シン・エヴァ アスカはシンジの事がずっと好きである根拠

※この記事は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」のネタバレを多分に含みます。未視聴の方はご注意ください。

はじめまして。すんどめと申します。

私は10歳のころにアスカに初恋をし、現在に至るまでアスカのことを好きでいるエヴァオタクです。

昨日3/9、一日遅れで劇場に行った私は鑑賞後、想像を絶する喪失感に襲われ、その夜も一睡もできず延々と希望を探してネットの海にいました。

理由は無論、アスカについてです。今回の作品に関してアスカについては様々な方が感想を述べていると思いますが、私の場合も同様の気持ちと思ってもらって良いです。

その気持ちを払拭するため、夜通し考察に勤しんだ私の考えを見ていただければ幸いです。

結論

結論ですが「新劇場版における28歳のアスカは今もシンジの事が好きである」ということです。

すでに多くの方が考察を出されておりますが、この結論はかなりリスキーかつ同意を得ることは難しいと思っております。しかしながら、前提として今回の作品が解釈を視聴者それぞれ委ねていることを強調しているという事があります。アスカの「大人になっちゃった」発言叱り、おそらくわざと解釈の幅を持たせていると考えます。

そのため、私の考えが絶対のものではなく、一つの解釈としては「正解」であるとアスカファンに感じてもらえればと思っています。

① ケンスケとの関係

これが今回最も界隈を賑わせたトピックでしょう。もはや説明不要かと思いますが、28歳になったケンスケがアスカと一緒に暮らしている(アスカが一時的に身を置いている)描写があり、そこでの関係性も親しい中なのではないかと感じられるものだった。という場面です。

この件に関しては「ケンスケとアスカは恋仲である」派と「ケンスケとアスカは親子のような関係である」派に分かれていますが、私は後者だと感じました。

ケンスケが親としてふるまっている根拠は様々なものが出ておりますので割愛しますが、恋仲を否定する根拠として、アスカの幼少期のシーンで描かれるシンジと両親に対しての一人のアスカ→それに寄り添い頭をなでるケンスケがあります。ケンスケはアスカが大事にしていた人形の着ぐるみに入っておりましたので、親代わりの象徴そのものであると考えます。

ただ、ここでケンスケ=親ポジションとしてしまうのには一つ大きな問題があり、それはアスカが28歳であるという事です。

ケンスケ=親ポジションとした場合、しっくり落ちる根拠はたくさんあるのですが、外見のみが14歳で心は同い年であるアスカに対して親と表現するのは無理がある気がします。

見た目こそ年が離れていると感じますが、二人は同い年であり、精神の年齢は同じであるからです。

また、落ち着いているケンスケに加持さんを重ねて恋をしているという説もありますが、そもそもアスカは加持を本気で好いてはいません(アニメ版)

シンジへの当てつけであり、自分は子供ではないと主張する材料であるわけです。

ではアスカはなぜケンスケを親に近いものとみているのでしょうか。

それはアスカはまだ子供であるからです。

もちろん経過した時間は28歳ですが、その精神年齢はおそらくシンジとあまり変わらないのではないかと思います。

自分を子供だと思うからシンジにイラつき、ケンスケに親を見るのです。

アスカのセリフに「子供に必要なのは恋人ではなく母親よ」というものがありますが、これは聞いたとき多くの人がアスカ自身のこと言っていると感じたのではないでしょうか 。

これはもちろんその通りであり、だからこそ回想シーンにてケンスケが登場する意味があり、アスカに必要なのです。

ただ、それにはアスカが子供である必要があります。精神的に子供であるからこそ親という存在が強くなるのです。

それにより、最終決戦前のアスカのセリフ「アンタの事が好きだった。でも私は大人になっちゃった」が言葉通りの意味ではなくなってくるわけです。

② シン・エヴァのテーマと役割

この作品のテーマや役割に関してはすでにいろいろな考察がなされていますが、私はこの作品を『エヴァの登場人物をエヴァから解放する物語』であり『エヴァの象徴である14歳から大人にする=呪縛を解く』物語であると考えています。

エヴァの世界のキャラクターたちは皆不完全です。チルドレンはもちろんゲンドウやミサトさんもそうです。彼らも皆エヴァの呪縛に縛られていたのです。

今回の作品で、トウジやヒカリ、ケンスケが完全な「大人」として描かれます。これはシンジや黒波そしてアスカとの対比であり、彼らが子供であるという根拠となります。

シンジは冒頭からずっとあの調子であり、それは序やアニメ版のシンジと何ら変わらないものです。

レイも同じく、黒波は無垢な子供として徐々に成長していき、途中で役割を終えましたが、初号機の中にいたレイは14年間シンジを待っており、破から時が止まっている14歳の少女です。

最後にアスカですが、Qから通してみると大人の精神年齢とするとややおかしい点がいくつかあります。シンジをガキ扱いするのは最たる例で、同族嫌悪か自分にもある要素だからむかつくのか、14歳下の人間に対しての態度とは少し違うような気もしています。

シンでは、一見大人としてふるまってはいますが、働かず部屋でゲームをしている場面も、破での海洋研究所にて一人でゲームをしている場面から変わっていないことを表しています。

色々悟ってしまった部分もあるのはもちろんそうですが、ほかの「大人」キャラと比べて子供である描写が多いような気がしています。

トウジやヒカリ、ケンスケは変わることで大人になり、穏やかな、ゆっくりな時間の中で落ち着いた人物となっていますが、アスカは変わらずとげとげしさが残っています。

③好きだった発言

アスカは最後の出撃の際、マリに寄り道すると伝え、シンジに「アンタのこと好きだった。でも大人になっちゃった」と伝えます。(ここの「大人になっちゃった」は十中八九精神面の意味でしょうが、肉体関係をにおわす描写というのも、そう受け取っても良いという制作側の意図を感じます)

このセリフの意味はこのまま受け取ると過去形であり、14歳のころは好きだったとなります。しかし、考えれば考えるほど違和感を感じる部分があります。

まず「でも大人になっちゃった」というセリフです。これは子供のシンジのことをアスカは好きになれない”としている"セリフであり、本来一区切りや別れのセリフだとすると「アンタの事好きだった」だけでよいわけです。その理由をわざわざ言わなくてもよいのです。

また「なっちゃった」からもわかるように「私はもう大人だから」ではなく「なっちゃった」からも少し寂しさが読み取れます。

そしてそのあとのなんで14年ぶりにあったときに怒っていたかをシンジに問うシーンも、すでに未練が断ち切れており、ケンスケという居場所を見つけた後なら確認する必要もないような気もします。シンジがそれに答え「ちったぁ大人になったじゃない」"大人"になれるかどうかのテストをしたような気もします。

その後のマリのセリフ「すっきりした?」からの「すっきりした」もそうです。途中寄り道をするといってシンジのもとへ行ったのもそうですが、言わなければいけないから言ったではなくアスカが自分の意志ですっきりするために言いに行ったようです。やはり三号機の質問もそうですが、好きだっただけ伝えたわけじゃなく、シンジが大人になった確認も踏まえて「すっきりした」ではないでしょうか。

これは余談かつQでの話になりますが、Qではアスカはシンジを気にしており、マリはそんなアスカとシンジの仲をほほえましく見守っているポジションです。

その場面やQ後半の「姫を助けろ」発言叱り、やはり28歳のアスカとシンジにはフラグが立ち続けているように思いました。

④浜辺のアスカ

終盤のシーンにて、旧劇場版にて最後にアスカとシンジがいた浜辺に(おそらく)外見・精神ともに28歳のアスカが寝ており、そこにシンジが語りかけるという場面があります。ここのアスカについても諸説ありますが、今までのすべての『アスカ・ラングレー』の集合体とみていいでしょう。

そのアスカにシンジが「僕もすきだったよ」と語りかけます。これにアスカは赤面し、恥ずかしそうに背を向けます。

この発言と反応により、少なくともQ以降のアスカ(28歳アスカ)以外のアスカはシンジと好き同士という事は確定でよいのではないでしょうか。

では、28歳のアスカはどうか。この浜辺のアスカをすべてのアスカの集合体とした場合においても、あの反応自体は28歳のアスカの反応とみてよいと思います。

出撃シーンにおいて、子供であるアスカは大人になるためにシンジに「好きだった」と伝え、ゲンドウと戦い大人になったシンジは浜辺で「好きだったよ」のアンサーを送る。これを赤面で返すことが何よりの証明であり、イマのアスカの感情の動きであるわけです。その後シンジは「ケンスケによろしく」というわけですが、居場所を見つけて帰る、それが大人なのでしょう。

子供から大人になったエヴァパイロットたちがまた一緒になってしまうことはシン・エヴァの否定になります。各々の居場所を見つけることが呪縛からの解放となったわけです。

まとめ マリと駅のシーン

最後にマリと駅のシーンについてです。先ほど、シン・エヴァは登場人物たちをエヴァから解放する話だから子供として描かれているとしましたが、その例外としてマリがいます。

マリは新劇場版から登場したキャラであり、S-DATの曲を進ませたことなどから、一人枠の外にいるキャラクターです。そのためマリだけは唯一子供ではなく大人として描かれているわけです(マリの言動的に大人っぽくはないが、Qのアスカとのやり取りをみているとアスカとの対比で大人だと感じる)

次に駅のシーンですが、あのシーンはエヴァがなくなった世界であり、最終発の世界です。私はあのシーンの組み合わせに特に強い意味はなく、シンジを外界へ連れ出したのがイレギュラーであるマリだったととらえています。

向かいのホームにいたアスカ・レイ・カヲルですが、こちらもそれぞれの電車に乗ってこれから先の人生を進んでいくのでしょう。これも組み合わせに深い意味はないと考えています。アスカは心身ともにケンスケと同い年になったため、あの場所に親であるケンスケはいないと考えます。

以上になります。あふれ出た思いをなんとかまとめたので読みづらい部分もたくさんあるかと思いますが感想等いただけると幸いです。

ありがとうございました。




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