謙虚と謙遜

美容院で何気なく適当に選んだ雑誌を開くと、ちょうどあるアナウンサーのエッセイ連載のページだった。そのアナウンサーは大体こんなことを言っていた。

「最近海外の映画を見たんですけど、主人公が責任の大きい仕事をクリアした時に"これだけ頑張ったんだから当たり前よ"みたいなことを言ってたんです。凄くかっこいいなと思って。ポーズだけの謙遜をするくらいなら私もこんな風に言える人になりたいと思いました」

ポーズだけの謙遜。
わたしはなんだか、この言葉がどうしても引っかかってしまった。
恐らく、謙遜又は謙虚である事を大切だと考えているわたしの思想を貶されたような気持ちになったからだろう。

わたしはできているかは別として、謙虚に生きたいと思っている。けれどこの出来事をきっかけに、なるほど謙虚や謙遜という概念について深く考えたことがなかったなと気づいた。ちなみに辞書的な意味はこうだ。
謙虚とは"自分を偉いものと思わず、素直に学ぶ姿勢があること"。
謙遜とは"控えめで慎ましい態度を取ること"。
わたしは謙遜とは謙虚であることの意思表示だと考えていた。つまり謙虚と謙遜のベクトルは同じだと思っていたのだ。

わたしは謙虚や謙遜を大切に生きたいと考えているけれど(できているかは別として)それは自分を否定したり卑下することではないと思っている。
謙虚とは、ありのままの自分をしっかりと理解すること。必要以上に自分を過大評価せずまた過小評価したり卑下したりもしないこと。そして今の自分が存在できている理由、例えば助けてくれた友人、支えてくれた職場の人などへの感謝を忘れないこと。これこそが謙虚なのだと考えていた。

とまで考えた時に、"今の自分が存在できている理由"から"自分自身"が抜け落ちていることに気づいたのだ。周りの自分をサポートしてくれた人間に感謝できるように、なぜ誰よりも近くで誰よりも長く自分と向き合った"自分自身"には感謝しないのだろう?と。

となると冒頭の、アナウンサーが観た映画の主人公の行為。これは自分が"頑張った"ということを1つの事実として受け止めそんな自分に感謝した結果自分をうんと褒めているのだとしたら。これもある意味、謙虚のうちの1つなのではないだろうか?
しかしこの行為は謙遜とは呼べない。なぜなら謙遜は"控えめで慎ましい態度"を指すからだ。

そう。そう考えると「謙虚と謙遜」は同じ様にみえて実は微妙に違う方向を向いた言葉だったのだ。

(執筆途中)

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