(再録)幸運の中で生き延びて
2008年、琉球新報の「落ち穂」で連載していた頃に書いた文章。
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年の瀬に誕生日を迎える僕は、暦の一年と自分の一年を重ねて振り返る。その振り返りの中で、一年を無事に過ごせたことの重みを痛感するようになったのは、いつの頃からだろうか。
自身の入院や手術、また肉親や友人との死別を経験する中で、生き長らえることの偶然性を意識するようになったことや、住む家があり日々食べることに困らない生活が、いかに恵まれていることかわかるようになったことが、日々の、そして一年の重みを感じさせるようになった。
生きていることが幸運の連続であることは説明するまでもないだろう。人の命は、いつ終わるかしれないもの。だから、一年を生き抜けたことはある意味で奇跡だ。
そして、家と食べ物に困らずに暮らせることも、幸運の積み重ねの上にあることで、決して自身の「努力」だけに還元されることではない。たまたま高い教育を受けられるだけの経済的な背景があったこと、病気をしても、それが仕事をする上で不利にならなかったこと、そんな恵まれた環境のおかげだ。
安定した仕事が、すべての人のぶん用意されていない以上、「努力」の量に関係なく、必ず誰かがはじき出される。『ルポ最底辺』の著者、生田武志さんは、この状況を「椅子取りゲーム」に例える。仮にすべての人が今の千倍「努力」しても、誰かが必ずはじき出されるシステムである限り、椅子に座れないのは、「努力」の問題ではないと。
そう考えると、今僕が椅子に座れているのは、恵まれた環境を背景にして、誰かをはじき飛ばした結果だ。しかし僕も、余裕のある生活をしているわけではない以上、常に椅子に座れなくなる可能性を持っている。僕も、経済的理由によって住むところを失ったり、路上生活になっても全くおかしくない。だから僕は、不安定就労の問題に関わる団体に、ほんのわずかながらも寄付をしたり、関わったりしている。また、命を与えられていることへの感謝の思いは、社会運動の動力源となってきた。だから、僕は生きている限り、これからも社会運動に関わり続けていくことだろう。
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