走ること

私は習慣的に走るようにしている。
精神とは肉体である脳と神経系によって生成・運用されるもので、日常的に肉体を鍛えることが精神的な体力を増強すると信じているからだ。

でもそんな理性的な理由とは別にして、突発的に走りたくなることがある。
なかなか思うようにいかない日々の鬱屈、素晴らしいものを観た時に言葉で表現しきれない残滓、納得できない現実に対する抑圧。
それら雑多な感情の奔流は、行き場を失い千々に乱れた濁流となって心を飲み込む。
そういう時、私は走り出さずにはいられなくなる。
必死に確証のある何かを掴みたくて、それが何かわからないが駆け抜けた先にそれがあるという気がして、ただただ躍動し、熱を帯びる脹脛が、大腿が、それを一瞬ごとに明確な形をとるような気持ちにさせる。

しかしある一瞬を超えるとその昂った感情は、嘘のように霧消する。
後に残るのは冷静な理性と、現在と地続きの未来だけだ。
そうして明瞭になった世界を見通し、やれやれと管を巻きながらただ愚直に前進する。
そうするしかないし、そうしようと思って今まで選択し続けてきたのだから。

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