るのは怖いのでできそうもないというのが率直なところだ。ただのフィクションとして、エンターテイメントとして見ればいいのかもしれない。でも、せっかく最高の2人が見れるのだから、最高にハッピィで安心して楽しめるドラマが観たい。そうなってほしいと切に思う。この願いが届いてくれれば嬉しい。次は念願のいつふゆのファンミだ。この機会を作ってくれた人全世界へ感謝してる。全世界に最高な2人のハッピィな物語が流れることを期待している。
 こんなに熱を持って心を動かされるドラマはなかった。思うところはいっぱいあるけど、それだけ愛情を持って見ていたからだなと思う。このドラマを世に出してくれてありがとうございます。もっともっとこんなドラマが出てくればいいな。あと、ド深夜ローカル局というマイナーでなくても出てきてくれたら言うことない。まだまだ途上の地だ。でも、希望は持っていきたい。夢はちょっと見れました。ありがとうチェイサーゲームw。

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