傷つく私、励まされる私、踏ん張る私

先月、新潟大学 男女共同参画推進室が主催する「新大 ALLY WEEK:LGBT講演会 in ZOOM」での講演の機会をいただいた。タイトル「地方におけるLGBT支援活動について」は、先方から講演依頼のときに提案いただいたもの。「支援」をタイトルに入れた講演は初めてだった。

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「支援」といえば、専門的には社会福祉や心理などの領域になるのだろうけれど、私はそれらの専門家ではないので、これまで自分が30年やってきた活動を、支援という視点で見直し、ゲイコミュニティ/ネットワークの中での経験、他の性的マイノリティとの出会いの中で考えてきたことを織り込む形で話をした。これまでの講演内容も使いながら、自分ならではの話ができたと思う。

今回は、その講演内容についてではなく、その後いただいた感想を読みながら感じたことを。

講演終了後、数日して、担当の方が講演参加者のアンケートの自由記述の部分をまとめて送ってくださった。『すぐに読んで、一言二言でも感想を送るのが礼儀かな』と思いつつ、実際に開いたのは、受け取ってから3日ほど経ってからだった。

講演後、参加者の感想をまとめたものをいただくことがよくあるのだが、たまに、その中にLGBTに対するネガティブな意見が書かれていることがあって、そうした言葉には、いまだに傷を負うような、傷が開かれるような感覚を覚える。そのため、講演後アンケートは、気持ちに余裕があるときに読むようにしているのだ。それでも、読むときには、どこか「えいやっ」と自分の背中を押さなくてはいけない感覚がある。こうした講演をするようになって20年以上になるのに…。

送っていただいたものは、A4サイズ3ページ分あった。読み始めてすぐに、胸が熱くなった。私の話を、しっかり受け止めてくれて、咀嚼し、考えてくれたことがわかる感想が多く、私の伝えたかったことが、多くの人に伝わったとも実感できるものだったからだ。担当の方が、否定的な感想は省いてくれた可能性もあるが、LGBTに対するものだけでなく講演内容に関してもネガティブな意見はなく、読み終える頃には目頭が熱くなっていた。

担当の方に別件でメールを送ることがあり、アンケートを読んだ感想も書き添えた。感想を送るタイミングとしては遅かったので、すぐに読めなかったことについて、先に書いたような言い訳めいた理由を記した。そして、今回のアンケートに感動したことを伝え、「いつまでもネガティブなコメントにダメージを受けるのと同様に、いつまでも肯定的なコメントには力づけられます」と。なんともないよくある言葉だけれど、そう書き綴ったとき、私はハッとした。


講演などの感想に含まれるLGBTに対するネガティブな意見に、「いまだに傷を負うような、傷が開かれるような感覚を覚える」ということはあるけれど、感想に感動したり、励まされたりすることがたくさんあったし、講演後の直接的な会話でも力づけられることもたくさんある。いや、そちらの方が大きかったからこそ、続けられた。

当然、そうしたことを忘れていたわけではない。実は、これまでも、「傷を負う」ことについて考えたあとには、たいてい、力づけられる経験の方が大きかったからやってこられた、と確認してきた。そして、私が生きてこられたのは、身近な人たちからの支えのおかげであり、講演も含め、様々な場を通して出会ってきた人、言葉にエネルギーをもらってきたおかげであると、感謝してきた。

そういう意味では同じ展開だったのだが、「ハッとした」のは、今回は、傷への回想、それだけじゃないという否定、皆への感謝、で終わらなかったからだ。


もともと、大きな割合を占めるわけでもないネガティブなものにフォーカスしてしまうのが自分の短所(生きづらさを増すという意味で)であることは気づていたし、3-4年前から、それが自分の精神的な健康を損なっていることを意識するようになっていた。

しかし、そんな問題点を意識しても、この年まで続いたその傾向性はなかなか変化せず、そんな自分にどこか呆れるような思いを抱くようになった。また、いつまでもネガティブな意見、コメントなどに傷つく自分があまりにも弱々しく、成長しないようで恥ずかしく感じるようにもなった。他の同様な講演をしている人たちは、実際はどうかわからないけれど、もっとたくましくやっているように見えるのに。

そんな思いが続く中、今回、先の感想を書きながら、前半の「ダメージを受ける」という話に続いて「肯定的な意見に力づけられます」と書いたときに、自分自身への見方が変わったような感じがしたのだった。

いつまでもネガティブなものにフォーカスする自分、すぐに傷つく自分もいるのは確かだけれど、受講者の、連帯する気持ち、私への評価、応援してくれる言葉や気持ちを受け取め、エネルギーにしてきた自分もいるのだと。私は、支えられ生きてきたけれど、私自身でも踏ん張ってきた(「私自身」は、自身外の人と環境の交差の中の存在なので、個内で完結はしているわけではないけれど、最後に力を振り絞るのは個となる)。


また、傷ついたときの痛みは、少しずつは軽くなっているし、傷の回復はだいぶ早くなったが、感動や励ましの大きさはいつまでたっても変わらない、それどころか、より強く感じることが増えている、とも気づいた。

こうして、感動し、励まされる気持ちを感じてきた自分がちゃんといると思え、感動や励ましをより強く感じるようになっていることへの気づけたのは、「変わらないなぁ」と思いつついも、ネガティブなものにフォーカスする傾向性を意識してきたことが関係しているかもしれない。

こうして前向きに考えられることがあっても、ネガティブフォーカス傾向が消えるわけではないので(と思うところも、ある意味ネガティブフォーカスだけど)、行ったり来たりするだろうけれど、前進した感覚は持てた。それだけでも、今回の気づきは大きい。

あ、もしかしたら、この前進は、10/31のツイキャス「すなひでラジオ」で、ハロウィーン特別回と理由づけして、録音は残さず普段は抑えて言わないようにしていることを言うということで、自分の自慢話をしたおかげもあるのだろうか。口に出して自分を褒めることもたまには必要なのかもしれない。


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