マイノリティのフィードワーク

「しかも、〜はホモだからな」。イギリスの著名な研究者の悪口を言う中で、F先生がそう口にすると、狭い教室いっぱいの30名ほどの院生はどっと笑った。私の胸はギュッと締めつけられ、体が一瞬にして熱くなった。すぐに私は目を上げ先生を睨んだ。先生も口にするやいなや「あっ、しまった」という顔をして私の顔を見た。そして、渋い表情を見せ、雑談を止めて授業内容に戻った。隣に座っていた同期入学の友人T君は、少しも笑うことなく、むしろ少し硬直したように見えた。
ロの字形をした机の周囲を院生が二重に取り囲む教室、ちょうど向いに座っていた、やはり同期の友人Oさんは、その冗談に大きく口を開けて手を叩いて笑った。僕がゲイであることに関して、あれこれ会話したこともあるのに。ほとんどの院生/学生が笑っていた。ちょっとした間のできごとだったが、視野に入る人たちの表情がすべて記憶に焼き付けられた。私の顔は火照り、鼓動は激しく打ち、じんわりと汗がにじんできた。汗が出てきたことが気になり始めると、焦って汗はひどくなり、筋となり流れ始める。ジーンズのポケットから取り出したハンカチで何度も汗を吹きながら授業を受け続ける。授業が終わるまで汗は止まらなかった。
授業が終わり、先生が帰ろうとしたとき、「先生」と声をかけた。すると、彼は、「わかってる…言うな…」とだけ言って、教室をそそくさと出て行った。家に帰り、5、6時間どうしたらいいか悩んだが、思い切って抗議のメールを先生に送った。アグレッシブにならないように気をつけながら。先生からは、すぐに返信があった。そこには、「日本の大学で初めて、ゲイであることをオープンにしている学生に出会ったので、変に(ゲイに関する話題が)意識化されてしまったかもしれない」という趣旨のことが書かれていた。そこに謝罪の言葉はなかったが、きっとこれを機にきっと気をつけてくれるだろうと、深追いしないことにする。


これは、東京大学大学院の修士課程に入って間もなく起きたこと。

先生の冗談を引き起こしたものが何かはさておき、彼が、その冗談の直後、とっさに私を見たのは、私がゲイであることをオープンにして大学院に入っていたからだ。隣のT君がクスっともしなかったのも、私のことが頭にあったからだろうと思った(隣の彼が笑わなかったことがどんなに大きな救いだったか)。

そして、私は、ゲイであることをオープンにしていたからこそ、一層激しく動揺した。著名な研究者を「ホモ」と揶揄したその言葉は、その場の私にとっては私が揶揄され笑われたことと等しかった(他の専攻の受講生は、基本的に私のことを知らなかったが)。

私は、大学院の面接の際にも、大学院に入学した後に何度かあった、自己紹介する機会でもゲイであることを明らかにしていた。

それは、自分の研究がゲイコミュニティを対象にしたものであるため、自分のポジションを明らかにしておいたほうがいいと思ったこと、その後、どうしてそういうテーマで研究をしているのかと度々聞かれることを想像すると、その度に自分のポジションを説明すべきか考えるのが面倒だったこともある。

また、それまでの2年間、事務所にゲイ雑誌が置かれているような、自分がゲイであることを全く隠す必要のない団体で仕事をしていたため、指向性別が関連してくる話題(結婚や恋人との付き合い、タイプのアイドルなど)が出たときに、ゲイであることを隠すために話をごまかすことがバカバカしくなっていたこともある。

私がゲイであることをオープンにして大学院に入ったことは衝撃的だったらしく、自分の入った文化人類学コース外の先生方も知っていたとか。博士課程に進学して2-3年経った頃、他のコースの院生に、彼の研究について聞くために会っていただいたのだが、「実は、昔、お見かけしたことがあるんですよ」という。聞くと、私の入学直後、彼が彼の指導教員と大学近くの喫茶店で話しているときに、たまたま私がその店にいたらしく、その教員が私のことを「ゲイをオープンにして入った院生だ」と(否定的なニュアンスではなく)と話していたという。

私が大学院に入ったのは、1997年だが、当時はそういう状態だった。そんな中、指導教官はじめ、サポーティブな先生もいたし、私を気に入らないらしく露骨に嫌な態度をとる先生もいた。

修論の中間発表会。新宿二丁目のゲイバーのフィールドワークに基づいて、ゲイバーがそこに来るゲイにとってどういう意味をもっているか、という内容で書き進める予定を発表。すると、N先生が手を挙げて質問。「米国などでは、同性愛者も子育てをしているようだが、自分が同性愛者として生きる選択をする権利はわかるが、でも、育てられる子は? それで、同性愛になった場合、その子の選択の権利は?」
私の修論内容と全く関係のない質問に、そして誤解と偏見が含まれた内容に私は憤った。しかし、冷静に、同性愛者に育てられても、子が「同性愛者になる」わけではないこと、同性カップルに育てられた子も、異性カップルに育てられてた子も性的指向の率は変わらないという研究結果もあることを伝えた。
大きな怒りと落胆を抱えて家に帰った。指導教官ではないが、いつもサポーティブにアドバイスをくだっている先生に、その日の様子について報告するメールを送った。彼女の返事には、共感の言葉と「あなたが光を放っていれば、そうした闇は退くから」という励ましの言葉があった。


当時、私は、同性愛者の子育てに関する質問に、人文・社会系の大学教員でも、そうしたことに関する誤解があることに驚いた。今ではだいぶましになっているかもしれないが、まだまだ誤解も多いだろう。

このとき、私の研究と全く関係のない質問を向けられたことは、本人の意識、意図はさておき、攻撃的なものに感じた。あなたの研究の内容は全然聴いていません、関心ありません、ということをわざわざ示すという意味で。

入学直後こういうこともあった。その年の新入生に、文化人類学の体系的な知識が乏しい院生が少なからずいることを知り心配した助教が、新入生を集めて学問的指導の時間を設けてくれた。彼がその最初に言ったことは、「日本の文化人類学のテーマに合わない研究テーマの人は、今後、進む道を考えたほうがいい」というアドバイスだった。

それは、純粋に彼の親切心だったのかもしれないが、それはやはり私に対する攻撃だった。その時の皆の研究テーマを考えると、「日本の文化人類学のテーマに合わない研究テーマの人」の筆頭が私だったことは間違いなかったからだ。

しかし、「日本の」という言葉からわかるように、海外では、性的マイノリティに関する研究は、多いとはいえないまでも、それなりに蓄積があり、そのほとんどが、ゲイやレズビアンであることをオープンにしている研究者によるものだった。そうした研究成果を少しずつ読み進めるうちに、文化人類学における性的マイノリティの研究が、セクシュアリティの社会構築論に大きな影響与えたことも知った。

また、研究を進める中で、文化人類学にとって基盤ともいえる親族研究も、性的マイノリティにも重要なテーマだと考えるようになった。

それは、アフリカのある部族に、古くから「同性婚」(社会的な位置づけとしては異性婚だったりもするのだが)が制度化されて存在していることもあるが、親族こそが、ジェンダーとセクシュアリティに関する枠組みの再生産の要だからだ。

私は、学部(都留文科大)では英文科だったため、院試のために、文化人類学の基本的な部分は独学で学んだのだが、そのときには、親族というテーマは、退屈に感じ、もっとも苦手なものだった。それが、自分の関心テーマが重なっていくことが面白く感じた。

そうやって、私は、先行研究を追いながら、自分の研究テーマをその学問分野の中に位置づけ、また、オープンリーゲイとして研究を進めながら、大学院で教員と様々なやりとり(ネゴシーエション)を繰り返し、同期、先輩、(そのうち入ってきた)後輩との付き合いを重ね、関係を築いていった。

入学以来、いつ挨拶をしても無視し続ける先生もいたが、それでも毎回挨拶をし、年賀状を出し…と敬意を示しながら接するうちに、挨拶に反応してくださるようになった。ちなみに、院生から嫌な態度を示されることは一度もなく、当時、同じ時期に院にいた人たちとの関係に、今も助けられることも多い。

大学院に自分の位置を確保し、定着させていく生活は、まるでもう一つのフィールドワークのようでもあった(あくまで、「ようであった」だが)。

私は、「ネイティブ人類学者」(自分の属してる文化を研究する人類学者はそう呼ばれる)であるため、「異文化」性と馴染んでいくための努力の必要性は、大学院での経験の方が大きかったと言えるかもしれない。そこには、セクシュアリティの違いに関することだけでなく、出身階層差もあるように思われた。そういう意味でも、東京大学大学院という場で私はマイノリティであった。

実は、多くの性的マイノリティは、おそらく他のマイノリティも、日常的に、「異文化」性を感じる関係や集団の中に身をおきながら、「異文化」を観察し、自己省察しながら生活している。見えない属性によるマイノリティで、自分のことを周りに話していたない人は、丹念に周囲の観察と自己省察を照らし合わせて、バレないように努める。それでも(それだからこそ)、往々にして、そうした中では「他者」であることを感じる瞬間が、度々訪れる。

見える属性によるマイノリティは、それゆえに向けられる細かい攻撃(マイクロアグレッション)の中で、さらなる攻撃を引き起こさないように、観察し行動する。その瞬間はとっさの反応でやりすごしても、その後、その場面の相手と自分を省察したりするだろう。

見えない属性によるマイノリティは、どの場にもそれなりにいるはずだが、そうした経験はなかなか語られないため、顕在化してこない。見える属性によるマイノリティもそのマイノリティ性は意識されても、それをどう経験しているか、必ずしも語られるわけではない。

そのような経験の語りが少なければ少ないほど、社会は一枚岩だという幻想が広がり、語られる経験はごくごく一部の人たちのもので、それは無視していいノイズで、あるいは排除ずれば済む程度のものという思想が大手を振って歩き始める。

だから、私は、これまで自分のことを語ってきた。公でも、プライベートな関係でも。「もう語るのをやめて埋没しよう」と思うこともしばしばある。きっとこれからもそういうときは訪れるし、実際にいつかそうするかもしれない。

でも、埋没した後でも、私が書いたもの語ったものは、その声を聴いてくれた誰かの中に、何らかの形で触れた形跡を残してくれるだろう。だから、今できる間に、私自身の経験や、私が触れてきた、「同じ」社会に生きながら、時に「異文化」性や「他者」性を感じながら生きている人、生きた人の経験を書き記していきたいと思う。


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