一回きりのケアでも

ある学生とのやりとりで書いた文章に大幅に加筆したものです。
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人間は、もともと持っている肉体的、器質的な特徴があり、それを土台にしながら発達していきますが、自分の中に内在しているものが自ずと展開していくのではなく、周囲からいろんなものを吸収し、土台をも改変しながら、自己ができていく存在です。そして、それが表出され、それに対する周囲の反応があり、また自己が方向付けられていく面があり。

中島岳志さんの書かれた『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』という本をご存知ですか? 2022年に死刑が執行された、秋葉原で無差別策人事件を起こした加藤智大の生い立ちから事件を起こすまでのことを取材に基づいて書かれています。

無論、多くの人を殺害したことの罪は償うべきですが、この「軌跡」に、犯罪が起きる背景について考えさせられます。記憶は曖昧ですが、北欧のどこかの国では、犯罪は福祉の失敗として起きたものとしてとらえる考え方があると記事で読んだことがあります。私は、犯罪とは、ある人を舞台として生起するものというイメージを持っています。

最終的には、「舞台」となった人が責任を負うしかないのですが、「それぞれの環境の中で様々な人たちとのやりとりの中で「生起」するということは、本当は犯罪を犯した人だけの問題ではないということです。

犯罪は極端な例ですが、自傷的な生き方、貧困から抜け出すのが難しい生活スタイルなども、成育歴と強く結びついてることが多いのであろうと思います。しかし、確かに、家庭に介入するということは難しいことですし、親の在り方を変えていくことはほとんど不可能と言っても過言ではありません。

そうした中で、子にとって、家庭外に自分のことを気にかけてくれる人と出会うことは、とても意味のあることなのだろうと思います。それが短期間のやりとりでも、あるいは、一回きりのものでも。ときに、自分の人生に影響を与えたと思っていなくても、いつかの誰かの自分に向けてくれたケアのまなざし、言葉などが、自愛する気持ちを構成していることもあるかもしれません。

ここまで書きながら、ふと、小学2年のときに、わずかな期間ながら新聞配達をわやっていた自身の経験を思い出しました。

始めて最初の頃で、配達先を覚えるために、まだ新聞販売店の人がついて回っていたときのこと、配達先のご婦人が私にお菓子をくれようとしました。配達店の人も「いただけば?」という感じだったのですが、私は遠慮して固辞して受け取らず、御婦人と配達店の人は、顔を見合わせて苦笑いしていました。

「一回きりのものでも」「ケアのまなざし、言葉などが」と書きながら、そのときのことが頭に浮かんだということは、それが私に影響を与えた/与えているということなのだと思います。

その時は固辞したけれど、幼い頃、全く知らない人の厚意に触れたことで、漠然としたイメージとしての「人」に温かいイメージが根づいたのかもしれません。そういえば、尼崎市に住んでいた小学1年生のときには、急な雨に濡れてしまい、土手そばの小さなトンネルで雨宿りしていたら、セーラー服を来た中学生か高校生が自分のハンカチで、濡れた髪や顔を拭いてくれたこともありました。

他にも、酒を飲むと暴れて母に暴力を振るう父から逃げた私たち家族としてお世話になった人もいます。DV家庭での経験は傷にはなっていますが、人に助けられた経験が、「人」への信頼感を失わせず、生き延びさせる力をもたらしたのだと思います。

ついつい長くなりました。誰かを「救う」ことはできないとしても、長期的に関われなくても、大きなことでなくとも、一回きりの「ケア」が生涯心に残ることがある、それがサポートになることもあるという話をしたかったのでした。

今も、お菓子をくださろうとした方の庭に咲いていたスミレの花や、土手のトンネルの景色と雨の匂いを、私ははっきりと覚えています。


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