ミュージッキングと「青春のやり直し」「語りなおし」

先日書いた、「青春のやり直しをさせてもらった気がした『シンバシコイ物語』」で触れた中村美亜2013『音楽をひらく』(水声社)について、出版当時ブログに書いた文章の再掲。
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2013年09月30日
『音楽をひらく』(中村美亜)

最近、本を読むことがめっきり減ってしまい、学術書はなかなか読み通しづらくなっている。しかし、中村美亜さんの『音楽をひらく』は、読み始めてからは一気に読み通せた(病院の待ち合い時間に読み始めたのだが、おかげで長い長い待ち時間が苦じゃなかった)。

いやぁ、ほんとすばらしい。中村美亜さんは、東京時代からの知り合いで、彼女が所属する研究会で発表するきっかけをいただいたりもした。この本の中で重要なケースとして登場して来るプレリュードは、2010年のもので、僕がまだその主催団体の東京プライドの代表を務めていたときのものだ。

実はそのときのプレリュードの司会を彼女にお願いしたのは、僕だったのだが、僕も主催者の一人として経験したこのときの内容がこうして本に記され、そしてアカデミックに分析されているのは、とてもうれしい。

僕は以前から、東京などで活発におこなわれているLGBT関係の活動はもっと記述され残されるべきだと思っていたのだけれど、この分析は、それを成し遂げているだけでなく、その事例を、音楽を読み替えていく大きな論理構成の中に位置づけているところが、研究として卓越したものだと思う。

(以下は、この本の内容紹介というより、僕になりに受け取ったを僕の言葉に直しつつ書いたものです。なので、彼女自身のニュアンスとだいぶ異なるところもあるかもしれません…)

▼ミュージッキング (musicing)

音楽を、それぞれの曲に内在する「正しい意味」や「本質的な美しさやすばらしさ」を伝達するモノとしてとらえるのではなく、その演奏を取り巻く環境、演奏が実現するプロセス、演奏される文脈等も含めてコトとして考える(クリストファー・スモールは musicing という概念でそれを提唱している)…この本の基幹を形成しているこの音楽観の転換は、数年前に初めて中村美亜さんから聞いた。そのとき、「なるほど!」と納得したことを覚えている。

というのも、僕は、20代の頃から、巷にあふれる「演奏会」についてずっと不思議に思ってことがあって、この話を聞いて、ようやくその疑問が解けたと感じたからだ。

その疑問とは、学校の部活や市民サークル等のアマチュアの演奏会を聴きに行く意味ってなんだろう?ということだった。僕も高校時代は、合唱部の定期演奏会に歌う側として参加していたし、友人が演者として舞台に上がるのを楽しみに観に(聴きに)行った。東京の生活の中で、ゲイの合唱団や吹奏楽団、LGBTの管弦楽団の演奏会などに足を運ぶのは本当に楽しみだった。

しかし、音楽そのものを楽しむとして考えるなら、結局はプロの演奏を聴きに行ったほうがいいわけだよね…、とふと思うことがあった。ゲイやLGBTの楽団は総じてレベルが高いが、世間の趣味グループの中には、そうでもないグループもある。それでも、人々は聴きに行く。もちろん「付き合い」で行かないと、とか、知り合いのがんばっている姿を見たい、とか様々な動機や気持ちがあるからかもしれないが、その聴衆の個別の感情に還元するだけでは、何かをとらえそこねている、と感じていたのだ。

それが、音楽を、musicingとして、演奏がおこなわれる(あるいは生起すると言ってもいいのかもしれない)場やプロセス、文脈そのものに広げて考えると、腑に落ちるものとなった。

▼語りなおし

そして、その演奏そのものが、正しい意味や美を伝えるものではなく、語りなおしとして共有されるその様子が、「プレリュード」やHIV/AIDSの啓発イベント「Living Togher ラウンジ」を例に示されている。

合唱団が演奏するものは、がっちりとした合唱曲が多いが、ポップスが演奏されるときには、アンジェラ・アキの「手紙」や、いきものがかりの「YELL」、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」という曲が選ばれている。それらの曲がこのプレリュードという場で演奏されることの意味を(ほかの演奏も含めつつだが)、「青春のやり直し」「語りなおし」という言葉で中村さんは表現している。

その意味が、僕には心に沁みるようにわかる。個々人の経験にはもちろん違いはあるし、そしてそれぞれの経験をどう意識するかもバラバラではあるけれど、LGBTは、「青春時代」に疎外を経験しがちであることは確かだと思う。一見うまくやり過ごしたり、溶け込んでいるように見えても…。

そのことをそこにいる皆の意識にのぼらせずとも、語りなおしとして、それを通したケアとして、この場の音楽は生成しているのだろう。

▼学問分野の枠を超えて

この本では、音楽観をめぐる近年のアカデミックな分野での転換についての紹介と、それに対する彼女の取り込みと批判を踏まえて、 musicing の現場の記述を簒奪的にならない形で(と僕は感じた)記述し、さらに、音楽の持つフェティシズム的仕組みの分析等、さらなる理論的な展開をはかっている。

それは軽々と学問分野を超えたものであり、その筆致は、そうすることの楽しさを歌っているかのようである(もちろん、書いた本人は苦しんで書き記したものと思うが)。久しぶりに研究の楽しさを思い出させてくれるような本だった。こういう本に巡りあうと、また研究をしたい、自分の書いたものを世に出したい(出さねば)とふと思ったりする。

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